10

彼に切り裂かれた腕の傷を、トウコさんは手際よく手当てしてくれた。
宙に浮く消毒薬や、勝手にくるくると巻かれていく包帯には、もう驚かない。この城には魔法が本当に存在するのだと、私は確信せざるを得なくなってしまった。
何でも宙に浮かせられるの?と尋ねてみたが、そういうわけでもないらしい。
この消毒薬や包帯は、彼女の鏡台の中に入っているものだから、彼女の管轄として自由に扱えるのであって、他のものを動かすことはできないのだとか。

「こんな広い部屋、私一人が暮らすには勿体ないわ。私の暮らしていた家よりも広いんだもの」

「へえ、村の暮らしは慎ましやかなのね。私はずっとこの城にいるから、もうこの広さが当たり前になっちゃったわ」

手当をしている間、トウコさんは私が住んでいた村の話や、私の住んでいた小さな家の話などを、楽しそうに相槌を打って聞いてくれた。
この城から出たことがない鏡台の彼女にとって、城の外はそれこそ、おとぎ話のように隔てられた世界なのかもしれない。
それこそ、私の住んでいた村と、私が焦がれていたあの本の中の物語が隔てられていたのと同じように。

はい、おしまい!と、包帯が綺麗に巻かれ、私はそこをそっと撫でて微笑んだ。
とても上手だ。私が自分で手当てしたならこうはならなかっただろう。

「ありがとう」

すると彼女は驚いたように、その青い目を見開いて沈黙した。
どうしたの?と尋ねたけれど、彼女は「さあね」と言葉を濁して答えてはくれなかった。
私はそのことに特に頓着せず、鏡台の椅子から立ち上がり、広い部屋の中を見て回ることにした。

お洒落な天蓋付きのベッドに、丸いテーブルと椅子。全身が映る鏡に、高い天井まで伸びる大きな窓。
他にもベッドの隣のチェストや、その上に置かれた花瓶など、家具や雑貨らしきものはあったが、この部屋で勝手に動き、喋るのは燭台のトウコさんだけらしい。
全てのものが自我を持っている訳ではないようだ。何を基準に決められたのだろう。そんなことを思いながら、私は大きなクローゼットの扉に手を掛ける。
中には、数え切れない程のドレスや服が入っていた。全て女性用だ。私の持っていた服の何倍もの量がある。この城にはかつて人間が住んでいたのだろうか?
トウコさんに尋ねてみると、彼女は左右の鏡をパタパタと動かし、意味有り気に笑ってみせた。

「来客に合う服を用意しておくのは当然のことでしょう?」

「……私以外にも、人間が住んでいるの?」

「そうね、10年くらい前には住んでいたような気がするわ」

煙に巻くような言い方だったけれど、それは事実なのだろう。やはり私の他に人間はいないのだ。
寂しさを押し殺すよう肩を竦めてみせれば、彼女は何がおかしいのかクスクスと含み笑いを始めた。

「寂しいなんて、思っていられなくなるわよ。あんたが此処に住んでくれることになって、喜びまくっている連中が大勢いるんだから」

その言葉は少なからず私を驚愕させた。
私は、歓迎されているのだろうか。半ば軟禁のような形で城に住むことを強要されたけれど、私の存在に、喜んでくれる人がこの城にはいるのだろうか。
城の皆に挨拶をして回りたいと思ったが、下手に城の中を歩き回ればまたあの人の爪が飛んできそうだ。
それに、少なくとも今日は、そんな元気はなかった。あらゆることが一度に起き過ぎていて、私は疲れ果てていた。

アンティークの時計は夜の7時を指している。いつもなら夕食を食べ終え、蝋燭を挟んでシェリーと話をしている頃だった。
思えば今日は何も食べていない。けれど空腹だとは感じなかった。代わりに強烈な睡魔が襲ってきて、私は慌てて蝋燭を消してベッドに倒れ込む。

天蓋が付いているベッドで眠る日が来るなんて、思ってもみなかった。
白いレースのカーテンを手に乗せれば、粒の細かい砂のように、サラサラと滑り落ちていく。
何もかもが私の住んでいた場所と違っていて、初日から眩暈の連続になりそうだ。
「ごめんね、少し疲れちゃった」と私はトウコさんに呟き、着替えることもせずに目蓋を閉じる。

シェリーは無事にあの森を抜けられたかしら。サーナイトはアクロマさんに薬を貰えたかしら。
少なくとも、村の人ならシェリーの不在に気付いてくれる筈だ。森の中を探してくれているかもしれない。
森の中を走り回って、怪我をしていないといいけれど。

それにしても、今日一日で沢山の人と出会った。……いや、正確には皆、人ではないのだけれど、人の言葉を話す彼等を私はどうしても「もの」として見ることはできなかった。
グランドピアノのNさんに、無口な外套掛けのダークさん。燭台のダークさんは饒舌で陽気だ。もう一人、置時計のダークさんがいるらしいけれど、まだ出会えていない。
……そう言えば、燭台のダークさんやトウコさんが、気になる名前を口にしていたような気がする。確か、

トウコさん。彼がゲーチスさんなの?」

彼女の返事を聞くことなく、私は眠りに落ちていった。

夜中、月明かりで目が覚めた。
あれ程分厚く空を覆っていた雲も、すっかり流れてしまっている。大きな窓に手を付けて、丸よりも少しだけ欠けた月を見上げる。
月は、あの村で見上げていたそれと変わらない。半月よりも大きな月の時には、蝋燭を使わずに、月の明かりで本を読んでいた。
つい昨日までしていたことの筈なのに、ひどく懐かしいと感じてしまった。

「わっ!」

そんなことを思いながら窓に体重をかけると、開かないと思い込んでいた窓には鍵が掛かっていなかったらしく、勢いよく開いて私はバルコニーに飛び出してしまった。
ふわりと優しい風が頬を撫でていく。腰まである私の長い髪が煽られてはためく。
バルコニーの手すりに逆向きに座り、髪を外に下ろしてみた。うなじを掠める風が心地いい。すっかり目が覚めてしまった。

「落ちても知らないぞ」

瞬間、どこからか聞こえてきた声に驚いた私は、その声の通りになってしまった。すなわち、あまりの驚きにバランスを崩し、後ろへと倒れ込んだのだ。
ふわりと空を飛んだような感覚を覚え、もうおしまいだと感じたその時、私の右手が強く握られる。
呆気に取られている私を、その人物はぐいと引っ張って手すりから引き戻した。私はバルコニーの冷たい床に膝を着けて、座り込む。そして、見上げた。

その、火に映えるような赤い隻眼を。

「……」

あまりの驚きに言葉が出なかった。
貴方は誰?何処から来たの?どうやってこの城に入ったの?この城には人間は一人もいないのではなかったの?
浮かぶ疑問は数多くあった筈なのに、どうしてもそれらは音の形を取ってはくれない。
だって、「彼」がいるのだ。肩より少し短い、淡く、けれど鮮やかな緑の髪に、夕日のように燃える赤い目。
私が何度も何度も思い描いた「彼」が、私の目の前に立っているのだ。

「お前、魔法を使えるんだろう?」

けれどその彼がとんでもないことを言いだしたので、私は慌てて首を振り、否定の意を示した。
私が、魔法など使える訳がない。確かにこの不思議なお城には魔法が掛けられているけれど、私は昨日来たばかりの人間だ。
魔法なんて、使えない。私は、あの本の中で幸せに暮らした、魔法の使える美しい少女にはなれないのだ。

「いいえ、使えないわ。きっと人違いよ。貴方の探している魔法使いは、私じゃないの」

「いや、お前は魔法が使える。だからこの城に来たんだろう?」

私の否定をいとも容易く切り捨て、彼はその主張を譲らない。
そうじゃない。私がこの城に来たのは、シェリーの身代わりになるためだ。魔法が使えるから呼ばれたなんて、そんなこと、ある筈がない。
私は、魔法など使えない。私は、貴方達のような美しい物語の外にいるのだ。

けれど私はそう紡ぐことを忘れていた。
だって、彼の目が、あまりにも美しいのだ。
火に映えたような赤、椿の雨が降ったような赤、目を刺すような紅、燃える夕日のような赤。
あの本に書かれていた、彼の隻眼を表現するための言葉を、私は全て覚えている。忘れられる筈がなかった。だって私はずっと、この色に焦がれていたのだ。

「貴方の目はとても綺麗ね」

「!」

「燃える夕日のような赤、血のように鮮やかな赤い隻眼」

歌うようにそう紡ぎ、笑ってみせた。
これも、このお城が私に見せてくれた魔法の一つなのだろうか。
それでもよかった。今はただ、夢にまで見た彼の姿が、私の目に焼き付いているという事実を噛み締めておきたかった。

「ねえ、月がとても綺麗ね」


2015.5.15

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