200年後も花は咲く

※50万ヒット感謝企画、参考曲「ラグスの鎮魂歌」、少しだけ閲覧注意

フラダリは、カフェに備え付けられたキッチンで朝食の片付けをしている少女に声を掛けた。

シェリー、出掛けませんか?」

客を迎えて食事を振る舞う役目をとうの昔に放棄したこの建物は、しかし色褪せることのない赤い空間をそのままに残し、彼等はこの中で生き続けていた。
ひっそりと、声を潜めて、息を殺して二人でいる暮らしは、しかしおそらく彼等にとってこの上ない幸福だったのだろう。

「いいですね、何処に行きましょうか?」

勢いよく振り返り、さも当然のように同意の言葉を紡いだ少女は、長い髪を器用に両手で持ち上げて束ね、くるくると巻きつけて後頭部に被せてみせた。
久しく切ることをしてこなかったその髪は、愛用している赤いスカートの下、白い膝の裏を隠す程に長く伸びており、見ているこちらが圧倒されてしまう程であった。
その全てを一纏めにした彼女は、慣れた手付きでポケットから赤いかんざしを取り出す。それは以前、ジョウトという東洋の土地に出掛けた際に男が買い与えたものだった。
量の多いストロベリーブロンドに躊躇いなく突き刺して、あまりにも多い量の髪がしっかりと後頭部に纏められる。
ちりめん細工という上質な布で作られた、桜を象ったちりめんが、彼女の動きに合わせてゆらゆらと所在無く揺れていた。

ベージュのトレンチコートを羽織って、「さあ、行きましょうか」とフラダリの手を取る。
彼はそんな少女に小さく頷き、カフェの、もうすっかり錆び付いてしまった扉に手を掛ける。
彼女の手はフラダリのそれよりも当然のように小さく、少女の背はフラダリのそれよりもやはり低い。
少女がこの至近距離で男を見上げる角度というものは、おそらくもう二度と変わることなどないのだろう。
それは互いを愛し過ぎたが故の盲目的な視点ではなく、ただ事実としてそこに在るだけであったのだけれど。

変わらないものなど何もないという当然の理は、しかしこの二人に関して言えば、どうにも通用するものではなかったのだ。
何も変わる筈などなかった。時を止めたその理は、この二人に悉くふさわしい代物であったのだ。ただ、それだけのことだったのだ。

「4番道路に行きましょうか。おそらく花が綺麗に咲いているでしょうから」

何気なく紡いだ男の言葉に、少女は首を傾げて「……そうなんですね」と不思議そうに笑った。
はて、彼女がこうした季節の移ろいや、道端に咲く花に意識を映すことがなくなったのはいつからだろうか、と男は思案したが、やはり彼も、思い出すことができなかった。

互いが互いの傍に在ることが当然のようになっていた。少女は男の下を離れて生きることなどきっとできないし、男もそれ故に少女を手放すことなどできなかった。
二人の間に流れる時間は恐ろしい程に変わっていなかったのだけれど、少女の中身は少しずつ、少女ではないもっと別のものにすり替わっていっていたのだと、
今、隣でフラダリの手を握っているのは少女であって少女ではないのだと、そうした恐ろしい、けれど仕方のないことを、男はこれまた長い時間をかけて受け入れつつあった。
時間など、幾らかかってもよかったのだ。

「あ、チューリップが咲いていますね!」

ゲートを抜けて4番道路に足を踏み入れたその瞬間、少女はそんな声と共に駆け出した。
履き慣れた黒いスニーカーの紐が結ばれていないことに気付いたフラダリは彼女を引き止めるために名前を呼んだが、
しかしそれよりも先に彼女が靴紐を踏む方が早かったようで、黄色い地面に頭から突っ込む形で転んだ彼女は、
しかし痛みなど全く感じていないかのようにケラケラと笑いながら立ち上がり、「あーあ、服が汚れちゃった」と困ったように呟いてスカートに付いた土を手で払った。

「……なんだか、カラフルになりましたね。前に来た時はもっと静かな色をしていた気がします」

「ええ、春が来ましたから」

「え?……ああ、そっか。もう春になったんですね」

思い出したように相槌を打ち、フラダリと同じ単語を紡いで笑う彼女が、しかし「春」という単語の意味を本当に覚えているのかという点については、やはり首を捻らざるを得ない。
カロスにはそもそも「四季」の概念が希薄だ。気温の変動が少なく、雪の降る町の雪は解けることなどないし、暑い町では一年中、海で泳ぐことができる。
そうしたカロスに住む人々は「春」や「冬」という単語をあまり使わない。しかしフラダリは敢えてそうした、カロスの人間には馴染みのない単語を選んで使った。
それは他でもない、彼女がそうした「季節」のある土地から引っ越してきた人間であり、彼女の記憶にはそうした季節の移ろいというものが根強く残っている筈であったからだ。

……けれど当の本人は、自分がそうした「季節のある土地」で過ごしていたことをもう覚えていないのかもしれない。
春という単語に困ったような表情を呈したことだって、その記憶がもう彼女の中から消え失せてしまったことの表れであったのかもしれない。

人の記憶には限界がある。人を超えた何かを手に入れたところで、男も少女も人の器から脱することなどできやしない。
故に必要でないものは忘れていく。使わない記憶は頭の奥深くに押し留められ、なかったことにされていく。
彼女の忘却を責めるつもりなど更々なかった。
フラダリもまた、彼女のように「思い出せないこと」が増えすぎていたし、それは二人にとって当然のことであったから、今更、それを咎めたところでどうにもならない。

けれど稀に、フラダリが忘れていない、忘れる筈のない常識や良識を、同じ場所で同じ時を生きる彼女が、すっかり忘れてしまっていることがある。
少女がしっかりと覚えていることを、フラダリが忘れてしまっていることだって少なくはない。
二人が必要だと、大事だとする記憶は全て同じ物であるとは限らず、そのため、常に傍に在る筈のこの二人の間にも、当然のように記憶の齟齬が生じる。
しかしそれは決して悲しいことではなかったのだろう。
多くのことを忘れなければ生きていかれないようなこの状況において、互いが互いのことを一度たりとも忘れずに生きて来られたのは、寧ろ喜ぶべきことであったのだろう。

「赤いチューリップ、綺麗ですね」

「一本、摘んで帰りますか?」

「え、どうして?どうせ枯れてしまうのに」

当然のようにそんなことを告げてみせる。縋るように「どうして?」とフラダリを見上げる、その極めた依存の視線にはもう、慣れてしまった。

命あるものを愛するのは、おそらくとても難しいことだったのだろう。
花というのはその最たるもので、我々にしてみればたった一瞬を生きるだけの、酷く矮小で儚い植物でしかない。
森に生える大木であろうと、彼等の凍り付いた命の長さには、きっと敵わない。

クスクスと笑いながら「お花って可哀想」と零してくるりと踵を返し、チューリップが咲き並ぶ花畑へと駆けていく。赤いスカートが花弁のようにふわふわと風に揺れる。
今を懸命に生きるその鮮やかさを嘲笑うが如く、何の躊躇いもなく踏みしだいて舞い踊る。
花に隠れていたフラベベが、そんな少女に恐れをなして散り散りに逃げていってしまった。
それでいて困ったように笑いながら振り返り「あれ?逃げられちゃいました」などと零すものだから、いよいよ居た堪れなくなってフラダリは目を逸らした。

「フラダリさん」

けれど少女は男の名を呼ぶ。おそらくはこの世の誰もが忘れてしまった人の名を、もうずっと前に息絶えている筈であった男の名を当然のように呼ぶ。
彼女がいなければ男は「フラダリ」で在れず、また男がその呼び声に振り向かなければ少女は自らが「シェリー」であると確信することができない。
故に二人が同じところに留まる理由は絶えることなく、離れなければならない理由など思い付く筈もなかった。

「甘い匂いがしますよ」

「もしかしたら、ミツハニーが花の蜜を集めているのかもしれませんね」

「……ああ!そうですね。春ってそういう季節でしたね」

フラダリの言葉によって、ようやく彼女の記憶は彼と同じところに戻ってくる。そうして春という季節を噛み締めるかのように「悲しい季節ですね」と告げて、微笑む。
限りある命があまりにも眩しく輝くこの「春」という季節を、しかしその巡る命の外に在る彼女は「悲しい」として困ったように笑う。
彼女は出会った頃と変わらず、歪なままだ。しかしその「歪」な在り方というものは、長い時間の中で目まぐるしく変わりつつあった。

人であることをフラダリが忘れてしまえば、いよいよ彼女は男の名前すらもなかったことにしてしまうのではないかと思った。
だからこそ、彼はこの少女の隣を歩き続けている。彼がかつて愛した少女が、その姿を保ったまま何かもっと別の存在に成り果ててしまったとしても、
その幼い靴音が人ならざる響きを持ったとしても、それでも自分は、少女は、「人」であるのだと、言い聞かせるように傍に在り続けている。
そうした人の形を忘れがちである彼女の隣で、我々は人なのだと、時が止まったとしてもずっとそうなのだと、説き続けている。
彼女は歪な姿をしていた。今までもそうであったし、これからもずっと変わらないのだろう。

「……あ、やっぱりお花を摘んでいきましょうか」

「直ぐに枯れてしまう花など、摘みたくないのではなかったのですか?」

フラダリがからかうようにそう告げれば、「私じゃないんです」と寧ろ彼女の方が得意気に首を振ってみせた。

「こういう一瞬を永遠にするために絵を描いていた友達がいたような気がするから」

春は、あの子の命日だったような気がするから。そう続けてふわりと当然のように笑う。
春という季節すら容易に忘れてみせるのに、もう百年以上も前に亡くなった親友のことはいつまでも覚えているのだから、面白いものである。
そうした残酷な記憶の姿を、通常なら顔をしかめて悲観すべきであるその歪み過ぎた心を、しかし彼は「面白い」としなければいけなかったのだ。
そうしたことに面白さを見出さなければ、退屈で死んでしまいそうだったからだ。
そうした状況に身を置き過ぎた自分と彼女が悉く憐れな存在であることくらい、解っていた。解り過ぎていた。

「でも結局、あの子は何一つ、永遠にすることなんてできなかったんですけどね」

(もしもシェリーがフラダリと共に地下へと残り、あの光に呪われていたとして)
2016.3.29
泉さん、素敵な曲のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!
※某連載に導入予定

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