(ED前の序盤でヨロイ島上陸し修行を終えた場合に起こり得るかもしれないトラブル)
冠を被った王女がヨロイ島へ帰って来た。
此処は私の第二の故郷、皆さんは私の大切な家族、それはこの島を出て旅を再開しても変わらないのだと、ずっと大好きだと、そうした見事な博愛を貫き笑顔で島を出ていったのが1か月前のこと。そう、1か月。たった1か月で、持っているバッジは3個から8個になっていた。連れていたポケモンはインテレオンを残して全て入れ替わっていた。「ガラルの救世主」「新しいチャンピオン」などという御大層な肩書きを2つも引っ提げていた。
シショーも、ミセスおかみも、門下生の皆も、彼女との再会をそれはそれは喜んだ。彼女も1か月前と寸分違わぬ笑顔で食堂の席に着き、スープカレーを嬉々として口に運んだ。「ガラル各地で美味しいものを口にする機会は沢山あったけれど、やっぱりミツバさんの作る味が一番だった」などと模範解答までやってのける始末だ。あの頃を思わせる完璧な姿で彼女は返って来た。完璧だった。完璧だった。
ただ一点、セイボリーと視線を合わせないということを除いて。
「どうしたんだいユウリ、久しぶりに兄弟子を見て、緊張でもした? この子、顔はとてもいいからね」
「あはは、そんなところだよ。セイボリーがいつにも増して綺麗に見えるから、眩しすぎて直視できないんだ!」
完璧な冗談。場の空気を濁らせない模範解答。セイボリーは戦慄した。彼女がこちらに視線を向けないというその事実よりも、ミセスおかみから飛んでくる鋭い指摘に赤面することも言葉を詰まらせることも苦笑することもなく、まるで最初から用意していたかのようにすらすらと適正な言葉を紡ぐ彼女の姿にただ、戦慄した。
彼女は強かった。ヨロイ島にやって来た2か月前の段階で既に、それはそれは強かった。セイボリーでは一度も勝つことが叶わなかった。ローティーンの若さに反して異様な強さを発揮していた彼女は、けれども1か月前まではもう少し子供であったはずだ。
島を出る前日の夜、セイボリーの実直すぎる告白に顔を赤くし、紅茶の色をした目をすっと細めて嬉しそうに笑った彼女。でも今は集中したいことがあるから「さきおくり」にしたいと、もっと強くなって君に相応しい人になるからと、年下かつ無敗の分際でそのようなことを告げて笑った彼女。そんなことを言ってワタクシから逃げたりしたら許しませんから、などと年甲斐もなく喚き立てたセイボリーを、お腹を抱えて笑いながら許した彼女。逃げたりなんかしないよ、ガラルを旅していろんな人に出会ったけれど、それでも君以上の人はいなかったと必ず言うさ、などと、やはり年下らしからぬ勇ましさで愛の宣誓までやってのけた彼女。今、セイボリーの隣に座っているのはまさにその人である。
……そんな彼女が帰って来たというのに、最強の座を欲しいままにしてヨロイ島に凱旋に来て、隣の席で食事まで楽しんでいるというのに、セイボリーは未だ彼女に声を掛けることさえできていない。彼女の、明後日に向けられた視線がそれを許していないのだ。完璧ないなし方であった。完璧な拒絶であった。無敗の冠をその頭上に煌めかせる彼女にそうされてしまっては、セイボリーではもう打つ手がなかった。そんな風に彼女を「お上手」にしているものの正体が分からず、彼はただただ戦慄するほかになかったのだ。
けれどもこの道場にいるのはセイボリーだけではない。大声での告白があの夜為されたこと、二人が互いを憎からず思っていることを知っているミセスおかみやシショーは、二人で話したいこともあるだろうからと、食事を終えた彼と彼女を早々に道場の外へと放り出した。セイボリーにとっては天から降って来たかの如き有難い救済、けれども彼女にとっては地獄から槍を突き上げられる心地であったに違いない。訪れる沈黙、困ったように眉を下げているであろう彼女。勿論実際にはその眉など見えない。だって俯いているのだから。この期に及んで彼女は一度も、こちらを見ようとしないのだから。
「折角、師匠とミツバさんのご配慮で時間を作っていただいたのに申し訳ないな。私、すぐに本土へ戻らなくちゃいけないんだ」
「ユウリ」
「そろそろ行くね。君の顔を見られて本当に良かったよ。元気そうで、安心した」
「……っそ、そういうことはちゃんとこちらを見てから言っていただきたい!」
彼女の肩を掴もうと伸ばした手が空を切る。ひらりと風を味方につけてセイボリーから逃れた彼女は笑っている。俯いているが、口元は笑えている。
「何処にいても君のことを応援しているよ。何があっても私は、君の味方だから」
そう告げて、背中を見せて、勢いよく駆け出そうとしたのだろう、大きく踏み出した足が何の前触れもなしにぐにゃりと曲がる。一瞬にして骨を失い崩れ落ちたかのようなその動きにセイボリーの頭は真っ白になる。根っからの健康優良児、身体能力も人並み以上には高く、行動力もピカイチなアウトドア志向の彼女が、そのような「倒れ方」をするところを初めて見た。石に躓いて顔から勢いよく湿地にダイブし顔を赤らめ笑う様は何度か見てきた。猪突猛進型の彼女は険しいヨロイ島の地形においても足元を見ず突っ走る傾向にあり、そのためよく翻弄され、よく転び、よく怪我をしてはよく笑った。それが彼女の生き様だった。
けれどもこれは。そんな過去の全てを「幻想だ」と嘲笑うかのような、この弱々しく脆い有様は。
「ユウリ! どうなさったんです」
「……え、えっと」
掴んだ細い腕の先、膝を黄色い土にぺたんと折ったまま、ようやく顔を上げた彼女は茫然としていた。目を丸く見開いた、幼子のような表情。予想の斜め上を行く反応に絶句してしまう。自身の体に何が起こったのか判り兼ねているらしく、だらりと垂れ下がった四肢へ視線を巡らせてから彼女は困ったように笑った。ああ先程もこの顔をしていたのかと、セイボリーは俯きで隠されていた彼女の表情をほんの少しの時間差で、知る。
「びっくりさせてごめんね、たまにこういうことがあるんだ。力が入らなくてね。でもすぐ立てるようになるから大丈夫だよ」
「こういうことがある? よくもそんな嘘を! 島にいた頃はこのようなこと、全く起こらなかったでしょうに! 何処か具合が悪いのでは? すぐミセスおかみに」
「ああ、どうにもならないよ。一応病院にも行ってみたんだけれどね、体は何処も悪くないらしいから」
何処も悪くない? そんなはずがない。何かあるはずだ。でなければこの惨状が、この愛弟子を襲っている訳の分からない状況の説明が付かない。彼女は健康だった。1か月前まで確かにそうであった。たったそれだけの空白の間に何かあったのだろうか。
最強の冠を欲しいままにして、こちらが戦慄する程の完璧な振る舞いに徹する彼女が、そんな「何か」と引き換えに「こう」なってしまうなどあってはならないことだ。故にセイボリーは追及しなければならなかった。彼女が旅の間に手放したものを、手放さざるを得なかったものを探り当てようとしたのだ。
「ユウリ、何があったんです。あなた、随分と完璧になってしまいましたが、その代わりに何を失ったんです? こんなにも、お腑抜けになって」
「……」
「ワタクシと目を合わせようとしなかったことと関係がありますか? あなたに好意を持っていると確信できる相手にさえ話せないようなことですか? 何が、あなたをこうさせてしまったのですか?」
「……君と、話したところで、何かが変わるとは思えないんだよ」
小さな喉が絞り出すのは、消え入るように小さな声であった。地獄から千年かけて届いた貝の死骸のようであった。耳を当てても血のスープを沸かす窯の音しか聞こえやしなかった。一体何があったんだ。何が……。
「誰があなたをこんな風にしたんだと聞いているんですよ、ユウリ」
何、を誰、に切り替えた瞬間、彼女の肩が大きく跳ねる。その失態を恥じるように、こちらの追及を責めるように彼女は笑い方をやや意地の悪いものに切り替えていく。
「君に、話したところで……」
ああ成る程、力不足だということが言いたいのか。そう察してセイボリーは鼻で笑った。
そんなことはよく知っている。あなたに言われずともワタクシが一番よく分かっている。あなたに勝てない相手だ、ワタクシにどうにかできるはずもない。それでも手を伸ばしたいと願うこちらの愚行、それを彼女は責めようとしているらしい。それだけの元気がまだこの細い体にあったことに気付かされ、彼はようやく息を吐く。喉から吐き出した空気の塊は、安堵により、恰好の付かない震え方をしている。構うものか、構うものか。
その吐いた息に安堵が混ざっていることに気が付いたのだろう、彼女はこちらを責めることを諦めたようで、こちらを真っ直ぐに見上げ、懐かしい目の細め方をする。
「ねえセイボリー、楽しかったね、此処での時間。本当に楽しかった。夢のようだった」
「ええ、その通り。あなたとこの島で過ごした1か月、忘れたことなど一度たりともありませんでしたよ」
「……ごめんね、もう戻れそうにないんだ。こんなことになってしまったから」
「随分と身勝手な拒絶ですね。このワタクシがそのような謝罪で納得するとお思いで?」
もう戻れそうにない、などと言ってくれるな。あなたのためなら時さえ戻してやる。あなたのためなら地獄の蓋さえ開けてやる。ワタクシはそうした覚悟であなたの腕を掴んでいるのだ。お分かりいただけますか、ユウリ。
「ね、話してごらんなさいな」
人の救い方は知っている。あなたがかつてワタクシにしたことだ。自暴自棄になったこの身を持て余すようにこの道場へと転がり込み、本気で物事に取り組むことさえできず停滞していたワタクシを、鮮やかに引っ張り上げたのは他でもないあなただ。あなたに救われた全てが此処にある。今度はワタクシが同じことをしてみせよう。これは単なるミラーコートに過ぎない。エスパー技は十八番だから、きっと何の問題も起きない。上手くやれる。ワタクシならできる。
そうした心地で、先程大きく跳ねた肩に手を伸べる。四肢には満足に力を入れることもできていないのに、肩だけは緊張と拒絶を示すかのように硬いままだ。その強情さに苦笑しつつそっと撫でる。抱き寄せるだけの勇気はなかった。下手に力を込めすぎてこの脆い冠に痛みを与えてしまうことをこの兄弟子はひどく恐れたのだ。
「いつまで意地を張っているんです? ワタクシに引き止められて本当は嬉しいくせに」
ほら、こんな傲慢を笑って許してくださるのがあなたでしょう。許容と肯定はあなたの十八番だ。あなたはワタクシの我が儘を、あの告白でさえ嬉しそうに受け止め笑ったではないか。これしきのことを受け入れられぬあなたではあるまい。
さあほら許せ、許してみせろ。ワタクシのことを、あなたのことを。あなたがもう一度笑うために必要な、すべての、惨たらしく醜悪で残酷なことを。
「手放さなければいけなかったものは、ひとつもなかったよ。ただ……抱えなければいけないものが増えすぎてしまってね」
地獄の窯に沸かされた貝の死骸が、その口をようやく開いた。
「少し、重くて」
2020.7.16