12

朝食を食べ終えた私は、ポットのバーベナさんを両手に持って部屋を出た。
昨日は夜かと見紛うような暗雲が空一面を覆っていて、夜かと見紛う程に暗かった。今日はとてもいい天気である筈だけれど、やはりこの城の中は薄暗い。
とても立派な城だったけれど、あらゆる場所が分厚く埃を被っていて、長い間、人が踏み入っていないのだと容易に察することができた。

シアさんの隣の部屋には、グランドピアノを初めとした楽器が置かれています」

「あ、そこには昨日、一度入ったんです。Nさんともお話をしましたよ」

殆どの部屋の扉は閉められているけれど、この楽器の部屋だけはいつも開いている。廊下からでも見えるグランドピアノの輝きは、最早圧巻という他ない。
Nさんに駆け寄り、挨拶をすれば、彼は驚いたようにその目を見開いて苦笑した。

「おはよう、シア。キミが此処で暮らすことになったという噂は本当だったんだね」

「ええ、これからよろしくお願いします。また、素敵な曲を聴かせてくださいね」

ピアノの椅子に腰かけたその瞬間、周りに飾られていたバイオリンやチェロ、フルートやクラリネットといった類の楽器が一斉に駆け寄って来た。
はじめまして!ようこそ!お名前は?そんな声で一気に部屋が賑やかになって、私は思わず楽しくなって笑ってしまった。

『寂しいなんて、思っていられなくなるわよ。あんたが此処に住んでくれることになって、喜びまくっている連中が大勢いるんだから。』
昨日のトウコさんの言葉は、本当だったらしい。私が歓迎されているというその事実は素直に嬉しかった。
私はエプロンドレスの裾を軽くたくし上げ、皆に挨拶をした。

「初めまして、シアといいます。昨日からこのお城で暮らすことになりました。どうぞよろしくお願いします」

楽器たちが口ぐちに声を発する。音を奏でるための楽器が、人間の言葉を操る様子は少しおかしくて、けれどとても楽しかった。

「是非、此処の楽器を演奏してみてください。どれも一流のものばかりですよ!」「初心者ならN様のピアノがいいんじゃないかしら。いきなり管楽器はハードルが高いわよ」
「そう言えば、昨日ここにやって来たもう一人の女の子は?」「おい、その話を出すな。シアさんはその女の子の代わりに此処に住むことになったんだ」
「N様のピアノはとてもいい音を奏でますよ」「俺達もたまに彼のピアノに合わせて、曲を奏でるんだ」「その時はどうぞお気軽にお越しください。歓迎しますよ」

そんな彼等のあらゆる会話に微笑み、相槌を打ちながら聞いていると、廊下の方からポーン、という大きな音が聞こえてきた。
現れたのは、私の膝丈よりも小さな置時計だ。先程の音は、9時を知らせる時計の音だったらしい。
彼は鋭い目で楽器たちを一瞥し、小さな声で「少し静かにしろ」と告げた。
さっと元の位置に戻って静かになった楽器たちとは対照的に、私は椅子から立ち上がってその置時計に駆け寄り、身を屈めた。

「もしかして、ダークさんですか?」

「……そうだが」

やっぱり!私は鋭い三白眼でこちらを見上げる彼にぱっと微笑んで、手の代わりに人差し指を伸ばして握手を求めた。
彼は暫くその指を見つめていたけれど、やがて装飾の一部を器用に動かして私の指先を握ってくれた。

シアといいます。燭台のダークさんから貴方のことを聞いていたので、お会いしたかったんです。
昨日からこのお城に住むことになりました。ご迷惑をかけるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いしますね」

高揚して思わず早口になってしまった私を、彼は呆気に取られたように見つめていたが、暫くして私の指を放した。
文字盤の中央に付いている顔は、大きな溜め息を吐いてからもう一度私に向き直る。

「お前のことは主から聞いている。私はこの城の執事長をしている、ダークだ。
ダークは他にも二人いるが、どのダークも大抵のことなら同じことにこなせる。用があれば誰でも適当に呼ぶといい」

そう言って、置時計のダークさんは私に背を向けたけれど、私はまたしても彼を呼び止めることになる。
何故なら彼を追い掛けて、一匹のポケモンが廊下を走って来たからだ。
村の近くでは見かけない、珍しいポケモンだけれど、私はこの子の名前を知っていた。本に出てきたことがあるのだ。

「ジュペッタ!もしかして、ダークさんのポケモンですか?」

ジュペッタはくい、とその首を傾げながら、私のエプロンドレスの裾を引っ張る。ダークさんはそのポケモンを一瞥した後で、小さく頷いてくれた。
饒舌な燭台のダークさんとは異なり、少し気難しそうな人だと思った。
外套掛けのダークさんも同様に寡黙だったけれど、彼が与える沈黙は、この鋭い目をしたダークさんが与えるそれよりもまだ優しかったような気がする。

そんなことを考えていると、私の腕の中にいたバーベナさんが、ひょいと身を乗り出して自分から飛び降りてしまった。
高い場所から降りたので、陶器製のポットにひびが入ってしまうのではと思ったが、意外にも傷一つなく器用に着地してみせたので思わず安堵の溜め息を吐いた。
バーベナさんはクスクスと笑いながら、置時計のダークさんに近付く。

「ごめんなさい、シアさん。彼は少し不愛想なの。本当は貴方がこの城に来てくれたことを、誰よりも喜んでいるんですよ」

「……バーベナ、余計なことを言わなくていい」

装飾を伸ばして、ダークさんはバーベナさんのポットをこつんと叩いてみせる。彼女の登場により、彼の雰囲気が少し和らいだような気がした。
現に彼女の頭(らしき部分)を叩いた彼の、バーベナさんに向ける視線はあまり鋭くない。親しい人には優しい表情をすることができるのだ。
まだ、私には分厚く壁を敷いているのかもしれないけれど、構わなかった。どうせ私はこれから、飽きる程に永い時間を此処で過ごすのだ。
今、打ち解けることが叶わなくても、そのうち、きっと優しい表情を見せてくれるようになると信じたかった。

その後も、ダークさんはバーベナさんと話をしていたけれど、ふいに壁に掛けられた時計を見て慌てて廊下を走り出した。ジュペッタもその後を追って駆けていく。
自分が時計の姿をしているのに、自分の時計を確認できないとは何ともおかしな話だ。
思わず笑った私に、バーベナさんはポットの口を少しだけ動かして微笑んでみせた。

「おかしいでしょう?私も、彼が時計を見る時はいつも少し笑ってしまうんです。だって、ねえ、彼が時計なのに」

私達は声を潜めて笑った。勿論、遠ざかる置時計のダークさんに、笑い声を聞かれないようにするためだ。

それから、私達は様々な場所を見て回った。
城の階段は上の方まで果てしなく伸びていたけれど、上には倉庫と小さなバルコニーがあるだけだと説明を受け、主に1階から3階を見て回った。
1階の厨房には予想通り、沢山の食器や調理器具が動き回っていた。彼等は私が厨房に入って来たことに驚いていたけれど、私の挨拶にそれぞれ礼儀正しく答えてくれた。

階段や廊下、1階のホールでは、箒やモップが掃除をしていた。
ひとりでに動き回る箒に、もう驚かなくなっている自分に少しだけ驚いた。人間、慣れれば案外どんなことでも受け入れられるようになるらしい。
お洒落な羽を叩いて階段のスロープの埃を払っていた彼女と、バーベナさんは仲が良いようで、置時計のダークさんの時のように親しげに話をしていた。
ヘレナと名乗った羽箒の女性は、ドレスをたくし上げるように羽を、箒を引っ掛ける紐で摘まんで掲げてみせた。
私も慌ててエプロンドレスをたくし上げて挨拶をすれば、なんと「もう少し角度を付けた方がいいわ」とアドバイスを頂いてしまった。

「ヘレナはダンスをするのが好きなんです。よくダークと踊っているんですよ」

「え、置時計のダークさんですか?」

「まさか!あの人はダンスなんてしないわ。バーベナとならするかもしれないけどね。私がよく一緒に踊っているのは、燭台の方のダークよ。彼はダンスが上手なの」

そう言って、彼女は羽の一部を口に当ててクスクスと笑った。まるでそれは、人間の女性が手を口元に添えて上品に笑っているかのようだった。
……この屋敷の「もの」たちは、皆、総じてとても人間らしく振舞っている。
燭台のダークさんの、肩を竦めるように左右の蝋燭を掲げる仕草。ヘレナさんの、ドレスをたくし上げるような仕草。Nさんの、ピアノの弦を伸ばして握手を求める行動。
その全てがどれも、人間がするそれにそっくりで、ある日突然、心を与えられたとは思えない程に、彼等との会話には、「人」と「もの」との隔絶を感じない。
姿は人の形をしていないのに、そこにまるで人がいるかのような錯覚に陥りそうになる。

『……申し訳ないが、オレからはそれ以上のことを口にすることはできない。それが我々にかけられた魔法のルールだからね。』
燭台のダークさんの言葉が脳裏を掠めた。
私はまだ、この不思議な城の全てを知らないのかもしれない。もしくは彼の言葉の通り、それを知ることが許されていないのかもしれない。
この不思議な魔法には、ルールがあるのだ。そのルールに従うならば、きっと、私は何も知るべきではないのだろう。
けれどそのルールと、私が彼等のことを知りたいと思うのはまた別の話だ。私はヘレナさんのお喋りに相槌を打ちながら、そんなことを考えていた。

すると、階段を駆け下りる足音が聞こえてきた。先程の話題に上っていた置時計のダークさんが、私の方へとやって来る。
あの小さな体でこの階段を降りるのは大変そうだと思い、私の方から階段を上っていくと、彼は驚いたようにその鋭い目を見開いた。
しかしそれは一瞬で、彼は小さく溜め息を吐いた後で口を開いた。

「ゲーチス様から伝言だ」

背中を冷たいものがすっと伝う心地がした。


2015.5.15

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