リンドウの灯す星

※50万ヒット感謝企画

幼い頃から不思議な生き物(ここではポケモンということにしていますが、原作では妖精や妖怪などが相当します)を見ることのできた少女、シアは、
身寄りを失くしたことも相まって、あらゆる人から異端視され、虐げられていた。
そんな折に出会った不思議な青年の「キミを必要としてくれる場所に身を任せてみないか」という誘いに乗り、彼女は単身、イッシュ地方へと赴く。
闇市場へと売りに出された彼女をとんでもなく高い金額で競り落としたのは、長い緑の髪を持つ、隻眼、片腕の魔法使いだった。

「来なさい」

私を法外な値段で買い取った何者か、おそらく低いバリトンがこの場に響いたので男性なのだろうけれど、その彼があまりにも淡々とした声音で私を呼んだ。
私の首に付けられた首輪には、そこそこの重さの鎖が繋がれており、私が一歩を踏み出す度に、チャリ、チャリと無機質な鈍い音を立てて揺れた。

私はどうなってしまうのかしら。
これからこの人にバラバラにされて、臓器として売られてしまうのかしら。それともどこかの収容所で、死ぬまで働かされるのかしら。
人としての尊厳や矜持、そうした何もかもを奪われたまま、それほど多くを望まなかった筈の私は、こうして世界から見限られていくのかしら。

私の頭が立て始めていた、そうしたよからぬ推測は、恐怖という形を取って私の歩幅を小さくし、足取りを重くさせた。
あの不思議な青年の言うことなど聞かなければよかった。生きることに疲れすぎていたからといって、あのような誘いに乗ったのが間違いだったのだ。
私はつい数日前の、自らの迂闊な行動を悔い始めていた。けれどその瞬間、男は私の首から伸びる鎖を手に取り、ぐいとこちらに引き寄せた。

「!」

そこで初めて私は、私を「買った」人物の姿を見た。

オリーブの木を思わせる、仄淡い鮮やかさを持った緑色の髪が、肩にふわふわと柔らかく広がっていた。
右目はその髪によって大半が隠れているけれど、少しだけ見えた黒い眼帯が、その下に在る筈の目を隠していることが分かった。
隠されていない方の目は、火を映したような、燃える夕日を思わせる赤色をしていた。

年齢は、よく解らない。20歳だと言われればそうであるような気がするけれど、50歳だと言われても躊躇いなく頷いてしまいそうだ。
……というような数字以前に、この人は、そうした私のよく知る「時の数え方」の中に収まるような人物ではないように思われてならなかった。
きっとこの人は、私とは別のところで生きてきた人なのだと、私はそのように彼を認識した。
そして私のそんな勘を証明するかの如く、その鎖を掴む右手は人ならざる、異形の姿を宿していた。

「俯かずに前を見なさい。私の隣でみっともない姿を晒すことは許さない」

「……は、はい」

「名前は」

変だ、と思った。
その瞬間、それまで立てていた恐ろしい仮説は全て間違いだったのだと、いくら愚鈍な私でも確信せざるを得なくなってしまったのだ。
だって、どうしてこれからバラバラにして売り飛ばすようなものに名前など問うだろうか?どうして、ただ使役するだけの道具に前を見ろなどと命ずるだろうか?

この人は私に、換金するための素材でも使い勝手のいい道具でもない、もっと別のものを求めている。そこまでは解った。
けれどその「別のもの」とは、どのような形をしているのだろうか。
それを推測するには、私はあまりにもそうした経験に乏しすぎたのだろう。だから私は、自分を納得させ得る答えを導き出せないまま、ただ彼のバリトンに従う他に、なかったのだ。

……けれど、どうやらこの人は私を傷付けないらしい。

シアといいます」

はっきりとそう告げれば、彼は「よろしい」と小さく答え、頷いて、今度は鎖ではなく私の肩に手をかけ、歩き出した。
人ならざる形を宿した彼の手は、しかし紛れもなく、私がずっと焦がれ続けていた人の温度を有していた。

彼の隣を歩きながら、私はすれ違う人々が、私のことや彼のことを見て、何かを囁き合っていることに気付いていた。私は耳を澄まして、それらの声を拾い上げようと努めた。
賑やかが過ぎるこの空間では、音の殆どがただの雑音となり、言語の形を取ってはいなかったのだけれど、それでもやがて、幾つかの単語を拾い上げることに成功した。
けれどそれらの、非現実的で奇妙な単語の数々は、私に何の知恵も知識も与えてはくれず、中途半端な情報として私を悩ませることしかしなかった。

「本物の魔法使い」「見える人間を買った」「人嫌いの竜使い」「片腕の化物」……。
畏れ、軽蔑、羨望、皮肉、嘲笑。愚鈍な私でも解るような、あらゆる感情を含んだ何もかもが混沌とした状態のままに私の耳を穿った。
それらの鋭く醜い感情は私を不安にしたし、悲しくもさせた。けれど何より、隣で彼が平然とした顔をしていることが、最も恐ろしかった。

貴方は悲しくないの?

そう尋ねようとしたけれど、できなかった。
首輪と鎖で繋がれている私にそうしたことを発言するだけの権利があるとはとても思えなかったし、
何よりこれだけ多くの声が集まっても彼の表情は動かないのだから、私のたった一言など何の意味も為さないのだろうと、心得ていたからだ。
けれどそうした、私のこれまでに馴染み過ぎた諦めの心地を、彼は不意に立ち止まり、後ろを振り返ることで遮った。
私は彼を見上げ、その視線が、彼に見える筈のない、私にしか見える筈のない「お友達」を真っ直ぐに見据えていることに気付いて、息を飲んだ。

「あのクロバットはお前の手駒か?」

幼い頃からずっと私の傍にいてくれたその「お友達」は、今日も同じように、音もなく私の後ろでそっと、羽ばたいていた。
「クロバット」という未知の音を紡いで首を捻る。チャリ、と鎖がまたしても冷たい音を立てる。
その鉄の音に辟易したのか、彼は小さく舌打ちをして私の首元に指をかざし、……そして、鉄の輪を静かに砕いた。
ちょっとやそっとのことで砕ける筈のない鉄の輪と、頑丈な鎖。それらが呆気なく、まるで砂であったかのようにさらさらと、金属らしからぬ心地良い音を立てて床に零れる。

すれ違う人達は、この人のことを「魔法使い」と呼び、その音にあらゆる感情を滲ませていたけれど、
それは子供っぽい悪戯な蔑称などではなく、彼の本質を正確に言い表した言葉だったのだと、私はこの時、ようやく悟った。
目の前で起きた非現実的な鉄の崩壊、けれど現実に存在した不思議な力、それらを認識するのに私は随分と時間を要したらしい。
彼が呆れたように溜め息を吐いた音を聞いて、初めて、首を絞めていた鉄の輪がなくなったことで、随分と息がし易くなっていることに気付いた。
「ありがとうございます」と紡ごうとしたお礼の言葉は、しかし同時に口を開いた彼によって遮られた。

「この4枚の翼を持つポケモンのことだ。お前を酷く慕っているようだが、……まさか、見えないということはあるまい」

その瞬間、彼の見せた不思議な力のことなど、どうでもよくなってしまったのだ。
だって彼は、私のお友達を見ている。私にしか見える筈のない、不思議な生き物をその赤い目に映している。そして、彼は私のお友達を「クロバット」「ポケモン」と呼ぶ。
それが意味するところに辿り着くことの叶った私は、縋るように彼へと問い掛けた。

「この不思議な生き物たちは、ポケモンっていうんですか?」

「そうだ。あれはクロバットといって、慕う人物の下でしかあの姿にはならない。いつからかは解りかねるが、元は別の、もっと小さな姿をしていた筈だが?」

……その通りだ。私の覚えている限りで言えば、この子は今までに二度、姿を変えている。細く頼りなかった2枚の翼は大きくなり、暫くして4枚に増え、誰よりも速く空を駆けた。
物心ついた時から、この紫色の翼を持った子は、ずっと私の傍にいてくれた。
私の目にしか映る筈のなかったこの子の名前、ずっと知りたかった、大切なお友達の名前。それを、この人は息をするように紡いでみせた。
この子は孤独だった私の見せた幻でも何でもなく、本当に存在してくれていたのだと、この子を見ることができるのは私だけではなかったのだと、認めて、そして耐えられなくなった。

「……いいえ、この子は私の手駒じゃありません」

込み上げてくるものを誤魔化すように、勢いよく床を蹴った。闇に溶ける紫色の身体に駆け寄り、その頭をそっと撫でてから振り返った。

「私の、大切なお友達なんです」

その瞬間、不思議なことが起きた。彼は驚いたようにその隻眼を見開き、そして、小さく笑ったのだ。
それはともすれば見逃してしまいそうな、なかったことにすることの方が正しいような、本当に一瞬の変化だった。
けれど、すれ違う人達の無数の声にも眉一つ動かさなかったこの人が、私の言葉に驚き、そしてほんの一瞬だけ、険しい顔をふわりと崩した。少なくとも、私にはそう見えた。

それは瞬きの間に私が見た幻覚だったのかもしれない。私だけしか、見ることのできないものだったのかもしれない。
けれど、私の傍にいてくれたこの不思議な生き物が、私の見せる都合のいい幻覚だったのかもしれないと思っていた友達が、本当にいてくれた。この子は本当に存在していた。
それならば、私の目はちゃんと、真実を見ることができているのではないかと思ったのだ。
私の目が彼の微笑みを、本当に小さな微笑みを見たのだから、きっとそれは真実なのだと、信じてもいいのではないと、思ってしまったのだ。

「ではそのクロバットも含めて、お前を買ったということにしておこう」

「ありがとうございます。……あの、」

「好きに呼びなさい。一応、ゲーチスという名がある」

彼は異形の右腕を黒いローブに隠し、それを翻して歩き始めた。
私はクロバットと顔を見合わせて、久し振りに微笑んだ。そして彼の隣に並ぶために、砂となった鉄の鎖を強く踏みしめ、駆け出した。

この人は、私の幻想を真実へと変えてくれた人。彼を信じる理由など、それだけで十分だった。

2016.3.4
娘もどきさん、素敵な作品のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!

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