ちとせの春は悠々と

※「200年後も花は咲く」と同じ設定、更に長い時が経った頃。

子供が泣いている。ミアレの大通りに屈み込んで、つぶらな瞳から零れる涙を拭いながら、しきりに母親の名前を呼んでいる。
フラダリが反応するより先に少女は動いていた。所々にひびの入ったアスファルトを軽快に蹴り、男の子の方へと駆け出していく。
お気に入りの赤いスカートと、切ることを忘れた長すぎるストロベリーブロンドがふわふわと、彼女の足取りに合わせて春の陽気な風にはためく。

フラダリもそれに続こうとしたのだが、彼の高すぎる背はある種の威圧感をもって子供の目に映ってしまうように思われたため、ぴたりとその場に足を止めた。
少女だけでも大丈夫だと、そう判断したからこその静止でもあった。
つまるところ、少女はその見た目に似合わず聡明かつ勇敢であることを、そうなってしまったことを、フラダリは誰よりもよく知っていたのだろう。

「どうしたの?」と泣いている子供への常套句を用いて、低い目線に合わせるように膝を折り、彼の、おそらくは真っ赤になっているであろう目を覗き込む。
「お母さんが見つからない」と、フラダリが予想した通りの言葉を紡ぐ男の子に、少女は「大丈夫だよ」「きっと見つかるよ」と、努めて優しい声音で励ましている。
そうした常識かつ良識のある行動を、この、世間に絡んだ何もかもを忘れてしまったような少女が取っていることにフラダリは少しばかり驚かされてしまった。

「それじゃあ、君のお母さんを探さないとね。一緒に行こう」

まだ3歳か4歳程に見えるその男の子の、触れれば折れてしまいそうな小さな手を取り、その狭い歩幅に合わせて歩き始めた。
褪せたアスファルトに靴の裏をつけ、緩慢に歩を進めている。呆れてしまう程の小さな歩幅に苦笑しながら、しかしフラダリも同じようにゆっくりと歩き始めた。
子供には気付かれない程に遠く、しかし前を歩く少女が振り返ればちゃんと自分が「付いてきている」ことを認識できる程度には近い、そうした距離を取って彼は歩いた。
案の定、彼女は振り返り、男と目を合わせて至極嬉しそうに目を細めた。頷けば、口元までもが綻んだ。

時刻は夕方の6時を少し回った頃で、西に伸びる大通りにはまさにその方角から差す真っ赤な夕日が、少女と男の子に長い影を落としていた。
フラダリは少女の長く伸びる影を踏まないような距離を改めて作り、少女が落とす影と男の子が落とすそれの差に思わず目を細めた。
おそらく自分と少女が同じところに並べば、これくらいの差で影が落ちるのだろうと容易に想定できたからだ。

きっとあの男の子の背は、これから数年をかけて勢いよく伸びていくのだろう。
あっという間に隣を歩く少女の背丈など追い越し、彼女よりもずっと長い影をこの褪せたアスファルトに落とすに至るのだろう。
けれど少女の影は伸びない。伸びようがない。この何十年かずっとそうであったし、これからも永劫変わらないのであろう。
それはフラダリも同じであった。そうなのだと確信できるだけの長い時間が経過していたし、事実として少女も男も、出会った頃から何一つその姿を変えてはいない。
解っている。そんなことは今更、改めて噛み締めるまでもない当然の理であった。当然である、筈だ。

しかし男の子の隣で手を引く少女を見ていると、彼女もあの男の子のように背を、そして影を伸ばしていくのではないかと錯覚してしまう。
この少女はたった今から時の流れをその身に思い出し、あの男の子と手を繋いだままに未来へ、そして命の終わりへと駆けていくのではないかと疑ってしまう。
思わず、足を止める。

君もわたしを置いていくのか。君がかつて慕ったあの博士や、君が最後まで心を許さなかったあの子供達や母親、そして、君のたった一人の親友のように。

そうした言葉を、しかしフラダリは音にしなかった。音にしたところでこの距離では少女の耳に届きようもなかったのかもしれない。それでも、紡げなかった。
そうした、あまりにも久しく忘れていた「孤独への恐怖」さえ、どこか懐かしく愛おしいもののように感じられたし、
またどれだけ恐怖や不安を抱いたところで、この錯覚は錯覚の域を出ず、少女が自分を置いていくことなど「有り得ない」のだと、そんなことはもう、十分に解っていたからだ。

二人が二人で居られなくなる時が来るとすれば、それは二人が息をすることの叶うこの世界が潰える時だ。
そうした傲慢かつ超然的な確信が男と少女の間にはあった。そうした確信こそが、少女に聡明さと勇敢さを手にするだけの猶予を与えたのだ。
故にその影が伸びていくなどという錯覚とそれに伴う不安というのは、つまるところ、暇を持て余したフラダリが唐突に思い付いた、ただの遊びに過ぎなかったのだろう。

そんなことを考えていると、少女が軽快にアスファルトを蹴って戻ってきた。彼女はもう男の子の手を握ってはいない。
笑顔で大通りの向こうを指差すその先を目で追えば、先程の男の子とその母親らしき人物が、しっかりと手を繋いで歩いて行くところだった。
お待たせしました、と朗らかに告げる少女の頭を撫でる。ふわふわとした綿菓子のような、それでいて繊細なガラス細工のような、そうした絶妙な表情が、彼女の幸福を示していた。
さっきの子、面白いことを言っていたんですよ。彼女のそんな言葉に首を傾げてみせれば、クスクスと笑いながら当然のように口にする。

「『僕も永遠の命が欲しい。そうしたらずっとお母さんと一緒にいられるのに。』ですって」

男と少女。この二人が「永遠」であることを、いつしか彼女は隠さなくなっていた。
フラダリもそうした彼女の態度に倣って、カロスで息を潜めて生きることを、もう何十年も前に止めてしまっていた。
故に少女の命が「永遠」のものであることを知っていた男の子の存在に驚く必要はない。
驚くべきはその言葉にあった。永遠とは恐れられ、忌避されるべき孤独なものであって、そんな風に羨望の音を向けられるべきものでは決してなかった筈だ。
しかし幼い子供はそうした世間の価値観をまだ我が物としていないらしい。永遠とは苦しいものであるということを、彼はまだ習っていないのだろう。
だからこその「僕も欲しい」という言葉であり、そうした思いを抱く生き物というのは、存外少なくないのかもしれなかった。

「おかしいですよね。あの子が200年生きようと300年生きようと、あの子の大好きな人達はどうせ、長くても100年くらいしか生きられないのに。
そんなものを手に入れたところで、独りの寂しい時間が徒に増えるだけなのに」

楽しそうに続ける彼女の言葉を半ば遮る形で、「君は悔いているのか?」と思わず尋ねてしまった。
少女はライトグレーの目を見開き、フラダリを真っ直ぐに見上げる。その視線に躊躇いも恐怖も最早存在しなかった。当然のこと、けれど数百年前には当然ではなかったことだ。

「わたしと共にあの花の下へ残ったことを、君は今でも悔いているのか、シェリー

フラダリはそう告げる自分の声がおかしな揺れを呈していることに気付いていた。
それは先程の「少女の影が伸びる」という馬鹿げた錯覚とは比べ物にならないくらいの、悉くささやかで、それでいてどこまでも現実的な恐怖だった。
しかし少女はくるりと振り返り、何をおかしなことを、と言うかのような陽気さで答えた。

「いいえ、だって貴方がいるでしょう?私達の永遠は、孤独なものじゃないでしょう?」

それとも、貴方はまだ寂しいのかしら。そう付け足してクスクスと笑う。
胸のつかえが取れたかのように気が楽になったフラダリは、細く長く息を吐いた。まさか、とその息と共に言い返せば、少女は至極嬉しそうな表情のままに目を細める。

我々に下された「永遠」という罰は、あまりにも恵まれた形で為されたのだ。
確かに我々は多くの人との別れを経験してきたけれど、最も失いたくないものを失うことなど有り得ないのだ。
我々に孤独など、訪れようもなかったのだ。

それらを認めればいよいよおかしくなって笑いたくなる。少女は静かに肩を震わせるフラダリを不思議そうに見ている。
しかしやがてそのおかしさを許すように、私もそのおかしさに混ぜてと請うように、クスクスとその高いソプラノを揺らして同じように笑った。

どちらからともなく伸ばした手を、どちらからともなく握り返して、100年前と変わらぬ美しさを保つミアレの町を歩いた。
少女の手はフラダリのそれよりも当然のように冷たく、しかしそれ以上に冷たくなって人の温度を失うことは決してない。今までも、そしてこれからも。

少女はもう、時の彼方に置き忘れて、なかったことにしてしまっているのかもしれないが、フラダリはまだ鮮明に覚えている。
二人が出会って間もない頃の少女の姿を、その見た目こそ今と大差ないが、その声色や仕草や挙動において悉く変わりすぎてしまった、それ以前の彼女を、覚えている。

彼女はもう「ごめんなさい」と紡がない。俯かない。視線を逸らさない。両手から血が出る程に爪を手の平に食い込ませて握ったりしない。
消え入りそうな声音で恐る恐るといった風に言葉を発することも、人気のない路地裏に飛び込んでひっそりと涙を流し嗚咽を噛み殺すこともしない。
カロスを守りたいなどという正義を掲げてフラダリの前に立ち塞がることも、二度とない。

彼女は少しずつ成長していた。
病的とも取れそうであった臆病は影を潜め、少しの勇敢さが顔を覗かせ始めていた。
自らの首を絞めるような痛々しい卑屈は、冗談めいた笑顔混じりの、場を和ませるためのものへと形を変えていった。
とうの昔に枯れ果てたと思っていた涙を、しかし少女はもう男に隠そうとはしなくなっていた。
こうした少しの、けれど確かな変化を経るまでに、この少女はあまりにも長い歳月を要したのだ。気の遠くなるような、時間だったのだ。

この少女がもし永遠を手にしないままであったなら、きっと彼女は臆病で卑屈なまま、自分を愛せることなく命の灯火を絶やしてしまっていただろう。
彼女は生きられなかった。生きるための何もかもを身につけるには、100年などという時間はどうにも短すぎたのだ。

「しかし、珍しいこともあるものだ。君はああした「可哀想な生き物」に関わることを避けていたのではなかったのかね?」

「ふふ、そうですね。でも変なことを思い出してしまったから」

変なこと、と彼女の言葉の一部を反芻し、促すように尋ねれば、少女はクスクスと笑いながら続きを口にする。

「私もあんな風に泣いていた気がするから。その時、貴方がいつだって私を助けてくれたような気がするから。……今度は、私の番であるように思えてしまったから」

衝撃に息が詰まった。しかしそれは一瞬だった。フラダリは声を上げて笑い始めた。
少女がまだ臆病で卑屈であった頃を、男ではなく少女が思い出す日は随分と珍しかった。そのことがどうしようもなくおかしかった。嬉しかったのだ。

振り返れば二つの影が褪せたアスファルトに落ちていた。強く手を握り直せば少女も声を上げて笑い始めた。
姿はあの頃と変わらずそのまま此処に在るのだから、あの頃に戻るには、二人がその記憶を思い出すだけでよかったのだ。
それが叶ったという点において、今日はきっと素晴らしい日だったのだろう。

2016.5.11
(ちとせの春→千歳の春)
ハッピーバースデー、まるめるさん!
※某連載に導入予定

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