11時30分

「うーん、それは難しいなあ」

彼は電話越しにそう言った。私は枕を抱き締めてその言葉を噛み締めていた。

「それはねシェリー、君が難しいんだよ」

「……どういうことですか?」

彼の発言はいつだって思わせぶりだ。私がカロスの言葉に慣れてから、その傾向は一層強くなった。
前は私でも解るように、噛み砕いて説明してくれていた。それが彼の優しさだと知っていた。
しかし私がカロスの住人になって状況は変わった。彼は自分の土俵に上がってきた私を手の平で転がした。
……いや、きっと彼はそんなつもりはないのだろう。そう思っているのは、きっとその前の優し過ぎる彼を知っているからだ。
彼の言葉は独特だ。決して全てを語らない。それはわざとではなく、彼の性分なのだろう。
しかしその言葉はこちらに一定の解釈の猶予を与え、そして、それは私を不安にした。

事の発端は私がぽつりと呟いた一言だった。
久しぶりに故郷であるイッシュに遊びに行こうかな。そう言った私の言葉に、彼はそれならこの日にしないかい、と笑って一枚の紙を差し出した。
それはイッシュで行われる学会の予定表だった。この後でボクにイッシュを案内して欲しい。そんな珍しい彼からの申し出に私は浮き足立った。
しかしイッシュともなれば一日では帰って来られない。当然私は母に連絡を取る必要があった。
プラターヌ博士とイッシュに行ってくると説明した私に彼女は驚いたが、まあ博士なら大丈夫よねと笑って許可してくれた。

そして今、私はその報告を彼にしている。
もうすぐ日付が変わりそうな夜に、私は部屋の電源を落として彼の声だけを拾った。
よく許可してくれたね、と笑った彼が、しかし最後にこんな言葉を付け足したのだ。

「大丈夫、保護者として付いて行くから安心していいよって、お母さんに伝えておいてよ」

私は浮かれていた、浮かれ過ぎていた。だからこそそのショックも大きかった。
声が震えないように「解りました」と紡いだ。彼は電話の向こうで満足そうに笑ってくれた。
しかし私はそれに耐えられなかった。夜という時間帯も私の不安を煽る一因となった。私は思わず尋ねていた。

「博士は私を、教え子以外の目で見られませんか?」

そして返ってきたのが冒頭の言葉である。愕然とした私に、更に彼は意味深な言葉を投げた。
勿論その意味など解る筈もなく、私はどうしようもなくなってしまった。

シェリー?」

するとその沈黙を汲み取ったのか、彼が電話越しに優しく私の名前を呼ぶ。

「私、そんなに難しいですか?」

「……ああごめんね、そういうことじゃないんだ。うーん、そうだね、君にはやっぱり直球がいいみたいだ」

今頃気付いたのだろうか。私はずっとそう思っていた。
彼の土俵に上がるとろくなことがない。彼の言葉はいつだって不可思議だ。それは私を悩ませた。
しかしそうした飄々とした言葉遣いで意味あり気に笑う彼こそが、本来のプラターヌ博士であることを私は察しつつあった。
だから今更「もっと解り易く喋って下さい」などとは言えない。こちらからそう言えば、益々彼との距離が広がってしまう気がした。

シェリー、ボクは閉じられた世界に居るんだよ」

そんな彼が紡いだのは易しい言葉で、傷心の私でも耳を傾ける余裕を持てた。

「毎日同じ生活の繰り返しだ。勿論研究は楽しいけれど、そういうことじゃない。ボクが関われる人間なんてたかが知れているんだよ。
ボクの言っていること、解るかい?」

「……それは、解ります」

「よし、いい子だ。さて、では君はどうだろう?君には未来がある、可能性がある。君はこれからずっとカロスに留まるつもりなのかい?」

その言葉に私は考え込んだ。
別にカロスが嫌いな訳ではない。旅をしてカロス地方が素敵な場所だということは知っているし、それなりにこの土地に愛着だってある。
今のところ、別の地方に行こうとは思わないし、イッシュに帰りたいとも思わない。
その決意をし得るのに十分な時間を私は此処で過ごしてきた。だから私はその言葉にすかさず頷いた。

「はい。そのつもりです」

「……ではその未来の中に、ボクよりもっと素敵な人が現れたとしたら?」

その瞬間、私の中で渦巻いていたものが音を立てて弾けた。
ああそうか、この人はそういうことを言っているのだ。そう思った瞬間、胸の中が温かいもので満たされた。
つまりはそういうことなのだ。この人は私の未来を案じている。

そのアンバランスに心が震えた。
この人は私をイッシュへの旅行に誘っておきながら、尚も私の未来を案じているのだ。
そんなくらいなら誘わなければいいのに。私を一人でイッシュに送り出してくれれば良かったのに。
ねえ、つまり貴方は私にイッシュに戻って欲しくないんでしょう。だから同行するなんて言ったんでしょう。
それなのに、私をカロスに留めておきたいと訴えておきながら、彼はそれでも私の未来を思っている。

「ねえシェリー、こんなおじさんじゃなくても、もっといい人は沢山居るよ」

そう言いながら、この人が私を離すつもりがないことを知っている。
いや、それでは語弊がある。君には未来があると優しく語りかけておきながら、彼は私に此処に居て欲しいと望んでいるのだ。
それは懇願だった。どうして私が拒むことが出来ただろう。

「……私が「そんなことはありません」って言っても、きっと博士は信じないんでしょう」

「……」

「どうすればいいですか。どうすれば、貴方の不安を取り除けますか」

この人を安心せしめる手段が欲しい。
私は暗闇の中で枕を抱えながら考え込んだ。

2013.11.9
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