「この図書館は、朝も開いているんだ。楽しい人が揃っているから、よければ遊びにおいで」
そう告げたウツギ先生は、私とNの手に小さな鍵を握らせた。
魔法が当然のように存在するこの世界において、「鍵」の概念がまだ生きていることに私は少しばかり驚いたけれど、
Nはその鍵に何か特別な細工が施されていることに気が付いたのだろう、「とても精巧に作られているね」という感想をウツギ先生の前で口にしていた。
書庫の突き当たり、ただの壁にしか見えないその場所にウツギ先生が杖をかざすと、まるでカーテンが開くかのように、壁がひらりと左右にめくれた。
簡素なドアには魔法界には珍しい「鍵穴」が存在しており、ウツギ先生の手持ちの鍵を差し入れると、カチっという軽い音と共にあっさりと開いた。
図書館にこんな裏口があったなんて、と目を丸くしている私とNの前で、背中を押したウツギ先生は、
「それじゃあ、また明日」と、まるで私とNが明日の早朝、この秘密の通路を通って図書館へとやって来ることを確信しているかのように、別れの挨拶をした。
薄暗く狭い通路をほんの20歩ほど歩けば、すぐにホグワーツの外へと出た。
なだらかな芝生が広がっている。夜風が秋の香りを運んでくる。いつもの風景だ。
慌てて振り返れば、先程まで私とNが通ってきた筈の通路は、取っ手も窓も存在しない、ただの壁へと戻ってしまっていて、
その稀有な現象に遭遇できた喜びと、この秘密の通路を使う権利を与えられたという幸福に、私とNは顔を見合わせて笑った。
「凄いわ、こんな抜け道があったなんて!これを使えば休館日でも夜中でも潜り込み放題よ!」
「流石に夜更かしはウツギ先生が許してくれないだろうけれど、それを抜きにしても、確かにいい場所だね」
本を読むこと、勉強すること、私が楽しいから続けていたこと。それだけの、趣味の領域に近いようなこと。
でもそんな趣味を1年間、続けていたおかげで、こんなにも不思議な現象に遭遇できた。こんなにも素敵な抜け道を教えてもらうことができた。
目的を持たずに勉強するという私の、少し自堕落な精神のおかげで、私は私の元に舞い降りてきてくれた幸運を、こんなにも喜ぶことができている。
人間の生き様とは皮肉なことに、そういうところがあるのだ。幸運は、求めた人のところを必ずしも選んでくれる訳ではないのだ。
「……ところでキミ、早起きなんてできるのかい?」
「無理ね、間違いないわ。だから起こしに来てよ、窓は開けておくから」
「任せてくれ。この時期なら朝、マメパトが飛んでいる筈だから、朝5時にキミの頭をつつくように頼んでおくよ。
そうすれば寝起きの悪いキミでもすぐに目覚めるだろう」
とんでもないことを言い出したNの髪をぐいと引っ張りながら「女の子!私、女の子なのよ?」と威圧的に彼の発言を窘めた。
彼はごめんと謝りながらも「普通の女の子は、ヒトの髪をこんなにも容赦なく引っ張ったりしないと思うよ」と、至極正論なことを口にして、苦笑した。
*
ウツギ先生は曲者。
そうした私の目利きは当たっていた。大正解だった。
彼は善意で、図書館を利用する機会の多い私達に、早朝の図書館という至高の場を提供した訳では決してなかったのだ。
「ようこそ、朝の図書館へ。これで君達もここのメンバーだね」
図書館は、私が今まで通ってきたどの時間帯、どの季節よりも賑やかな様相を呈していた。
人数にして10人程度の「有名人」たちが、自らのパートナーポケモンと一緒に、様々な分野の本を広げて討論を繰り広げている。
学年も寮もバラバラな彼等の顔と名前を、一介のスリザリン2年生が全て言い当てられてしまう程度には、彼等はホグワーツの中では名の知れた「有名人」だった。
呪文学の教師をしているアポロ先生、その同期の「冷酷先生」ことランス先生、ホグワーツ院生であるアクロマさん。
クディッチやポケモンバトルの公式試合で大活躍している、グリフィンドールのグリーンとスリザリンのレッド。
他にも、普通のホグワーツ生が対面すればあまりの緊張に背筋が伸びてしまうような、学年主席、大会優勝の常連など、優秀な成績を収めてきている人間ばかりだ。
けれどもそんな彼等は何故だか、無名である筈の私とNのことを既に知っていて、
「お前もウツギ博士に嵌められたのか」「ようこそ地獄へ」「仲良くしましょう」と、親しみを込めて歓迎してくれた。
このメンバーは「図書館組」と呼ばれている。
ウツギ博士が、彼の独断と偏見で学生や院生や新任教師を選び、勧誘しているらしい。
競って本を読んだり、討論をしたり、学年末のテスト勉強をしたり、屋外調査に出掛けたりする、何でもありの集団……であると、グリーンが説明してくれた。
「君達は一年の時から図書館に通っていたからね。その知識と経験を生かせる場があればと思ったんだ」
「そんなこと言って、本当は自分の研究に君達を協力させたいだけなのよ。ウツギ先生は実はとっても狡猾なの。普段は隠しているけどね」
「酷い言いようじゃないか、クリスさん。僕はちょっぴり傷付いたよ」
メゾソプラノの優しい声音が紡ぐ辛辣な音に、ウツギ博士が頭を掻きながら抗議する。
静かに微笑むその女性のことを、けれども私もNも知らなかった。クリスなんて名前、成績優秀者の一覧にもクディッチの選手欄にも見たことがなかった。
「さっきも言ったとおり、ここはウツギ博士が勝手に作った、彼のための、彼が一番得をするようにできている集まりなの。
でもきっと、二人にとって素敵な時間になると思うよ。二人とも勉強が好きみたいだし、一緒に遊ぶ友達、くらいの感覚で足を運んでくれると嬉しいな。
私達を利用してやろうとする狡いウツギ先生のことは、私達が逆に利用してしまえばいいのよ」
「……クリスさん、君はそんなに僕のことが嫌いだったのかい?」
この女性、クリスというこの先輩は、とりわけ優秀な訳ではない筈なのに、どうしてこの場所にいるのだろう。
そしてどうして、このとりわけ優秀な「図書館組」に、ウツギ先生は私とNとを加えようとしているのだろう。
……どうやらウツギ先生が「独断と偏見」で選んだ学生の中には、このクリスさんや私やNのように、
成績がとりわけ優秀な訳でもポケモンバトルに秀でている訳でもないにもかかわらず、彼に目を付けられてしまった不幸な人間も混じっているようだった。
けれどもそんな、どちらかというとこの図書館組の中で「異分子」である筈のクリスに、平凡を極めているような生徒である筈のクリスに、
ウツギ先生は最も信頼を置いているようであり、先生とクリスとの間でなされる軽口の応酬は、その信頼関係の表れであったのかもしれなかった。
この曲者な先生はきっと、私には到底推し量れないような評価基準を持っている。
その独特の評価基準にぴったり合致してしまったせいで、何故だか分からないけれど、私やNやクリスさんが引っ掛かってしまっている。
面倒なことだと思った。これから朝早く起きなければいけないことを思うと、それだけで憂うつになりそうだった。
私はこの先生に利用されてやる気など更々なかった。そんなのは真っ平御免であった。
けれどもクリスさんが提案してくれたような「逆に利用してしまえる」だけの力を、今の私はまだ持っていなかった。
でも、この場所なら?
有名人の集う朝の図書館、此処で学べば、この曲者な先生を逆に利用するだけの力が手に入るのではないか?
「いいわよ、来る。明日からも此処に来るわ」
そう思った瞬間、私の口は同意の音を紡いでいた。それは衝動的とも呼べそうな程の、乱暴な決意により放たれた言葉であり、口にした私自身も驚いていた。
グリーンが顔を苦くして「あーあ、知らねえぞ」と同情の眼差しをこちらに向けた。ランス先生は楽しそうに笑いながら「おや可哀想に」と呟いた。
大なり小なり、この場にいる誰もが私の返事に驚いていて、それは私を此処へ誘ったウツギ先生でさえ例外ではなかったのだけれど、
でも唯一、クリスさんだけは「そう言ってくれると思ったよ」と、私が了承の意を示すことを初めから解っていたような心地で、私の選択を歓迎してくれた。
*
では改めて「図書館組」のメンバーを紹介しよう。
先ずは教師陣。ウツギ先生を筆頭に、アポロ先生とランス先生。
ウツギ先生は彼等二人の大先輩に当たるらしく、この溜まり場も学生時代から利用していたらしい。
続いて院生。現在4年のアクロマさん。スリザリンからグリフィンドールへ転寮したという経歴を持つ異色の存在だ。
変身術を専攻しており、来年から早速、この学校で教師になることが決まっているらしい。
それから学生。先ずは6年のクリスさん。
レイブンクローの監督生を務めているらしいけれど、その他にはこれといって特に秀でた功績がある訳ではなさそうだった。
にもかかわらず、レッドやグリーン、更には院生や教師までもが彼女には一目置いているようであった。
彼等がクリスさんに示している、その奇妙な崇敬の理由を、今の私ではまだ読み解くことができそうになかったのだけれど。
グリーンとレッドは、共に3年生で、私の一つ上の学年に当たる。二人とも天性のバトルセンスを有し、更にはクディッチのシーカーも務めている。
彼等が入学してからというもの、寮杯はグリフィンドールとスリザリンの間を行ったり来たりしている。それくらい、彼等個人に入る点数が多いのだ。
二人の名前を知らない者は、おそらくこの学園の中には誰一人としていないだろう。
互いに敵対しているように見えていたこの二人は、けれどもそれなりに互いのことを認めてもいるらしく、
同じ参考書の同じページを開いて、隣り合った椅子に腰かけ激しく討論を交わしている様子からも、彼等の「悪くないライバル関係」が窺い知れた。
そしてこんな精鋭隊の中に、勉強が好きなだけの私と、ポケモンの声が聞こえるという稀有な才能を持ち合わせたNが、飛び入り参加することになる。
自分が「劣っている」などと感じたことがこれまで殆どなかった私にとって、この集まりの中で私が「したっぱ」であるという事実は殊の外、悔しく、
けれどもその悔しさに、私が普通に生きていればまず手にすることのなかった劣等感に、何故だか私は、わくわくしたのだ。
私の知らないことを目の前の誰かが知っているのは悔しい。私のできないことを容易くやってのけてしまわれるのはもっと悔しい。
これまでそれは、私に聞こえないポケモンの声を造作もなく拾い上げるNに対してのみ示し続けてきた感情だった。
でもこれからは違う。これから私は彼等に向けて、彼等に「悔しい」思いを山ほど、することになるのだ。
Nに対する「悔しい」が今のNとの関係を作った。そういう訳で、私はそのどす黒い感情を嫌うことができなかった。むしろきっと、歓迎さえしていた。
私が席に着けば、Nも当然のように隣へと座った。
「あんたも入るの?」とは、尋ねなかった。
彼が拒絶の意を示さず、そして私の隣の椅子を引いたのだから、彼は此処でも私の隣に在ってくれるということなのだろう。
確認を取る必要さえなかった。こいつは最早、私にとってそうした人間だった。折角の言葉だ、どうせならもっと楽しい、くだらないことに使いたい。
……さて、こうして私達は、朝の図書館で自由に本を読みふけったり、優秀な先輩方に勉強を教えてもらったり、
はたまたウツギ先生の「研究」に付き合わされる形で、休日の課外授業に繰り出したりと、それなりに、いやかなり忙しない生活を送ることとなった。
この時間と、此処に集う先輩たちがどれだけ奇妙であるかということを示す、ちょっとしたエピソードがあるので紹介したい。
「2年生でしたらこれらがオススメですよ」と、アクロマさんが呼び寄せ呪文「アクシオ」で本を数冊引っ張ってきたのだが、
それを見たクリスさんがクスクスと笑いながら、とんでもないことを口にしたのだ。
「あらあら、アクロマさん。二人のことを甘く見過ぎですよ。
そんな本、トウコちゃんとNくんはもう全部読んでいるに決まっているじゃないですか。ね、そうでしょう?」
……結論から言えば、確かに私もNも、アクロマさんが示した数冊の本を既に読んでいた。
でも無名であった筈の私達の学力、知識量、そしてどの本を読みどの本を読んでいないかなどということが、何故、この女性には分かってしまうのだろう。
そして何故、彼女の「分かってしまう」という不気味な力に対して、この朝の図書館に住む彼等は何の懐疑も示さないのだろう。
「クリスさん……あんた、何者なの?」
すると彼女は読んでいた本から顔を上げずに、まるでずっと前から用意していた詩歌のように、独特の抑揚をつけて歌った。
「ふふ、何のこと?私はただ、大切な人を守れる力が欲しかっただけよ」
2013.9.11