拓かれた箱庭

(別離の四部作、その四)

「これで遊んでもいいですか?」

そう言って、少女は大きなゴミ袋に入れられた、不要になった書類たちを指した。
既にシュレッダーで跡形もなく分解されたその紙切れで、果たしてどう遊ぶつもりなのか。
マツブサには想像もつかなかったが、「構わないよ」と許可を下すや否や、彼女はそのビニール袋の結び目を解いて、その中身の全てを床にばら撒いたのだ。
ざあっという紙の擦れる音がやけに大きく聞こえ、マツブサはあまりの驚きに叱ることを忘れてしまっていた。

「……何を、」

「大丈夫です、後でちゃんと袋に入れ直しますから」

笑いながらそう告げた彼女は、その細い紙切れをくしゃくしゃに丸めたり、寄せ集めたり、高く積み上げたりして何かを作っているようだった。
マツブサは思わず少女の手の動きに見入っていた。
紙切れを寄せ集め、小高く積んで山を作ったかと思えば、二本の指で床をすっとなぞり、紙切れの落ちていないところを作って道のようなものを作る。
まだ、少女がその紙切れで何をしようとしているのか見えてこない。
ならば解るまで観察するまでだと、マツブサはデスクに両肘をつけ、組んだ両手の甲に顎を乗せて仕事を完全に中断した。

せっせと紙切れの山で遊んでいる少女を、少し離れたデスクから観察していたマツブサは、はて、こんな光景を何処かで見た気がするなと首を傾げた。
暫くして、この光景の既視感に思い至ったマツブサは思わず眉をひそめる。砂場で遊ぶ子供と、その様子を見守る親の構図にあまりにも似ているのだ。
ああ、そういえばこの子供と自分はそれくらいの年の差があるのだと、改めて思い至った瞬間、背中を冷たいものが伝った。

今、少女は砂場遊びならぬ紙きれ遊びに夢中になっていた。鼻歌さえ聞こえてきそうな笑みを湛えている彼女は、きっとマツブサの存在を忘れている。
話し掛けたところで、おそらく手元に意識を集中させているため、ろくな答えなど帰って来ないだろうと彼は確信していた。
今の彼女はきっと、マツブサの話に真面目に取り合わない。そう思えたからこそ、彼はそんなことを尋ねたのだろう。

「君は気にならないのかね?」

「何がですか?」

「その……私と君の年が離れすぎている、ということが」

しかし彼の予想に反して、少女の手はピタリと止まってしまった。
焦るマツブサと対照的に、一瞬の沈黙の後で声を上げて笑い始めた少女は、一頻り笑いを湛えた後で再び紙切れの山に手を加える。

「あはは、ごめんなさい。全く気にしたことありませんでした。急にどうしたんですか?年が離れていると、何か困ることがあるんですか?」

こぶし大くらいの大きさに丸めた紙切れを、少し離れたところに置く。その隣に更に小さな紙切れのボールを置き、今度は紙切れを集めて輪っかを作り始めた。
その行動で、少女が何を作ろうとしているのかマツブサはようやく理解する。
二つの紙切れの塊は、おそらく、サイユウシティとポケモンリーグだ。そして今、せっせと作っている輪っかは、ルネシティを表しているのだろう。

彼女はこの紙切れの山で、ホウエン地方の縮図を作ろうとしているのだ。
成る程、そう気付けば確かに、うず高く積み上げられた山は煙突山に、離れたところにある大きな紙切れの塊はムロタウンに見えなくもなかった。
マツブサは少しだけ感心しながら、彼女の質問に答える形で質問を重ねる。

「私と話が合わないと思ったことは?」

「ありません」

「私の話を煩わしいと思ったことは?」

「一度も」

今度は何を作ろうとしているのか、サイユウシティの島よりは少し小さなボール状のものを丸め始めた少女は、しかしその返事に一瞬の沈黙すら挟むことなく即座に答えた。
変なマツブサさん。私がそんなことを気にしているように見えましたか?そう笑いながら置かれたそのボールは、ミナモシティの北東にあった。
……ああ、成る程、この場所のことか。マツブサは思わず喉の奥で小さく笑う。

「私が君より先に老い、いずれ君を置いて死んでしまうことに関しては?」

「え?」

素っ頓狂な声が少女から上がり、ああ、これは聞いてはいけないことだったのかと降ってきた罪悪感に胸が軋んだ。
鈍色の目があまりにも無垢たる輝きをもって見開かれていて、その目に映るマツブサは、目も当てられないような悲惨な表情をしていた。
今すぐに何かしらの言葉を紡げば、この空気は変わるだろうか。しかしマツブサが次の一手を投じるより先に、少女は納得したようにぱんと両手を叩いた。

「……ああ!そうか、そういうことになってしまうんですね」

そして全く意に介していないような微笑みで、再び紙切れの山に手を付け始める。
そうした未来への懸念は、大人であるマツブサよりもまだ16歳である彼女の方に大きく抱えられていると思っていただけに、その興味を失ったような反応にマツブサは驚く。
しかし彼女は律儀に、関心の薄い筈のその質問に答えてくれる。

「大丈夫ですよ、マツブサさん。だって私は明日死んでしまうかもしれないんですよ?そんな未来が訪れるのなら、寧ろそこまで何事もなく生きてこられたことに感謝すべきです」

「……」

「それに、もし私が寂しさに耐えられなくなったなら、貴方の後を追います。だから先に亡くなってしまう貴方は何も心配しなくていいんですよ」

末恐ろしいことをいつもの笑顔で言ってのけた彼女の姿が、マツブサの両手の温度をさっと奪う。
この少女はマツブサの最も大きな懸念をピンポイントで突き、恐ろしい程の深さで抉って来るのだ。

少女よりも一回り以上年の離れたマツブサが、彼女より先に死ぬことは明白だった。
そのことに対して彼女が悲観するのならまだいい。いなくなった後のことを思い、寂しいですねと泣きそうな顔で微笑んでくれたならどんなによかっただろう。
しかし彼女はその行為を選ばない。まるで当然のように「耐えきれなくなったら後を追う」と宣言してみせるのだ。
それを咎めることはできるが、所詮はそれだけだ。マツブサはこの少女を止められない。本当に彼女を止めるべき時に、マツブサはもう、少女の隣にはいない。

とうとう鼻歌を歌い出した少女は、ホウエン地方の縮図を紙切れで造り上げてしまった。
「我ながら、上手く出来ましたね」と誇らしげに腰に手を当てて微笑み、鞄からカメラを取り出す。
ソファの上に足を乗せ、上からその白いホウエン地方をレンズの中に収めた。

「……よく出来ている」

「ふふ、ありがとうございます。おくりび山や、バトルリゾートもあるんですよ」

そうして少女が指差した先を視線で追い、「ああ、本当だね」と相槌を打って笑う。
一通り説明を終えると、先程まで本当に熱心に、丁寧に作っていたそのホウエン地方を、少女は何の躊躇いもなく両手で一掃した。
バサバサと崩れ落ちる紙切れの山に思わずマツブサは息を飲む。
そんな破壊の行為すらも楽しいらしく、彼女は鼻歌の続きを歌いながら紙切れをまとめ、ビニール袋に放り込んでいく。

「ああ、でもきっと、私は貴方の後を追うことなんかできないんでしょうね」

片付けの途中、そんなことを呟いた少女にマツブサの心臓は跳ねた。
大波のように打ち寄せた安堵と歓喜をひた隠しにして、いつもの口調を崩さないように気を付けながら彼は口を開く。

「……ほう、それはよかった。理由を聞いても?」

「だって貴方の後を追うくらいなら、私は今、此処で死んでいます」

しかし、返ってきたのは相変わらずの物騒な言葉で、マツブサは思わず苦笑してしまう。
解っている。彼女は狂気じみている訳では決してないのだ。ただ少し、言葉の選び方が尖っているだけ。その操る声音が、仕草が、口調が、浮世離れしているだけ。
彼女の心境を言い表すべき、もっと静かで丁寧で、物腰の柔らかな言葉はきっと無数に存在する。しかし彼女はそれらを選ばない。
「貴方の後を追うくらいなら今此処で死んでいる」という言葉を選んだということは、それが彼女「らしい」ものなのだ。彼女はそうした言葉で自分を「見せている」のだ。
ならば、マツブサはそれに従おうと思った。

その荒んだ言葉の選び癖が、16歳という多感な時期によるものなのか、それとも彼女の本質的な性分なのか、まだ把握することはできそうにない。
けれど、いずれ解るのだろう。何故なら彼等の時間はこれからも続くからだ。
あと何年かすれば彼女は大人になる。そうすれば、荒んだ言葉を選ばなくなるのかもしれない。嘘を重ねる悪癖もなくなるかもしれない。なくならないのなら、それはそれでいい。

「一人になるのが怖いなら、置いていかれたくないのなら、貴方より先に死んでしまえばいい。貴方を置いていけばいい。
でも私はそうしない。この意味、マツブサさんなら解ってくれますよね」

それでも沈黙を重ねたマツブサに、少女はあれ?と首を傾げる。
そうしていつものようにクスクスと笑いながら、少しだけ彼女らしくない、静かで丁寧な言葉を紡ぐ。

「『私は、貴方がくれる孤独すら愛する覚悟ができています』という意味だったのですが、伝わりませんでしたか?」

2015.8.20
※箱庭療法……砂場やオブジェクトを用いて自由に空間を表現する行動療法の一つ。
「その箱庭が彼女の覚悟と諦念を拓いたとして」

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