いつか世界が終わる日に、回答しよう

(SWSHの物語、その終着点にあるかもしれない話)(連載の内容を仄めかす描写、および剣盾世界のメタ要素あり)

「おかえり。楽しかったかい?」

 キラキラと降る木漏れ日は妖精の粉のように見えた。長くガラルの光で在り続けた彼が浴びるならばきっと、そういうものこそが相応しいのだろうと自然に思える。リザードンの力を借りずとも彼は空さえ飛べそうだった。信じる心と妖精の粉、飛ぶためにはその二つと、あとは楽しいことを考えるだけでいい。とっくの昔に手放してしまった絵本、子供だけが住む国に生きる陽気な青年の教えを数年ぶりに思い出して私は笑った。「ええ、とても」などと答えずとも、ただ微笑むだけでこの人には伝わってしまうような気がしたからだ。
 木漏れ日を受けて眩しそうに目を細める彼の姿が、もう既に眩しい。ガラルの英雄達の休息の場で在り続けたこの場所、まどろみの森には、今スポットライトを浴びるべき相手が分かっているかのようだった。素敵な采配、大正解。だって彼は真に夢を与える人であった。私はただの、夢を見る人にしかなれなかった。

「ホップのザマゼンタが寂しがっていたそうだよ。ボールから勝手に飛び出して、ガラル中を回ってお姉さん……ザシアンを探していたらしい。やはりポケモンはすごい生き物だな! 大切な存在が『いなくなった』ことが、たとえすぐ傍にいなくてもおのずから、分かるんだ」
「……後で謝っておくよ。悪いことをした。一緒に連れていくべきじゃなかったよね。インテレオンやポットデスはともかく、ザシアンは真に『私のポケモン』であるという訳じゃないから、こんなことに付き合わせちゃいけなかったんだ」

 わざと、ガラルの剣を手放すことを仄めかした物言いをする。ダンデさんはあからさまに狼狽の表情を作ってくれる。私の発言が本気のものではないと知って尚、彼はこんな反応をする。私のためにそうしてくれる。
 優しい対応をしてくれる彼を私は許さなければならない。そして彼は不出来な私を、この和解の末に、ガラルの未来を紡ぐための同士として迎え入れなければならない。分かりきった結末に進んでいることが分かっているから、最早傷付くことも悲しむことも在り得ない。ぬるま湯みたいなコミュニケーション、霧を飲むような虚しさに喉がかじかんでいく。もう脳髄は情緒の冒険に出ることを諦めている。帰って来たのだ、私は。

「いや、君にザシアンが相応しくないといっている訳じゃないんだ! ただそれ以上に彼等は、ガラルの英雄としてずっとこの世界にいたがっているのだという、それだけのことで」
「分かっているよ、ごめんなさい。……それじゃあ次に何処かへ行く時には、ザシアンの入ったボールは貴方に預けることにしようかな」
「それはいい! 君のザシアンならオレ達のいい特訓相手になってくれそうだ。いつでも歓迎するぜ!」

 大きく胸を張ってにんまりと得意気に笑う様は10歳の少年のよう。でもその高く伸びた背と力強く反られた分厚い胸板は紛うことなき大人のもの。かつてはジムチャレンジャーとして私のように旅をしていた彼は、けれど長い時を経て大人になり、ひとところに留まることを選んだ。まるで「冒険をやめる」ことこそが大人になることだとでも言うように、彼は落ち着いていった。少年のような笑顔はそのままだというのに。夢を見る心地は当時のまま彼の中で燃えているというのに。
 そう、彼は忘れていない。目を輝かせてガラル中を駆け巡っていた日々のことを、毎日のように夢を見ていた時代のことを、彼が意図的に記憶の海に沈めたことなど一度もない。

「冗談だよ。もう行かない。夢を見るのも冒険をするのも、もうおしまい」
「……そうか」

 私だって忘れていない。未解決な愛を諦めてなるものかとスープカレーを食べながら誓ったことも、私を知る何十万人もの人の誰もが知らない秘密をたった二人で共有したことも、何もかもを揃いにしてずっと一緒だと質悪く笑いながら未来を結び合ったことも、忘れていない。忘れられる訳がない。

「ホウエン地方にね、行ってきたんだよ。エネコというポケモンを捕まえて、それはそれは大事に育てたんだ。愛着というものがあの時ようやく私に馴染んだんだよ。今はもういないけれどね。あと、SNSを使いこなせるようになった。私は随分と有名になってしまって、ガラルの外からも沢山応援を頂いて、フォロワーの数が6桁になったんだよ。今は0人だけどね。それからね、ついさっきの世界では一目惚れだってしたんだ! 凄いでしょう、私にだって、普通の人みたいに誰かを好きになることができるんだ。手を繋いだり、お揃いを沢山作ったり、ずっと先の未来に相手がいることを想像したり、そういう幸せがあるってことを教えてもらったんだ。こっちでは彼には会えないみたいだけれどね。それから……」

 矢継ぎ早に過去の夢を告解していく私に木漏れ日が差す。眩しさと、夢を想起する恍惚感に思わず目を閉じる。ダンデさんの目には、私が、私こそが、妖精の粉を浴びているように見えているのだろうか。
 途中でふっと目蓋を上げれば彼の体からもう光は失われていた。時が流れたのだ。たった数分、その間に太陽は木漏れ日の位置を変えた。スポットライトはダンデさんから私に移った。信じる心と妖精の粉、あとは楽しいことを考えるだけでいい。その全てが此処にあるはずなのに、私達は空を飛ばない。空を飛ぶという夢を見ることさえ、もう叶わない。
 私達の前に綺麗に敷かれたレールは「チャンピオンになった」という事実により唐突に途絶えた。冒険の終わりだ。彼は潰えたレールの先にガラルという世界を置き、ゴール地点を発展させることを生き甲斐とした。私にはまだそこまでの思い切りがなかったから、駄々を捏ねるようにその先へと歪なレールを敷き続け、夢を見続けた。歪なレールに導かれるまま、私は過去へ飛んだり、あるいは少し先の未来へ飛んだり、更にはこの世界とは違う別の……私がザシアンではなくザマゼンタの手を取る世界へ飛び込んだりもして、とにかく好きに、奔放にやった。
 私の冒険は終わっていないと信じていた。歪なレールの先の冒険を思いっきり楽しんでやろうと思っていた。そして何の因果か、運命に導かれ過ぎた私の手の中にはきっと、その運命の付属品とでも呼べそうな「妖精の粉」に類した何かがあった。その結果、私はこれだけ沢山の夢を見ることができた。夢の世界を自由に飛び回っていた時間は、それはそれは楽しかった。覚めると分かっている夢であっても、覚めないでと願わずにはいられない程に。

 10年前、同じ境遇にあったダンデさんが、私が強引に作り上げ、飛び込んでいった夢の世界、モラトリアムワールドとも呼べそうなそれに気付いていないはずがなかった。だから夢の終わり、私が此処で目覚めるとき、おかえりと声を掛けてくれるのはいつだって彼だった。
 彼はきっといつまでだって待ってくれたに違いない。夢を見続ける私を責めることなく、ただひたすらに迎え入れてくれたはずだ。私の夢を咎める権利、唯一それを有した彼がいつまでだって許すという姿勢を取っているのであれば、最早私が冒険をやめる理由など何一つないように思われた。これからもこの夢心地、夢物語は、ずっとずっと続いていくのだろうと思われていた。

ユウリ、此処には君が愛したエネコも、6桁を超えるフォロワーも、未来を誓い合った相手もいない。冒険をやめたオレがその夢の代わりになれるなんて思っちゃいない。この世界は君にもう冒険を見せちゃくれない」
「……」
「それでも、君がもう何処にも行かないというのなら、今度こそオレと一緒に来ないか。もしかしたら、万に一つくらいの可能性として……君がこれまでしてきた冒険以上に楽しいことが、この現実にはまだ眠っているかもしれない」

 でもこの時は来た。極自然にやって来た。妖精の粉はまだあるのに、夢を楽しくないと思ったことなどただの一度もなかったのに、私は空を飛ばなくなった。喪われたものが何であるかを私は分かっていた。おそらくそれは、あの絵本になぞらえるなら「信じる心」に相当するもので、要するに「私の冒険はいつまでも続く」と思えなくなってしまったことこそが、私を現実に引き戻したのだろう。
 脳髄はもう情緒の冒険を諦めている。彼の大きな手が真っ直ぐに私へと伸ばされている。手の平に降る木漏れ日、キラキラと瞬く妖精の粉を包むように私はそこへ手を置いた。そこには私の恐れていた喪失感も胸を抉るような寂寥も死にたくなるような諦念もありはしなかった。ただ涼しく、穏やかで、いっそ心地が良かった。彼もまた同様に、穏やかに笑いながらそっと握り返してくれた。
 夢は終わった。歪なレールを渡る歩みはようやく止まった。私は今日こそダンデさんと同じ、このままならない現実にようやく本当の意味で目覚めたのだ。

 手を繋いだまま、まどろみの森に背を向ける。吹いてきた風が妖精の粉を振るい落としていく。木漏れ日の降らない霧の深い場所へと足を進めて、どちらからともなく手を離し、どちらからともなく笑い出した。霧のせいで声は響かなかった。ただ二人の傍にこもるばかりであった。こんなに大声で笑っているのに、きっとこの瞬間のことはガラル中の誰も知らないのだ。
 笑っていたダンデさんが徐にうずくまった。その笑い声がいよいよ震え始めたから、私は彼の矜持を守るため、その嗚咽を掻き消すようにより大声で笑った。誰にも聞かれないように私の笑い声で掻き消した。声は二人の傍にこもるばかり、嗚咽が届くとすれば私の耳にだけ。だからこそ大声で掻き消さなければならなかった。彼はきっと私にこそ、その心にひびが入った音を聞かれたくないと望むはずだから。
 運命に導かれすぎた「主人公」のその後は、一人で生きるには苦しすぎるものだと分かっていたから、私は彼を馬鹿にしたりはしなかった。みっともないと思うこともしなかった。ただ「待っていてくれてありがとう」と「長く一人にしてごめんなさい」という、あまりにもやさしく穏やかな心地を笑い声に変換して、ひたすらに喉を埋めていった。

 二度と眠ることはない、と断言するには不安が残る。また彼を此処へ迎えに来させてしまうのではないかという僅かな予感が胸の奥でくすぶっている。その時、彼は許すだろうか。今度こそ怒るかもしれない。子供のように泣きながら喚き立てて来るかもしれない。分からない。現実の彼のことは、私はまだよく分かっていない。だって私達は、此処ではまだ運命共同体でしかない。主人公、そしてチャンピオン、この二つを運命により与えられたという事実だけを共有する不思議な関係に過ぎない。その間にはまだなんの感情もありはしない。それでも彼は喜んでくれている。私が目覚めたことに安堵してくれている。ただ「もう一人ではない」というそれだけで。

「なあ、訊いてもいいかい」
「どうぞ?」
「君が飛び込んだ夢、その中で君は、一度でもオレのことを好きになった?」

 私は笑いながら、蹲ったままの彼に手を差し出した。妖精の粉の残滓も木漏れ日の温もりも感じさせない、ただ深い霧に少しだけ湿った右手が、現実のままならない温度でそこに在った。

2020.11.15
(剣盾1周年おめでとうございます)
(引用:Crazy Cold Case、砂一番、/600のアクアティック・メヌエット)

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