次の沈黙

※「11時30分」の続き。

「その必要はないよ」

彼は再び残酷な言葉を吐いた。私は再び言葉を失った。

「ボクは大人なんだ。そんなものがなくたって何も変わらないよ。
もし同じ状況に君にが居たら、ボクはあらゆる手を尽くして君を安心させようとするだろうけどね」

その言葉に嘘はないと信じられた。だからこそ許せなかった。
私は自分の中でふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じていた。
この人は何を考えているのだろう。まるで私とボクとは違うんだよと暗に言っているようではないか。
私はその衝動のままに言葉を吐き出していた。

「じゃあ、私だって同じです」

「!」

「どうして気付いてくれないんですか。どうして違うって思うんですか」

お願い、私を見て下さい。
それは懇願だった。彼にどうしても知って欲しかった。
彼はとうの昔に知っているものと思っていた。私が彼を好きなこと。ただの教え子以上の位置に在ろうとしたこと。
大人である彼が気付いていない筈がないと思っていた。それ程に子供である私の歩み寄り方は短略的で、明快で、愚直なものだった。
だから、言葉にしたことがなかった。しかし、それは彼も同じだったのかもしれない。
彼も私と同じように、私のことを解りにくい人間だと思っていたのかもしれない。
あるいは、言葉にして貰わないと解らないこともあるのかもしれない。

「博士、私は貴方が好きなんですよ」

訪れた沈黙は暗闇が飲み込んでくれた。私は枕を強く強く抱き締めた。
やがて小さく息が吐き出され、その後で彼が苦笑する気配がした。

「うん、知っているよ」

「……言わなきゃよかった」

「いやいや、それは違うよ。男なんてものはね、そうやって99%確信出来ることでも、1%に怯えてしまう生き物なんだよ」

彼は乾いた笑いを鳴らした。弁明する時の彼の癖だった。
そんな、1%に怯えてしまう彼だからこそ、あんな言葉を吐いたのだ。まだあるかどうかも解らない私の未来を思って不安になっていたのだ。
それなら私は例え嘘でも、確定していないが故に断言が意味をなさないとしても、彼の前でその可能性を否定すべきだった。
そんなことはありません。出会ったとしても博士には敵いません。
そう断言することは容易かったし、その言葉に嘘はなかった。
しかし発言を躊躇わせたのは、私の方にも確信が持てない部分があるからだ。
この人を安心させてあげたい。その思いこそが独りよがりなものではないかと私は恐れている。
彼も臆病だが、私だって臆病なのだ。
それでも伝えなければいけないことが確かにあるらしい。

「独りよがりかもしれないけれど、聞いて下さい」

「……うん。聞いているよ」

どうしても「博士は私を好きですか」とは聞けなかった。
たったそれだけを尋ねて、望んだ答えが返ってくれば私の安定は得られるのに、そして彼の望む言葉を紡げるのに、それを躊躇ってしまった。
それは私のプライドにより妨げられたのか、それとも単に子供っぽい質問が恥ずかしかったのか、定かではない。

「私は、博士以上に素敵な人を知りません」

「……」

「未来の芽は貴方が摘んだんじゃない、私が自分でむしり取ったんです。
博士以外の人を見ようとしない私と、カロス以外の世界を見ようとしない私のせいです。
だから博士は何も悪くないんです」

再び沈黙が下りた。私はそれ以上言葉を紡ぐことが出来なかった。
たっぷりの空白を置いて、彼はようやく口を開いた。

シェリー、君はカロスの言葉が上手くなったね」

うん、本当に上手くなった。
彼は電話の向こうでそう頷いて笑った。見えなくてもその仕草を想像できる。そしてそれはきっと当たっている。
つまりはそうした距離に私達は居たのだ。それなのに大切なことを立場上、言えないまま、ずるずると時間を過ごしてしまった。
彼の電話番号を教えて貰ったのも最近のことだ。あの時は随分と浮かれたなあと思い出し、少しだけ恥ずかしくなる。

「ボクも君を安心させてあげないといけないね」

「!」

「でも、ボクはあまりシェリーのことを知らないんだ。どうすれば君は笑ってくれるかな?」

そう尋ねる彼は知らないらしい。その言葉だけで私が笑えたことに。
つまり彼は安心できたのだ。私の拙い言葉にはそんな力があった。私は彼の深淵に足をつけることが許されたのだ。
これ以上の幸福を私は知らない。

「もう、充分ですよ」

「本当に?無理していないかい?」

「私、博士には嘘をつきません」

すると彼は本当に嬉しそうに笑った。

もう遅いからお休み、と言われて時計を見れば、もう日付が変わってしまっていた。
道理で眠い筈だ、と思うと同時に、一時間も話していたのかも思い返してその時間の長さと早さに愕然とする。
それじゃあと電話を切ろうとした瞬間、彼は慌てたように私を呼び止めた。

「あのねシェリー、大人は上手に生きているんだよ」

「?」

「保護者っていうのは、お母さんを安心させるための言葉だ。それを君が真に受ける必要はなかったんだよ」

それに、ね。
ボクはただの教え子と旅行に行ったりしないよ。

「それじゃあシェリー、おやすみ」

「……はい、おやすみなさい」

数秒待って受話器が機械的な電子音を刻み始めた。
私のことを知らないなんて嘘だ。

2013.11.11

© 2024 雨袱紗