11

鳥ポケモンのさえずりが聞こえる。ゆっくりと目を開けると、頬に冷たい木の温度を感じた。
うつ伏せで眠ることはよくあったけれど、今日は何かが違う。
上体を起こして、そして気付いた。私は椅子に座り、丸いテーブルに凭れるようにして眠っていたのだ。

「あれ……?」

おかしい。昨日は確かにベッドに入って眠った筈なのに。
そこまで考えて私は気付いた。一気に目が覚めて、背筋が伸びる。頬がぱっと染まり、緩やかな眩暈が心臓に届き、鼓動を大きくする。

そうだ。昨日の夜中、私は「彼」に会ったのだ。このお城が見せた不思議な魔法の産物だったのかもしれない。私が見た幻覚だったのかもしれない。
けれど私は、彼の手の温度を覚えている。バルコニーから落ちそうになった私の手を掴んだ、冷たい手の温度をこの手に覚えている。
そして何より、あの赤い目は、今まで私が夢に見たどんな「彼」のそれよりも鮮やかで、美しかったのだ。

今までにない高揚感が私の心臓を揺らしていた。今日はきっと素敵な一日になる。根拠などなかったけれど、そう思うことができた。

私はクローゼットを開けて、私でも着られそうな、シンプルで装飾の少ない服を探す。
城に用意されている服だけあって、その殆どがドレスのようなものだったけれど、その中でも使用人の人達が着るような、シンプルな濃い青のエプロンドレスが目を引いた。
これなら私が着ても違和感がないかもしれない。パーティやダンスに着るようなドレスに縁のない私は、あの美しすぎる装飾や多すぎる布がどうにも苦手だった。
ワンピースを脱いで、エプロンドレスを頭から被った。腰まである長い髪を一つに束ね、サイズの合う、動きやすい靴を選んで履き替えた。

そうしているうちに、トウコさんが起きたらしい。閉じられていた鏡台の扉が大きな音を立てて開いた。

「おはよう、トウコさん」

「……ああ、おはよう。そっか、今日からあんたがいるんだったわね」

起きたばかりのようなふわふわした声音を漂わせる彼女に違和感を覚える。その声音は確かに寝起きのものだったけれど、その目は確かな覚醒の色があった。
彼女は私より前に起きていたのだろうか。けれどそのことについて言及するのは躊躇われた。
彼女が何かを隠していることは明白だったけれど、まだそれを追及してはいけない気がした。だって私達は、知り合ってまだ1日しか経っていないのだから。
私が喉まで出かかった疑問の言葉を飲み込んでいると、扉がノックされた。先程までの上機嫌から一転して、私は肩を強張らせることになった。

「は、はい!」

扉の方へと向かいながら返事をする。しかし予想に反して、聞こえてきたのはあのバリトンではなく、女性の穏やかな声だった。

「バーベナと申します。朝食をお持ち致しました」

その言葉に私は思わず固まってしまう。
今、扉の向こうの女性(声が女性だというだけで、おそらく彼女も何らかの「もの」の形をしているのだろう)は、朝食を持って来たと言った。
それはつまり、……どういうことだろう。予想していなかったその言葉に頭がフリーズしてしまった。
けれど、頭は働かなくなっても体は動くようで、扉をそっと開ければ、ワゴンに乗った小さなポットが喋っていた。
白い陶器に、ピンク色の小さな花弁が描かれた可愛らしいポットだ。
側面には水が波打つように滑らかな凹凸が彫られていて、シンプルだが凝った装飾が施されていることが容易に見て取れた。

「初めまして。これからお嬢様の朝食とお昼の軽食を担当させて頂きます」

お嬢様、とは誰のことだろう。まさか私のことなのだろうか。
あまりのことに茫然としてしまった私に、バーベナと名乗ったポットの女性は不思議な顔をしてみせる。
私ははっと我に返り、慌てて頭を下げた。

「こ、こちらこそ初めまして。シアと言います。よければ、名前で呼んでください」

笑顔を取り繕ったけれど、まだ事実が思うように消化できない。
つまり、これから毎日、この女性が私の朝食を持ってきてくれるということなのだろうか。
自分がこの城のキッチンを借りて、今まさにこれから朝食を作りに行くところだったとは言えず、私は差し出された朝食を受け取るしかなかった。
お城の生活って、私が何もしなくても、生活に必要なものが全て与えられてしまうものなのかしら。
本の中の世界だとばかり思っていたものが、突如として私の目の前に差し出されてしまい、私は困惑する他なかった。
こんな待遇、私にはあまりにも似合わない。

「今日はダージリンをご用意しましたが、ご希望の茶葉がありましたら申し付けくださいね。直ぐに取り寄せますので」

「あ、あの!」

素早く朝食をテーブルに並べ始めたバーベナさんに、私は声を掛けた。
まさか「ダージリンって何ですか」と聞く訳にもいかず、私は迷った後で無難な言葉を紡いだ。

「このお城には、どれくらいの人がいるんですか?」

「ふふ、人はお嬢様……シアさんだけですよ。ですが私のようなものも含めるなら、50人は軽く超えていると思います」

50人!あまりの多さに驚いたけれど、この大きな城には、その大人数をもってしても少なすぎるような気がした。
きっとその中には、グランドピアノのNさんや、燭台のダークさん、鏡台のトウコさんも入っているのだろう。
けれど、まだ私の知らない人が、この城には大勢いるのだ。それを思うと少し、心が浮き立った。

「あの、バーベナさん。私、お城の皆さんに挨拶をしたいんです。これから、ずっと此処で暮らすことになっているので、全員の顔を知っておきたいなと思って」

「え……?」

「食事の後で、お城の中を案内してくれませんか?」

彼女は驚いたように、紅茶を注いていたポットをぴたりと止めた。
そのままだと紅茶がカップから溢れてしまいそうだったので、慌てて手を添えてポットを起こし、ワゴンの上に乗せると、「恐れ入ります」と深々と礼をされてしまった。
彼女は少しだけ考え込んだ後で、小さく笑って私の頼みを了承してくれた。

「私はこのように小さいので、ゆっくりしか移動できませんが構いませんか?」

「え、私が両手で持って歩いちゃ駄目ですか?」

昨日、燭台のダークさんを手の平に乗せて運んだように、このポットの姿をした女性のことも、両手に抱えて歩くつもりでいた。
ダークさんは男性だったけれど、流石に女性を持ち上げるのはマナー違反だったかしら。そんな風に思っていると、鏡台が小さく震えて含み笑いを始めた。
やはり失礼なことだったのだろうか。咄嗟に謝罪の言葉を紡ごうとしたけれど、バーベナさんも同じように笑っていたので、開いた口が紡ぐべき音を失くしてしまった。

「嬉しいのよ。そんな風に頼られたり、大事に扱われたりしたことなんかなかったから」

バーベナさんの代わりに、トウコさんがそう説明してくれた。
……この城には、もう何年も人間が暮らした形跡がない。人間に使われる筈の家具や食器は、ずっとこの暗い城で眠り続けてきたのだろう。
だからこそ彼等は、私のちょっとした言葉や態度にとても敏感だ。
昨日の夕方、私の腕の怪我を手当てしてくれたトウコさんが、私の「ありがとう」というたった一言に驚いたのは、そういうことだったのだ。

それを考えると、この「何もしなくても朝食を持ってきてくれる」という最上の待遇も、無下にすることはできなかった。
暫くは、朝食を用意してもらおう。私が此処での生活に慣れた頃に、また別のお願いをしてみよう。
……例えば、彼等と同じようにキッチンに立って、料理を教えてほしい、とか。そうしたお願いはもう少し後にしておこう。
今はただ、久し振りの「来客」として、それらしく振舞っていたかった。それが私をもてなしてくれる彼等への礼儀のような気がしたのだ。
けれど、それでも彼等に挨拶をすることくらいは許される筈だ。

「では、30分後にお皿を取りに伺います。その時に一緒に城を回りましょう」

笑顔でそう告げて、くるりと向きを変えたワゴンを、私は思わず掴んでいた。
どうしました?と尋ねてくれる彼女に、私は更なる我が儘を口にしてしまう。

「あの、一緒に食事をしませんか?バーベナさんのことを聞かせてください」

その瞬間の沈黙を、どんな風に表現すればいいのだろう。
会話の中に生まれる空白にしては長すぎるそれは、今までにない重さと淀みを持っているように感じられた。
けれど暫くして、その沈黙をバーベナさんの小さな笑い声が破った。

「では、ご一緒させて頂きます。私は食事の必要がないので食べ物を口にはしませんが、その分、お喋りにお付き合いさせてくださいね」

鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。
彼等には顔が付いているけれど、それはあくまで「心」の象徴であり、「個性」を具現化するためのもので、本当に「生き物」になっている訳ではなかったのだ。
食べ物を食べることができない人に、食事を勧めてしまったことへの罪悪感が重くのしかかっていた。
私は顔を青ざめさせて謝ったけれど、彼女は笑いながら顔を横に振った。

「いいえ、お気になさらないでください。シアさんにとっての食べ物が、私達にとってはそうでないだけの話ですから」

その笑顔で、私は許されたのだと悟り、出されたロールパンを手に取り、千切った。
焼きたてのそれは、口に入れた瞬間に僅かな甘みがふわりと広がり、ジャムを付けなくても十分に美味しい。
けれど「こんな美味しいパンを食べたのは初めてです」とは、どうしても言えなかった。その美味しさを、彼女とは共有することができないのだと知ってしまったからだ。
バーベナさんの笑顔は私を許している。けれどあの時の重すぎる沈黙が、まだ私を叱責し続けていた。


2015.5.15

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