海は己が飲む太陽を忘るか

※50万ヒット感謝企画

平和な土地(イッシュ地方ということにしています)に突如として現れた「門」から、異世界の住人「ネイバー<近界民>」が攻撃を仕掛けてくるようになった。
彼等に対抗するべく結成された「ボーダー<界境防衛機関>」は、日々、彼等との戦いにその身を投じていた。
これはそのボーダーに所属する一人の隊員、シアと、オペレーターとして隊員に指示を出し統率を取る一人の男、アクロマとが、久々の「休日」を共に過ごす話である。

彼女はひどく優秀だった。けれど、どこまでも人間らしくなかったのだ。

「どうぞ、苺の紅茶ですよ」

「ありがとうございます!」

嬉々としてお礼の言葉を告げた少女は、まだ熱いカップを慎重に持ち上げる。カップを顔に近付けて、その甘い香りを吸い込んでふわりと微笑む。
その華奢な身体には、生体エネルギー「トリオン」が、あまりにも膨大に詰め込まれていた。
この近代社会において、生き物が持つエネルギー「トリオン」はあまりにも貴重で、重要だ。
そのエネルギーをあまりにも多く有し、またそれを生産する能力にも優れていた彼女は、ネイバーの格好の的となった。
そのような事情もあり、半ば保護される形でボーダー入りを果たした彼女と、そんな彼女の世話役を任されたアクロマとが知り合って、もう直ぐ1年が経とうとしている。
にもかかわらず、アクロマはどうにも彼女の、彼女を取り巻く全てを甘受するかのような、あまりにも優しくあまりにも脆いその笑顔に、まだ、慣れることができずにいた。

「あれ?」と、一口目を飲み下した彼女は不思議そうに首を捻り、困ったように眉を下げたまま、縋るようにアクロマを見上げた。

「これ、苺の香りがするのに甘くないんですね。おかしいなあ……。こんなに甘い香りなんだから、きっと甘い味がするんだろうなって、思っていたんですけど」

ぐさり、と、彼の心臓に見えない針が突き立てられる。
そんな精神の内出血を、しかしこの少女には決して悟られないようにして、アクロマは穏やかに、気丈に、得意気に笑う。

「ふむ、甘い紅茶をご所望ですか。……では、これで如何でしょう?」

そう言って、傍にあった角砂糖を二つ、カップの中に落とす。彼女の手に、彼女のためのティースプーンを握らせる。
彼女はそれらを不思議そうに見ながら、クスクスとメゾソプラノの声音を転がすように笑う。

「アクロマさんはストレートで紅茶を飲むのに、この部屋には角砂糖やティースプーンが用意されているんですね」

「……ええ、そうですよ。いつ、貴方のような、たっぷりの砂糖を必要とするお客様が来てもいいように準備しているんです」

子供扱いされたことへの僅かな悔しさをその顔に滲ませ、「私だってもう少ししたらストレートで飲めるようになりますよ」と強気に言い返す。
そのまま金のティースプーンをカップに差し入れ、くるくると中身をかき混ぜて、紅色の中に沈んだ二つの角砂糖を溶かし始めた。

「そういえば、明日は貴方の個人ランク戦があるのでしたね」

「はい、初めて戦う人なので、きっと勝てないと思いますけど、……でも、しっかり覚えて帰ります」

覚えて帰る。
彼女の口から紡がれるその言葉は、一般人の「覚える」とは一線を画していた。
多すぎる生体エネルギー、トリオンをその身に宿した少女は、その高すぎるトリオン能力が稀に引き起こす特殊能力「サイドエフェクト」を有していたのだ。

「他人の嘘を見抜く」「少し先の未来を読む」といった、脳や感覚を鋭敏に働かせることのできるその力の発現様式は、個々人によって大きく異なる。
彼女のサイドエフェクトは「選択記憶」という形で現れていた。
この少女は、「記憶すべき事柄」と「記憶しなくてもいい事柄」とをふるい分け、前者をいつまでも覚えていられるのだ。
後者に分類された記憶は、しかし半日も経てば綺麗に彼女の脳から消し去られてしまう。そのあまりにも奇怪な力を、彼女は1年前、持て余していた。

記憶のふるい分けがまだできなかった頃の彼女は、正に悲惨という他になかった。
彼女は目に、耳に、肌に飛び込んでくるあらゆる情報の、どれを切り捨て、どれを拾えばいいのかを判断できずに、何もかもをその小さな脳に蓄え続けていたのだ。
すれ違う人の話す内容から、料理に使用された野菜の種類に分量まで、重要なことも些末なことも、その全てを華奢な身体は処理しかねていた。
大きく膨れ上がり過ぎた記憶を抱え、立っているのがやっと、といった感じの少女だった。

高すぎるトリオン能力を持つが故にこの部隊に招かれた彼女は、しかしこの新しい場所に酷く怯えていた。
彼女にとって、新しいところに足を運び、新しい人と出会い、新しいことを知ることは、記憶、すなわち抱えなければならない荷物が増えてしまうことを意味していたのだろう。
彼女は自らに情報を与える何もかもに怯えていた。針で突けば全てが弾けて飛んでいってしまいそうな程に、彼女の記憶は乱雑に、そして膨大になりすぎていたのだ。

『全てを覚えている必要などないのですよ、シアさん。』

そんな彼女に、記憶を整理する術と、ふるい分けの基準を与えたのは他でもないこの男だった。

『貴方は忘れることを酷く怖がっているようですが、我々人間にとって、忘れるということは至極当然のことなのですよ。』
『自分にとって必要なことと、そうでないことを見分けなさい。重要なことだけ覚えて、他は思い切って捨ててしまいなさい。』
『貴方が捨てた情報が、実は必要なことであったとして、そうした場合は、その情報は何度でも貴方のところへとやって来ます。忘れてはいけなかったのだと教えてくれます。』
『だから、大丈夫ですよ。』

そうした彼の指導によって、彼女はゆっくりと、しかし確実に、記憶を整理し情報を取捨選択する術を身に着けていった。

この優秀なオペレーターに一介の新入隊員であったこの少女の世話役を任せた上の意図は、彼女のサイドエフェクトであるこの「選択記憶」を有効活用することにあった。
その目論見は長い期間をかけてようやく叶い、彼女はその力を、この組織「ボーダー」のために全て振るい、尽くした。
彼女は一度遭遇した敵の姿や能力、行動パターンを決して忘れない。個人ランク戦で戦うことになった相手の全てを忘れない。
故に彼女はシューターとして前線で活躍する一方で、アクロマの役職であるオペレーターの会議にも頻繁に顔を出していた。
彼女が「必要だ」と認識した、あまりにも正確で精密な情報の数々は、そのままボーダー全体の知識となった。

シアさん。貴方は折角、記憶できる優秀な頭を持っているのですから、その知識を自らの知恵とすることも覚えなければいけませんよ」

少女が記憶の取捨選択を適切にできるようになってからも、アクロマの指導は終わらなかった。
彼女は「二度目以降の戦い」においては誰よりも優秀な立ち回りを見せたが、初めて出会う相手への対応はあまりにも下手であったのだ。
そんな彼女に「知識の連結と応用」のコツを教えるのもまた、彼の役目であった。

それは上が彼に命じたことではなかった。誰に指示されずとも、彼は自ら彼女の指導役を自主的に買って出た。
つまりところ、アクロマは単に、縁あって出会うことの叶ったこの少女を放っておけなかったのだろう。
確かにこの少女が自らのサイドエフェクトを使いこなすことは、ボーダー全体の大きな利益となるのだろう。事実として、彼女の脳が処理し、記憶した情報は組織の要だった。
しかしそれ以上にアクロマは、自らを慕ってくれるこの少女を大切に想っていたのだ。彼女の成長を、見守っていたかったのだ。

……実のところ、彼女にこの「苺の紅茶」を振る舞うのは今回が初めてではない。彼女の手に握らせたティースプーンを、彼女以外の誰かが使ったことは一度もない。
彼女がその紅茶を「甘くない」と驚いた、そのやり取りはおそらく今日で20回目に達するであろう。アクロマはそう記憶していた。
しかし彼女は覚えていない。シューターとしての自分に必要ではないと判断し、彼女が弾くに至った此処での記憶、それを彼女は綺麗に忘れてしまっている。
忘れているから、いつまでも同じように苺の紅茶に歓喜し、その甘くない味に首を捻る。彼女のために用意したティースプーンと角砂糖の存在に、いつまでも同じように驚き、笑う。

何度同じ時間を重ねても、彼女はアクロマの指導した通りに、此処でのことを忘れていく。
彼女を「そういう風に」したのは他でもない自分である筈なのに、アクロマはそのことに酷く傷付いている。
傷付いている自分が、どうしようもなく滑稽で、どうしようもなく、情けない。

この少女は、自分の好きな食べ物も、好きだった音楽のことも、鏡に映る自分の目が何色をしているのかさえも、覚えていない。
彼女が人間らしくあるために、またトリガーの要となるために、「必要のないもの」として捨てざるを得なかった記憶はあまりにも多く、
その捨てた記憶によって、彼女は皮肉にも、人間らしい姿からまた遠ざかることとなってしまった。

「……アクロマさん?」

けれど、それでも彼女はこうして「アクロマ」と彼の名を呼ぶ。
自分の名前さえ、時折「必要のないもの」として切り捨ててしまう彼女が、しかし彼の名前を言い淀んだことはただの一度だってない。
彼女は自分が、彼の自室で幾度となく苺の紅茶を飲んだことを忘れているが、アクロマが普段、紅茶をストレートで飲んでいるということは、覚えている。
この入り組んだトリガーの宿舎で、彼女はたまに自室の位置を忘れるが、そんな時には決まって、アクロマの自室のドアを迷わずに叩き「私の部屋はどこでしたっけ?」と、尋ねる。

彼女はアクロマへの想いを口にしない。アクロマもそのようなことは決して言わない。
けれど彼女の記憶が、アクロマを構成する全てを覚えることを選んだ彼女の意図が、他でもない自分を必要としているのだと、彼こそがかけがえのない存在なのだと、訴えている。

「……何でもありませんよ。貴方の目がとても綺麗な海の色をしていると、思っていただけです」

「え?……ふふ、そうなんですね。私の目は海の色なんですね」

だからアクロマは少女の代わりに、彼女に最も近いところで、彼女が忘れてしまった全てを、覚えている。
いつか彼女が戦わなくてもよくなった時に、同じようにこうして苺の紅茶を飲みながら、
「これを飲むのは今日で×回目だったのですよ、シアさん」と、得意気に微笑んで教えることのできる日を、待っている。

2016.3.4
(否、消して忘るまじ)
基山さん、素敵な作品のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!

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