無数の笹舟は漣にて

(別離の四部作、その三)

少女がジュースを飲み終えたことを確認してから、マツブサは「会計を済ませてくるから、先に外へ出ていなさい」と告げて、彼女を外へと送り出した。
彼女は食事をしている頃から、何度か窓の外を窺うように見ていたのだ。
マツブサも同じように窓の外へと視線を移したが、カイナシティの大通りには特に注目すべきものはなかった。
「何か気になるものがあるのかね?」と尋ねても、慌てたように首を振るだけだったので、それ以上の追及をしなかった。
しかし、急ぎ足で店の外へと飛び出していったところを見るに、やはり好奇心には勝てなかったらしい。

会計を済ませ、外に出ると、大通りの脇にある狭い空き地で、まだ10歳にも満たないくらいの子供達が3人、円を作るようにして地べたに座り込んでいた。
その輪に加わるようにして少女も膝を折り、屈んでいたため、マツブサは苦笑しながら彼等の方へと歩み寄った。

トキちゃん、何をしているんだ」

「あ、マツブサさん!」

少しだけ恥ずかしそうに頬を染めた彼女は、しかし笑顔で手に持っていた小さなものを掲げてみせた。
それは笹の葉で作った舟で、思わず「ほう、上手く出来ている」と感嘆の息を零し、それを手に取れば、笹特有の葉のざらつきが指を掠めた。

「皆に教えてもらったんです。小さな手で何かを一生懸命作っている様子が窓から見えたので、ずっと気になっていて」

「お姉ちゃん、お舟の作り方も知らないんだもん。びっくりしちゃった」

少女の言葉に続いて、隣の女の子がそう教えてくれた。
成る程、確かに箱入り娘で育ってきた彼女には、このような普通の子供がする遊びがとても眩しく見えたのかもしれない。
笹舟の作り方を教わった少女は、嬉しそうにもう一枚の葉を手に取った。

「2つも作るのかね」

「いいえ、あと9個です。作り方を教わったお礼に、お手伝いを頼まれてしまったので」

その言葉に苦笑しながら、では私も手を貸そう、と子供達と少女の輪に加われば、「おじさんは大人だからいっぱい作れるよね」と、20枚の笹の葉を押し付けられてしまった。
笹の葉は思っていたよりもずっと繊細で、少しでも余計な力を入れようものなら直ぐに破けてしまう。
結局、少女や子供達を手伝うどころか、彼等の足を引っ張る羽目になった。マツブサが5枚の葉を破いている間に、少女は頼まれていた分の笹舟を完成させてしまった。
自らの不器用さを深く恥じ入ったマツブサだが、破いて使えなくしてしまった笹の葉の山に、少女がお腹を抱えて至極楽しそうに笑っていたため、僅かな屈辱も吹き飛んだ。
はて、こんなにも自分は単純にできていたのだったか。

100個の笹舟を海に流せば、願いが叶う。そんなジンクスが子供達の間で流行しているようで、彼等はそのための笹舟を作っていたらしい。
しかし残念なことに、100枚だけしか用意していなかった笹の葉は、マツブサが5枚ほど破いてしまったため、出来上がった舟の総数は95個になってしまった。
すまない、と小さな子供達に頭を下げるマツブサを、少女はとても驚いたような表情で見ていたのだが、深く頭を下げた彼がそのことに気付く筈もなかった。

5人で作った笹舟を、5人の手でカイナシティの海に放った。無数の笹舟が白波に乗り、沖の方へと流れていく。
「頑張れ、頑張れ!」と、子供達が甲高い声でエールを送る。
それに混じって、少女の「ほら、もっと遠く!」と笹舟の背を押すようにかけられた言葉が、マツブサの耳に焼き付いてどうにも離れてくれなかった。

「お姉ちゃんとおじさんは何をお願いするの?」

「私は今が楽しいから、特にお願いしたいことはないよ」

「……笹の葉を破いてしまったお詫びに、君達の願いがちゃんと叶うように祈っておこう」

本当にすまない、と繰り返すマツブサに、子供達は笑いながら「大丈夫だよ、5つくらい足りなくたってどうってことないよ」と励ますような言葉をかけた。
しかしどうしても申し訳なさが拭えず、サイコソーダでも買ってあげるべきだろうかといよいよ本格的に悩み始めたマツブサのコートを、一人の女の子がくいと引っ張った。
どうしたのかね、と振り返れば、女の子は首を大きく傾げてマツブサと少女を見比べた。

「……おじさんとお姉ちゃん、似ていないね」

「は?」

素っ頓狂な声を上げて沈黙したマツブサだが、彼より先に、隣で笹舟を見送っていた少女が、その女の子の言葉の意図するところに気付いたらしい。
声を上げて笑いながら、その女の子の頭をそっと撫でる。

「あはは、私とこのおじさんは親子じゃないわ。私達は恋人なの」

お揃いの色を着ているからそう見えたのかしら?そう続けて得意気に笑った彼女に、しかしその場は騒然としてしまった。
このおじさん、お姉ちゃんの彼氏だったのか!気付かなかった!ねえ、いつ出会ったの?今日はデートだったのね。私達、邪魔だった?
そんな年相応の言葉が飛び交う中、先程の女の子がとても困ったような表情で、今度はマツブサではなく少女の方へと駆け寄り、その手をぎゅっと握った。
どうしたの?とその女の子と同じ目線に屈む彼女に、女の子はおずおずと切り出す。

「お姉ちゃん、それでいいの?」

「え、どういうこと?」

「だってあと何十年かしたら、お姉ちゃん、ひとりぼっちになっちゃうよ」

それはマツブサに聞かれないように、とても小さな言葉で発せられたものだった。
けれどまだ7歳程の子供が、人に聞かれない音量を把握できている筈もなく、息を潜めて尋ねたその言葉はそのままマツブサの耳に届いてしまった。
愕然とした表情を必死に隠そうと努めるマツブサとは対照的に、少女は声を上げて笑いながら首を振った。

「いいんだよ。一緒にいるだけが幸せじゃないから」

「でも、今は幸せでしょう?」

「ええ、とても。だからいいんだ。こんな幸せがずっと続いてほしいってお願いするなんて、欲張りのすることよ」

そんな言葉を、しかし小さな子供達が理解できる筈もない。それでも少女は彼等に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
……果たして、それは彼等だけに言い聞かせた言葉だったのか。

「私達は欲張らないよ。今だけでいいんだ。ね、おじさん」

「……ああ、そうとも」

マツブサはやっとのことでそう返した。
変なの、と首を傾げた二人の男の子とは対照的に、女の子は少女を見上げ、「よかった」と安心したように微笑んだ。

また遊ぼうね、と叶わないであろう約束を交わして子供達と別れる。静かになった砂浜を二人で歩いた。
マツブサは笹舟を見送った浜辺に視線を移す。あの波に乗って海へと流れていった筈の笹舟は、もう見えない。おそらく海に飲まれてしまったのだろう。
少女もそれを解っている。笹舟を海に流したところで願いなど叶う筈がないのだと、知っている。解っていながら、知っていながら、互いに言葉には出さなかった。

「ところで何故、店の中ではあの子供達のことを話さなかったのだね?確かに私の座っていた椅子からあの子供達の様子は見えなかったが、教えてくれてもよかったのでは?」

「え?……だってマツブサさん、子供がお嫌いそうに見えたから」

その返事に、今度はマツブサが声を上げて笑う番だった。
確かに、普段から滅多に笑顔を見せず、傍目には気難しそうに見える自分は、子供好きには到底見えないのだろう。
しかしそれを、まだ16歳である彼女が言うのだからおかしな話だ。マツブサは少女へと伸べた手でその頭をやや乱暴に撫でる。

「やれやれ、君はいつから「大人」になったつもりでいたんだ?私にしてみれば、君もあの子供達も大差ない」

「さ、流石にそれは傷付きます!」

微塵も傷付いていないような笑顔で少女はそう抗議する。二人分の笑い声が海に溶ける。

『私達は欲張らないよ。今だけでいいんだ。ね、おじさん。』
「君は、」と声に出したその続きをマツブサは飲み込んだ。そんなことを尋ねても意味がないことに気付いたからだ。
あの言葉の真偽を知ることができたとして、それはどうでもいいことだったのだ。
少女は嘘吐きだ。故にあの言葉が「嘘だ」と「本当だ」と彼女が口にしたとして、それすら真実であるのか否か、少女以外の誰にも解らない。
けれど同時に、彼女はとても正直だ。嘘を混ぜ込んだ言葉の代わりに、その表情で、声音で、行動で本音を示す。私の心は此処に在るのだと、言葉以外の全てが饒舌に訴えている。
その彼女が、マツブサの隣を離れない。つまりはそういうことなのだろう。その確認に言葉を求めるなど、野暮というものだ。

「どうしました?」

「……いや、何でもないよ」

少女は大きく首を傾げ、しかし次の瞬間には彼の飲み込んだ言葉のことなど忘れてしまったかのように、クスクスと笑いながら彼の指に自分のそれを絡める。

2015.8.19
「嘘も真実も飲み込む覚悟ができていたとして」

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