絶望を駆く指

(別離の四部作、その二)

繰り返し見る夢があるんです。あまりにも弱々しく発せられた言葉にマツブサは息を飲んだ。
少女はその顔に様々な種類の笑みを滲ませることを得意としていたが、マツブサの記憶を辿っても、これ程までに悲しげで苦しそうな微笑みは見つけることができなかったからだ。
泣きそうに微笑む、という芸当を、よりにもよってこの少女がやってのけてしまったことに男はただ驚き、困惑した。

少女が気紛れに繰り出す嘘の一つだろうかとも思ったが、マツブサとて、少女とまったく心を通わせないままにずるずると時間を過ごしてきたわけではない。
その表情、仕草、声音で、彼女の発する言葉が冗談の類か、本気のそれであるかを、百発百中とはいかずとも、大体なら見分けることができるようになっていた。
この、少女に似合わないあまりにもか細い声音は、嘘で発されるような質の悪いものではないと信じられた。だから彼はその言葉を、その態度を疑わなかった。

確かに彼女は最近、マツブサが話しかけても直ぐに言葉を返さなかったり、何もないところに視線を合わせてぼうっとしていたりすることが多かった。
成る程、あれは寝不足によるものだったのか。
よく見れば、その鈍色をした瞳の下に薄く影が落ちていて、いよいよ本格的な相談の域に達してきたと確信したマツブサは、彼女の言葉を聞く姿勢を取った。
手に持っていた書類を机に置き、マウスを隅に寄せて空いたスペースに両肘をつけ、向こう側のソファに座っている少女と視線を合わせる。

眠りを妨げてしまうほどの夢、と聞いて、真っ先にマツブサの脳裏に浮かんだのはとあるポケモンの存在だった。
人に悪夢を見せるというその黒いポケモンは、しかしシンオウ地方でしかその姿が確認されていなかったような気がする。
それに、そのポケモンは人に悪夢を見せて眠れなくする、というよりも、寧ろ眠りの中に閉じ込めて悪夢を見せ続ける、といった方法を取っていた筈だ。
とすれば、今の少女がそのポケモンの影響を受けている可能性はまずないと見ていいだろう。
そこまで考えてから、「君を眠れなくするほどの悪夢とは、どんなものなのだね?」と尋ねれば、彼女はその整った眉を下げ、肩を竦めてみせた。

「悪夢を見せられているのなら話はもっと早く進んだのでしょうけれど、生憎、私が見ているのはとても幸せな夢なんです」

幸せな夢、と聞いて、先程までの思案が水泡に帰してしまったマツブサは思わず苦笑する。
その夢に苦しめられているものと思っていたが、そうではないのだとしたら、では一体何が彼女の眠りを妨げているのだろう。
幸せな夢なら、そのまま眠り続けていればいいのではないか。そう告げようとした彼は、しかし目を伏せた彼女の姿に息を飲む。

「……ごめんなさい」

絞り出すようなその声音は、少しだけ震えているように思えた。
その一言には「こんなよく解らない相談事に付き合わせてしまってごめんなさい」という、どうにも彼女らしくない謝罪が含まれているのだろう。
朗らかな笑みと気丈な言葉で自己を演出していた、いつもの彼女の姿がどこにも見当たらない。不安になり、マツブサは思わず身を乗り出していた。

しかし、ワインレッドの床に視線を落とした彼女の顔を、確認することすらできなかった。
どんな相手にも臆することなく真っ直ぐに顔を上げる少女が、その視線を、顔を、下に落としている姿をマツブサは初めて見た。
この少女と視線が交わらない。ただそれだけのことが彼の不安を煽る。

「お仕事の邪魔をしているって、解っているんです。解っているんだけど……」

「何だね?」

促すようにそう問えば、少女は顔を上げてくれた。
困ったように、泣き出しそうな声音で、一つの懇願が紡がれる。

「少し、甘えてもいいですか?」

その言葉にマツブサは、できるだけ少女を傷付けないように慎重に行動し、丁寧に言葉を選び、少女を安心させ得るのに最適と思われる返事をしなければならなかったのだ。
しかし、普段の朗らかで気丈な様子からかけ離れすぎているその振る舞いの全てに困惑していた彼は、最善の選択をする余裕を失っていた。
彼はパソコンの電源を落とし、椅子から立ち上がり、少女が座っているソファの左側に腰掛け、左手をそっと少女のほうへと伸べた。

「勿論だ。さあ、君はどんな風に甘えてくれるのかね?」

そう尋ねれば、少女は少しだけ楽しそうにクスクスといつもの笑い声を零しながら、マツブサの左手を握り、そのまま彼の膝へそっと倒れた。
……彼に余裕など、失われていた。それでも、何かに怯えるような眼差しをこちらに向ける少女の心を、少しは和らげることには成功している筈だ。

「マツブサさん、マツブサさん」と二度、繰り返して彼の名を呟いた少女は、しかしマツブサの返事を待たずにクスクスと笑って肩を揺らす。
やわらかな歓喜の情をその鈍色の目に宿し、握り締めていた彼の左手に自らの頬をすり寄せる。
「あったかい」と少しだけ眠そうに発せられたその呟きに、「そうだね、生きているのだから」そう返せば、呟くように発せられていた彼女の声は益々小さくなる。
ピアニッシモで歌うように告げられたその言葉は、しかしどんな大きな怒声よりも鋭く、どんな荒んだ慟哭よりも重く、彼の心臓を突き刺し、息を止める。

「ああ、……ああ、マツブサさん、貴方がずっと温かいままでいてくれたらいいのに」

その言葉の本当の意味を理解できないほどに愚かな人間ではなかった。
少女は今にも眠ってしまいそうな声音のままに囁いた。その目はまるで眠るように伏せられていて、それでも彼女の口は言葉を紡ぐことを止めなかった。

「夢の中の貴方は、私が貴方の後を追うことを笑って許すけれど、でも現実はそうじゃないんですもの。
夢で私はとても幸せだけれど、でも目を開ければ、そんな愚かなことを許さない貴方がいることを、知っている私がいるんですもの」

まるで予め用意された詩歌のように、彼女はあまりにも流暢に紡ぎ続けた。
まさかとは思うが、用意していたのだろうか。自分の傷をマツブサに見せるための言葉を、彼女は一人で組み立てていたのか。
そうまでしなければ、この場に望めなかったとでもいうのだろうか。……いや、考え過ぎだ。彼女に限ってそんなこと、ある筈がない。

けれど、もし、そうだとしたら。マツブサはその可能性を切り捨てることができなかった。
何故なら彼の膝の上で歌うように言葉を紡ぐ少女が、マツブサの知る「彼女」ではなくなっていたからだ。
この少女が、今までそうした面を隠していたのだとしたら。
人に悩みを打ち明けたり、弱みを曝け出したりすることがなかった彼女は、その未知なる行動に踏み入る際に、異常な程の緊張感を抱いていたのだとしたら。
……彼女の手の震えは、そういうことなのだとしたら。

「でも、夢の中のマツブサさんはぞっとするような冷たい手をしているから。夢の貴方を好きになってしまいそうな私を、あの冷たい手が許さないから」

「……」

「繰り返し、貴方の夢を見るんです。私が迷っているから。貴方が優しいから」

そこまで思い至った彼は、ようやく彼女の言葉を咀嚼する余裕を得る。

少女とマツブサを隔てる差異はあまりにも多く、年の差はマツブサにとってそのうちの一つに過ぎなかった。
順当にいけば、一回り以上年上である自分が少女より先に亡くなるのは当然のことだ。
そんな風に、息をするような自然さでマツブサが受け入れてしまったその理を、しかし少女は受け入れようとしない。
受け入れることができなくて、どうしても受け入れたくなくて、「貴方がずっと温かいままでいてくれたらいいのに」と歌うことで駄々を捏ねているのだ。
そう理解して、息が詰まった。

「だからマツブサさん、私を許さないで。そんなことは許されないのだと、せめて現実の貴方は気丈に断言していて」

迷っているのだと少女は言った。一体、何に迷っているのだろう。
その理を受け入れることに迷っているのか、自分の後を追うことに迷っているのか、それとも何に迷っているのか、彼女自身もよく解っていないのか。
まるで子供のようだと思い、そうか、彼女はまだ16歳だったのだと改めて思い至り、苦笑する。
これはきっと、普通のことなのだ。いつもの彼女が大人びているだけのことだ。
彼女はこうした自分を晒すことを恥じているようだが、マツブサにしてみれば、そうして自らの不安や悩みを打ち明けてくれることは寧ろ、嬉しかった。

「君は楽しいことに関してはとても刹那的な性分をしている割に、悲しいことに関しては随分と先のことまで見通して不安になってしまうのだね」

「……呆れましたか?私のことを、」

「何故?別離を恐れるのも、幸せなところに留まろうとするのも、人の性だ、自然なことだよ。私だって君を失うことは怖い。
……だが、今ここにいる私を差し置いて、甘い戯言で君を迎え入れるような夢の中の輩に惚れ込もうとしているのであれば、君の恋人として、黙っている訳にはいかないな」

きょとん、という声が聞こえてきそうな表情を見せた彼女は、しかし次の瞬間、声をあげて笑い始める。
いつもの、聞き慣れた朗らかで気丈な笑い声に、マツブサの締め付けられていた心臓がようやく楽になったのを感じる。

やわらかく微笑んだマツブサの腕に縋った少女の、マツブサさん、と繰り返し呼ぶその音が震え始める。
呼ばれる度にその栗色の髪を撫でれば、いよいよ鈍色の目がぐらりと揺れる。
ああ、きっと不安定になっているのだ。明日になれば彼女はきっと笑顔で此処を訪れる。いつものように弾けるような声音で、マツブサの名を呼ぶに違いないのだ。
君はそうした強い子だ。だからそのような、大きすぎる残酷な理にいつまでも囚われる必要などない。

「大丈夫だよ。私は時が許す限り、君の傍でこの手の温度を保っているから」

少女の指が、彼の腕に強く爪を立てて泣き出した。

2015.8.19
「あまりにも優しい世界が目蓋の裏にあったとして」

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