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最後にネクタイを手に取ったのは一年前、この手に握り締めた色は緑ではなく赤だった。
「ネクタイの締め方を知らない」という彼の言葉に笑い転げ、教えてあげると豪語しながら彼の首に手をかけた。
キミを信じている、という、純朴の過ぎる彼の言葉を私はまだ覚えていて、そんな些末なやり取りをきっと今も私は心の支えにしている。

けれども今、私が手に握り締めているのは赤いネクタイではない。
それは私が散々嫌っていた、私の本質を、私の隠してきた部分を象徴する深緑色のネクタイだった。
一度も締めたことのなかったそれは、まだ一つのしわも付いておらず、新品同然の姿でクローゼットの隅に佇んでいた。
強く握り締めて「ごめんね」と囁けば、1年の眠りから覚めたそのアイテムが「遅いよ」と笑っているような気がした。

「さあ、行こうか」

縮小呪文で小さくしたダイケンキを抱き上げて、笑いかける。彼は私の首元に絞められた深緑に前足を伸ばして、じゃれるように何度も引っ張った。
ようやく、私はスリザリンの一員になれた。

放課後、いつものように図書館で本を読んでいる彼の隣、空いている椅子に手をかける。
顔を上げて、挨拶代わりに無言の微笑みを返したNは、けれどもその表情のままに目を見開いた。
視線が、私の首元に固定されている。彼が何を言わんとしているのか、分からない程に私も愚かではなかった。

彼は鞄からノートを取り出して、声の代わりにすらすらと文字を書き記していく。
平日の図書館にはお喋りを禁止するポケモン、ピクシーがいるので、会話は専ら筆談でなされるのが常であった。
こいつは早口だが、速筆でもあるらしい。それでいて文字は「乱筆」と呼ぶにはあまりにも整い過ぎているのだから、狡い話だ。

『どうしたんだい、それ。スリザリンは嫌いだと、キミはいつも言っていたじゃないか。』

席に着き、私はNの手からペンを取り上げて、彼の書く速度よりもずっとゆっくりと、そして少しだけ濃い筆圧で、私の文字を記した。

『気が変わったの。もう嫌わなくてもいいかなって、思えるようになったのよ。』

『それはいいことだね。でも何がキミをそう思わせたのだろう?』

『別に、理由なんてないわ。私が気紛れだってことは、あんたもよく知っているでしょう。』

Nが、私の母が、ありのままの私でもいいのだと言ってくれたからだ。
ダイケンキがそのままの私を慕ってくれていることを、Nが言葉にして私に伝えてくれたからだ。
もう、スリザリンの色に怯える必要はない。この色を纏うことで「狡猾」のレッテルを貼られることになるのだとしても、構わないとさえ思える。
あんたのせいだ、ダイケンキのせいだ、母のせいだ。私を私のままでいいとしてくれた、優しすぎる皆のせいだ。

『それじゃあ、あんたのせいだってことにしておくわ。』

勿論、そのようなことこいつには言ってやらない。
私はもう、誤魔化さない私のことをちゃんと理解できるようになっていたけれど、その理解をこいつと共有してやるつもりは更々ない。
そんなことを正直に開示するなんて私らしくないし、何よりこいつに示すべき感情として「感謝」というのは似合わなさすぎるような気がしたからだ。

私は、こいつが気に食わないということにしておく。
でも純粋と無垢を極めたこいつといると気が楽だから、私を誤魔化すことさえ億劫に思われる程に、こいつは何も飾っていないから、
だから傍に在るのだと、そういう間違った、いやある意味間違っていない認識をNと共有するに留めておく。

私はもう誤魔化さない。誤魔化すことだって誤魔化さない。どうせこいつには筒抜けだ。ならば構わない。これでいい。

得意気に笑いながら、私は借りてきた本を取り出して読み始める。
本の中の世界にぶくぶくと沈んでいこうとしていた私の思考を、けれどもこいつは絶妙なタイミングで、私の肩を叩くことにより遮ってくれた。
何をするのよ、という不満の意を込めて睨み付けると、彼は困ったように眉を下げつつ、二人の間に開かれたノートを指差した。
そこには新しい書き込みが加えられていて、私は思わず目を見開くこととなった。

『キミは本当に眩しく笑うんだね。』

……彼の純粋かつ無垢を極めた言葉というのは、文字にされると非常に都合が悪いのだということを、私はたった今、知ることとなった。
だってこの文字は消えてはくれない。放てば空気に溶けて消えてしまう声とは違って、この言葉はずっとNのノートの中に残り続ける。
いっそ、今この場でこのノートを破いてしまいたい。そんな衝動に駆られながら、私は荒っぽい字でいつものように彼を揶揄しようとする。

『何、またダイケンキに聞いたの?』

『キミのトモダチなら、キミの足元で眠っている。今のカレから聞こえてくるのは寝言だけだよ。』

ああしまった、と私は思った。この会話には覚えがあったからだ。
まだペンを手放さない彼が、純粋と無垢を極めた、人やポケモンを疑うことの一切を知らない彼が、次に何と書くのか私には解っている。解ってしまう。


『ボクの言葉だ。』


私は顔を上げて、彼の目を見つめ返した。私の運命を変えたその言葉を、活字にされてしまったその眩しい音を、直視する勇気はまだなかった。

私はとりわけ美人であるという訳でもないから、笑顔が眩しいなんてきっとこいつの贔屓目だわ、とか、
ああでもこいつが私に贔屓をするなんて絶対におかしい、そんな人間らしいことこいつにできる筈がないのに、とか、
何を考えているんだ、私は紛うことなき人の形をしたこいつに、人らしく在ってほしかったのではなかったのか、とか、
ああでも彼が本当に人になってしまったとして、それはきっといよいよ彼らしくはないだろうな、とか、
ならばこのままでいいのかもしれない、彼が彼らしく在るとは実はこういうことなのかもしれない、とか。

その彼らしさに私が救われているのだから、私はそんな彼の傍を選んでしまったのだから、もうこれでいいじゃないか、とか。

『ありがとう。』

嵐のように吹き荒ぶ思考と感情に蓋をして、私はたった一言、それだけを書いた。
何故キミがお礼を言うんだい、と追記された彼の言葉には、返事をせず、私はノートを乱暴にパタンと閉じて、意地悪な笑みをNに向けてやった。
今度こそ、本の世界に入りたかったのだ。

閉館時間だよ、という声が斜め上から降ってきたかと思うと、隣のNと合わせて仲良く肩を叩かれてしまった。
顔を上げれば、つい先程まで窓へと差し込んでいた眩しい夕日は、どっぷりとした暗闇を館内へと溶かすのみとなっていた。

図書館長であるウツギ先生が、腰に手を当てて苦笑しながら私達を見下ろしている。
「借りたい本はそれで全部だね」と、確認するように机の上に積み上げていた本を指差しつつ尋ねてくれる。

「ええ、お願い」

そう告げれば、ウツギ先生は懐から杖を取り出し、本の背表紙を1回、2回と軽く叩いた。
途端、「貸出中」という文字と、返却日時を示す日付が書かれた黄色いラベルが出現し、背表紙の下部分を覆ってしまった。

これを期限までにカウンターの上へと置くと、ラベルを貼られた本は自我を持っているかのようにふわりと浮き上がり、自らが収まるべき本棚へと飛んでいく。
本棚に収まる直前、黄色いラベルは背表紙からひらりと剥がれ落ち、パチンとシャボン玉のように弾けて消えてしまう。
けれども消えたように見えるラベルは「なくなっている」のではなく、カウンターに置かれているファイルの中に、貸出履歴の一部として組み込まれているのだ。
……ちなみに、貸出期限を超えるとラベルが金切り声で喚き立てるらしいけれど、残念ながら私はその声を聴いたことがない。

この一連の仕組みを、ウツギ先生は「僕にだけ使える、僕が最も得意とする魔法」だと口にする。
派手な訳でも、力強い訳でもない、ただ図書館を整えるためだけの魔法であり、それはおそらく「地味」と呼ぶに差し支えないものだったのだろう。
でも私は、いつ見ても見事な魔法だという風に感心してしまう。そんな魔法を何気なく、地味な風に「見せている」ウツギ博士は、相当な曲者だなあと思う。

オリジナルの魔術を「無言呪文」で組み立てられる魔法使いなど、そういるものではない。
図書館に閉じこもり、昼行灯を演じているようなところのあるこの先生も、「ホグワーツの教師」という肩書きに恥じない、立派な人なのだ。
その力を「わざと隠している」「地味で役に立たない魔法のように見せている」ようなところのある、そうした狡猾さをも私は気に入っていた。

この「本のための魔法」を生み出した「本に選ばれた存在」は、実はウツギ先生ではなく他にいる。
その真実に私が辿り着くのは、もっとずっと後の話だったのだけれど。

「Nくんもトウコさんも、本当に勉強熱心だね」

閉館時間が迫ると、見張り番であるピクシーはいなくなってしまう。つまり私達が喋っても、すっ飛んできて私達を叱る存在が、此処にはいない。
休日や、閉館時間を過ぎた頃の図書館では、生徒はおろか館長であるウツギ先生でさえ、すすんでお喋りを始めるという有様であった。
図書館長がこんなことでいいのかしら、と思っていると、彼は新しい遊びを提案するような子供の目をして、私とNとを見比べ、笑った。

「ところで君達、早起きは得意かな?」


2013.9.10

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