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この城にはもしかしたら、人は誰もいないのかもしれない。先程から暗すぎるこの空間を歩き続けているけれど、人間の姿は一人も見つけることができなかった。
その代わり、廊下や部屋の中には多くの「もの」が顔を持ち、ひとりでに動いていた。
1階のキッチンからはお洒落なワゴンに乗ったポットが出てきたし、廊下の小さな棚に置かれた時計は、じっとこちらを見つめていた。
本当に不思議なお城だ。私はそれらを一つずつ見ながら、彼の姿を見失わないように一定の距離を置いて付いていった。

2階に上がり、喋るグランドピアノが置かれていた部屋の隣にある、上品な扉の前で彼は立ち止まった。
私はその後ろに立ち、その鋭い目から、この部屋に入るようにと促されていることを察して、ドアノブに手を掛けた。

「……何か、不自由があれば言いなさい」

その言葉に、堪えていたものが勢いよく弾ける音を聞いた気がした。
不自由があれば、なんて、よくもそんなことが言えたものだ。私の不自由は、貴方が私に与えたものだというのに。貴方は私を逃がす気など更々ない筈なのに。

「それじゃあ、ひとつだけ」

私は振り返り、真っ直ぐに彼を見上げた。その赤い目が一瞬だけ動揺、もしくは狼狽の揺れを見せた気がした。
大きく息を吸い込んだけれど、疲れ果てた私の喉は情けない声しか出してはくれなかった。

「今日はもう、誰にも会いたくない。お願い、私を一人にして……!」

最後の懇願は震えていて、私は扉を開け、逃げるように部屋の中へと滑り込み、大きな音を立てて閉めた。
その瞬間、私は糸が切れたように扉に凭れて崩れ落ち、声をあげて泣いた。
扉の向こうは暫く静かなままだったけれど、やがて彼の足音が徐々に遠ざかっていった。

もう、あの村には戻れないのだ。
シェリーと一緒に夕食を食べることも、アクロマさんの家でお喋りをすることも、もう二度とできない。
あの家で、蝋燭の明かりで夜更かしをして本を読みふけることも、静かな村の空を、クロバットに乗って飛び回ることもできない。
ずっとこの城で、飽きる程に永い時間を生きていくしかない。

私は、ひとりだ。

広すぎる部屋で、私は嗚咽を零し続けていた。
彼は私をこの城に閉じ込めてどうしようというのだろう。私はこれからどうやって生きて行けばいいのだろう。
いっそのこと、廊下にあった大きな窓を蹴破って、クロバットに乗って飛び出してしまおうか。
そう思ったけれど、あの理不尽な要求を突きつけた彼のことだ。きっと逃げ出したと知れば、直ぐに追いかけてくるだろう。
そうして私が捕まって殺されるならまだいい。けれど私の代わりに、シェリーが手に掛けられてしまったらと思うと、とても逃げ出す勇気は出なかった。
袋小路になった運命を受け入れられなくて、駄々を捏ねるように泣いていた。

そうして思い出すのは、つい先日、アクロマさんにもらったお気に入りの本のことだ。
魔法を使える美しい少女は、心を閉ざした王子に寄り添い、彼を愛した。
私も彼女のように、強く優しく彼に接することができたなら。そんな風に思い、首を振った。
王子の心が開かれたのは、本の中の少女が魔法を使えたからだ。彼女の魔法が王子を笑顔にしたのだ。
私は魔法など、使えない。誰かを笑顔にすることなどできないし、誰かを愛することもできない。
私は、あの美しい物語の外に在るのだ。今までも、これからも。

「……」

『その国の王子は、鮮やかな緑の髪に、血のように鮮やかな赤い隻眼を持っていました。』
ああ、そうか。もうあの本を読むことも、赤い目をした王子に思いを馳せることもできないのか。
……けれど、もう読むことはできないけれど、私はあの本を飽きる程に、何度も何度も読んできた。序盤ならば、諳んじることだってできる。
そう、こんな風に。

「……その昔、緑の豊かな平地に、争いを好まない平和な国がありました」

私は嗚咽を飲み込んで、言葉を紡ぎ始めた。
今日の朝まで暮らしていた、あの家よりも更に広そうなこの部屋に、私の、シェリーの声よりも少し低いメゾソプラノがゆらゆらと響く。
こんな広い部屋、私には勿体ない。そう思いながら少しだけ笑うことができた。大丈夫だ、大丈夫。
私はこの城に縛られているけれど、この心は今までと変わらず、自由に羽ばたくことができる。だからきっと、此処でもやっていける。

「その国の王子は、鮮やかな緑の髪に、血のように鮮やかな赤い隻眼を持っていました。けれど彼は少し臆病なところがあって、心を閉ざしてしまっていたのです」

「何それ、あんたが考えた話?」

何処からか声が聞こえてきて、私の涙は驚きに引っ込んでしまった。
私の声よりも更に低い、落ち着いたアルトの音は、驚いた私を楽しむようにクスクスと笑う。
慌てて立ち上がり、部屋の中央へと歩みを進めたが、動いているものを見つけることができない。

「此処よ、ベッドの横にある鏡台」

そう言われて、私は大きなベッドの傍の、鏡台の椅子に座った。それ程大きくはないけれど、細部に装飾が施された、とてもお洒落な鏡台だ。
鏡台というからには鏡が付いているのだろうけれど、扉のようなものが付いているだけで肝心のそれが見当たらない。
そっと扉に手を掛けようとすると、お決まりのように勢いよく、ひとりでに派手な音を立てて開いた。成る程、鏡は扉の内側と奥に3枚付いているらしい。
私の顔を映していた真ん中の鏡を見つめていると、突如として顔が浮かび上がった。驚きに思わず立ち上がったが、彼女は私を落ち着いた声音で引き止める。

「こら、逃げないでよ。折角、久し振りに人間がやって来たんだから、少し話を聞かせて」

私よりも少しだけ年上の、お姉さんのような口調だった。私は頷き、もう一度椅子に座り直した。

「貴方も喋るのね。私、シアっていうの。お姉さんは?」

「私?見れば解るでしょ、鏡台よ。一応、トウコっていう名前があるわ。好きに呼びなさい」

『ボクにはNという名前があるけれど、キミの好きなように呼んでもらって構わないよ。』
彼女のその口ぶりが、グランドピアノのNさんのそれに少しだけ似ていて、思わず笑ってしまった。
どうしたの?と尋ねる彼女にそのことを伝えれば、少しだけ驚いたようにその青い目を見開いた。

「もうNに会ったのね。あんな大きなピアノがいきなり喋り出したのに、怖くなかったの?」

「ええ、グランドピアノを見たのは初めてで、嬉しくて恐怖なんて何処かに飛んでいっちゃった。私の友達は、動く燭台を見て逃げ出したみたいだけれど」

「……ああ、あの煩い悲鳴を上げていた子ね。それで、その子を迎えに来た筈のあんたが、どうしてこの部屋で目を真っ赤にして泣いているのかしら」

友達、と私が口にしたことから、トウコさんは私が彼女を探しにこの城にやって来たことをあっさりと見抜いてしまった。
「言いたくないのなら、聞かないわ」と溜め息を吐いた彼女に首を振り、私は一部始終を全て話した。

シェリーを探して森に入り、この城を見つけたこと。暗い城の中を歩いていたらNさんと出会い、外套掛けのダークさんに地下へと案内されたこと。
燭台のダークさんに階段を照らしてもらいながら地下へと降りて、牢屋に閉じ込められているシェリーを見つけたこと。
彼女の代わりに、私がこの城にずっと住むことを約束して、シェリーを逃がしてもらったこと。燭台のダークさんの計らいで、この部屋が私のために用意されたこと。

今日一日で、色んなことがあり過ぎていた。思い出せば思い出す程に悲しくなる。もう二度とシェリーに会えないのだと思うと、目蓋の裏が熱くなる。
聞いてくれてありがとう、と彼女にお礼の言葉を紡げば、彼女は呆気に取られたような表情の後で声をあげて笑い始めた。

「何、それじゃあその子の代わりに、あんたがこの城に残ることになっちゃったの?ゲーチスにクロバットの翼を突き付けて、あいつを脅すような真似をして?」

ああ、おかしい!と彼女は笑い続けていて、今度は私の方が呆気に取られてしまった。
私のしたことはおかしいことだったのだろうか?かなり必死に巡らせた上で弾き出した、最善の策だと思っていただけに、彼女の笑いは私に若干のショックを与えた。
けれど彼女はその後で、鏡の輝きをゆらゆらと揺らして微笑んでみせた。

シア、あんたは度胸があるわ。私はあんたみたいな子、嫌いじゃないわよ。これからどうぞ、仲良くしましょう」

どうやら、私が馬鹿にされている訳ではなかったらしい。そのことに安心し、私は人の形こそしていないものの、同じ年頃の友達ができたことが嬉しくて直ぐに頷いた。
Nさんの時は、グランドピアノの弦で握手をしたけれど、トウコさんの鏡台には手と思わしきものは見当たらない。
代わりに鏡台にそっと手を添えれば、彼女はクスクスと笑いながら両側の鏡を軽く動かしてみせた。

「あんたのしたことはとても立派よ。城の奴らに嫌がらせをされたら直ぐに言いなさい。私があんたを守ってあげる」

守ってあげる。
そんなことを言われたのは初めてで、私はまたしてもぼろぼろと涙を零した。
どんな言葉よりもその落ち着いたアルトの声音は温かく、私は呆れる彼女の前で泣きながら笑うという器用な真似をやってみせた。

私は一人だ。けれど、私はどうやら独りではないらしい。


2015.5.14

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