ゴーストワルツ

(別離の四部作、その一)

「霊がもし居るのなら、私、彼とダンスをしてみたいんです」

とんでもないことを言い出した少女と、ミナモの砂浜を歩いていた。
ホウエン全土を渡り歩いたとはとても思えない程の、白く華奢な素足が砂の上に足跡を付けている。
すぐに打ち寄せてきた波が、彼女の歩いた軌跡をなかったことにしてしまう。しかしこの少女にはそれすらも楽しみの一つに数えられているらしい。
波が打ち寄せないギリギリのところで砂浜を歩くマツブサから、数歩だけ離れたところで、少女は数秒おきに白紙へと還る砂浜のキャンバスと戯れていた。

「魂だけになってしまった霊は、きっと誰よりも軽やかにステップを踏むのでしょうね」

「君は霊の類が見えるのか?」

「いいえ。見えていたら憧れたりしません。骨と肉の身体を失った魂の指先は、とても冷たいんじゃないかなって、思うんです。触れてみたくなりませんか?」

それは甘美な誘いのように、密やかな声音で囁くように紡がれた。
真夏の観光名所として名高いミナモシティの砂浜には、悉く相応しくない問いであったのだろう。
それ故に、それをいつもと変わらぬ笑顔で尋ねた少女に、マツブサは空恐ろしいものを感じずにはいられなかったのだ。

人の魂は意識のようなもので、それは死ぬと同時に失われるものだと思っていたマツブサにとって、少女の「霊」という言葉はどこまでも異質に聞こえた。
死して尚、骨と肉の身体を失っても尚、この世界に留まり続ける彼等の魂に、少女は会ってみたいらしい。……マツブサにはとてもではないが理解できなった。

そんなに「あちら側」のものに焦がれる必要などないだろうに。どうせ我々は、いつまでも生きていられる訳ではないのだから。
今、手を伸ばさずとも、それらは必ず我々の元にやって来るのだから。彼等の指先の温度を、否応がなしに感じなければならない時は必ず訪れるのだから。
故に彼岸に魅入られる必要など何処にもない筈なのだが、16年しか生きておらず、更に好奇心の塊のような性格をした少女は、その未知なる領域に焦がれずにはいられないらしい。
まったくもって、難儀な少女だ。

「そんなことをすれば、君も彼岸に引きずられてしまうよ」

「ふふ、それも楽しそうですね」

そんな飄々とした脅し文句で大人の余裕たるものを見せようと思っていたマツブサだが、その言葉には流石に肝が冷える思いをしたのだろう。

「……やめたまえ、トキちゃん」

波打ち際でダンスを踊るように、爪先を砂浜に埋めてくるくると回ってみせる少女を思わず呼び止めていた。
「楽しそう」と紡ぐ彼女の目が美しすぎてマツブサは恐ろしくなり、その戦慄を誤魔化すように少女の名を呼び、咎めていた。

「命を粗末に扱うような発言は好ましくないな」

「ふふ、ごめんなさい」

くるくると華奢な体を波の上で回していた爪先がようやく止まり、こちらを真っ直ぐに見据えた少女は、全く悪びれていないような音を奏でて笑った。
そこに大きすぎる壁が敷かれている気がして、マツブサは鈍い眩暈を覚える。

少女は、刹那的だ。明日を望まない。未来に夢を描かない。
今日という日が限りなく良いものになるように懸命に生きている、と言えば聞こえはいいが、要するにそれから先のことを何も考えていないのだ。
「彼岸へ引きずられてしまう」という恐ろしい未来よりも、「霊の手を取り共に踊る」ことへの一瞬の享楽を取った。彼女はそういう人なのだ。

それは彼女の16歳という、子供というには成長し過ぎていて大人というには幼すぎる微妙な年齢のせいだったのだろうか。
もしくは幼少期より、社長令嬢として窮屈な時間を過ごし過ぎてしまったため、その自由を求める心が大きく鬱屈してしまったが故の感情だったのだろうか。
それともその言葉は、嘘吐きな彼女の、歌うようにさえずるように虚言を紡ぐ彼女の、「いつもの嘘」に過ぎなかったのだろうか。
あるいは、その全てだろうか。

「それじゃあマツブサさん、私と踊ってくださる?」

「は……?」

「私が、霊と踊ってしまうのが嫌なんでしょう?貴方が霊の代わりに私とダンスをして、私を此岸に繋ぎ止めてくださる?」

そう言われて、マツブサは困ったように微笑むしかなかった。
彼とて、できることならそうしたかった。彼女が本気で霊とのダンスを望むなら、自分が代わりにその手を取って踊ることもやぶさかではない。
しかし、まだ彼には確信がなかった。
「霊とダンスをしてみたい」「彼岸に引きずられるのも楽しそうだ」と笑顔で紡いだ彼女の言葉が、嘘や冗談の類ではないという確信を、彼はまだ持てずにいた。
故に今、ここで彼が少女の要求を呑むことは、とあるリスクを孕んでいたのだ。

すなわち、冗談で紡いだ言葉をマツブサが真に受け、少女を此岸に繋ぎ止めるためにこの砂浜で踊るという、あまりにも滑稽な現象を引き起こしてしまうという、リスクだ。

彼女は嘘吐きだ。笑顔で、歌うように、さえずるように虚言を吐く。それは不誠実という名の凶器に形を変えてマツブサの心を僅かながらに抉っていた。
彼女の「不誠実」は何もマツブサに対してだけのものではなかったのだろうけれども、それでもそんな不誠実な少女に、マツブサが誠実になる必要など、全くもってなかったのだ。
本来なら、そんな馬鹿げた戯言を「いつもの嘘」として簡単に切り捨ててしまえばいい。不誠実な相手に誠意を見せる必要など皆無だ。

そんな当然のことが、しかしこの少女を相手にした場合は酷く難しい。
何故ならそこにはマツブサの他意が含まれていたからだ。彼は少女に不誠実を貫くことがどうしてもできなかったのだ。
つまるところ、マツブサはこの少女を、その湛えた笑顔のままに残酷な言葉を平気で紡ぐことのできてしまうこの少女を、

「……そうすることで君を此処に繋ぎ止められるなら迷うことなくそうしたいが、残念なことに私は踊り方を知らないのだよ」

「ふふ、それじゃあ私がフォローしますよ」

「察したまえ、それは私の矜持が許さない。それに、何せ私は生きているものでね。君の望む「魂だけを引きずる軽やかな舞」は、どう足掻いても見せてあげられないよ」

残念だなあ、と肩を竦め、整った眉をすっと下げて笑う少女の手を握れば、マツブサを見上げたその鈍色の目が、まるで宝石か何かのように大きく見開かれていた。
ああ、君はその口から紡ぐ多彩な言葉で私の心臓の鼓動を支配するのに、自分はこちらの「手を握る」という、そんな些細な行動に驚いてしまうのだね。
相手の心音を翻弄することに慣れ過ぎている彼女は、しかし自分の心臓の鼓動の変化には酷く敏感なようだ。
その途方もないアンバランス、これを愛しいと呼ばずして何と呼ぼう。

「しかし、こうして握っていれば君は彼岸へと逃げていきはしないだろう。
君は私の手を取って踊りたい。私は君を此岸に留めておきたい。それならば、これが最適な妥協点だとは思わないかね?」

とうとう声を上げて笑い始めた少女は、暫くして、マツブサの手をあらん限りの力で握り返した。
あまりにも強すぎる力にマツブサは眉をひそめる。それは大の男が痛みを覚える程の力だった。
この華奢な体の何処からそのような力が沸いてくるのかと驚愕していると、彼女はその力を弱めることなく、いつもの声音でいつものように紡ぐ。

「そうですね。……それにこうしていれば、マツブサさんのことも留めておける。貴方に魂しか残らなくなる時が、一日でも遅くなるようにと祈っていられる」

「!」

「貴方が私の手を握り返してくれている内は、私も彼岸になんて遊びに行くつもりはないんですよ、マツブサさん」

そうしてマツブサはようやく全てを理解する。
『霊がもし居るのなら、私、彼とダンスをしてみたいんです。』
その「彼」は、他でもない自分のことを指していたのだと。
順当に生き続ければ間違いなく少女を置いていってしまう自分の手を、少女は彼が霊になってしまってからも握っていたいのだと。
『ふふ、それも楽しそうですね。』
あの言葉には、そうした意味が含まれていたのだと。

……この少女が刹那的だなどと、とんでもない勘違いをしていたものだ。
彼女は、見ていたのだ。マツブサが先に彼岸へと旅立ってしまう未来を。少女だけが此岸に取り残されてしまう未来を。
その揺蕩う言葉に自らの誓いと願いを滲ませ、戯言を装っていつもの笑顔で言い放つ。マツブサはそんな彼女に見事に騙されていた。
やはりこの少女には、どう足掻いても敵わなかったのだ。

「……君を、」

口から吐き出したその言葉が予想以上に弱々しいものだったため、マツブサは一度だけ咳払いをした。
そんな彼を見上げ、彼女はとても楽しそうに首を傾げる。

「君を独りにする時間が限りなく少なくなるように、努力しよう」

だからどうか、私の後を追うなどという真似はしてはいけないよ。
そう付け足せば少女はあまりにも眩しい笑顔でマツブサの名を呼ぶ。

2015.8.15

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