※50万ヒット感謝企画(曲と短編企画そのⅢ)、参考曲「雫」(あさき)
「行きなさい」
後ろで彼女を呼ぶ男の子と女の子の声を背に受けながら、それら全てを聞かなかったこととするように首を振り、その場へと膝を折って座り込む。
そんな少女を見下ろして、男はたったそれだけ呟いた。
炎の色をしたサイバーサングラスを外せば、水の色をした目があまりにも穏やかに彼女を見下ろした。
その目が宿した「覚悟」とも「諦念」とも取れそうな、酷く残酷で優しい色に、少女はしかし気付かない振りをして大きく首を横に振った。
「目を覚ましなさい。君が全てを捨てて此処に残ったところで、得られるものなど、何もない」
「貴方がいます!」
両手を強く握り締め、地面を睨みつけたまま、その少女が叫んだ鋭いソプラノは刃のようにこの薄暗い空間を切り裂いた。
臆病で内気な少女が、いつも自分から声など発しない彼女が、こちらが十を問うても一しか返さず、その声も聞き取ることに苦労を要する程の小ささでしか紡がれない、そんな彼女が、
しかしガラガラと大きすぎる音を立てて崩れつつあるこの空間の全てを制するかのような、あまりにも大きな声音をその喉から絞り出したことに、ただそのことに、男は驚いていた。
「貴方が、此処にはいます、フラダリさん」
もう一度、そう繰り返した彼女は顔を上げ、今にも溢れてしまいそうな目で真っ直ぐに男を見据えた。
ああ、この少女はこのような顔をしていたのだと、今まで彼女と視線を合わせることのなかった男は、この場に及んでそのようなことをただ、考えていた。
臆病で内気な彼女は、決して彼と顔を合わせようとしなかった。彼が問うた質問にも、床に地面に視線を落としたまま、小さく返すのみであった。今までは、ずっとそうであったのだ。
「貴方が此処で死ぬつもりなら、私も貴方の後を、追います」
ぎこちないカロス語で、最後の方はいつもの彼女らしい、か細い、震えるような声音でそれらの言葉は宙を泳ぐ。
いつか、君の目を見て話がしたいと思っていた。
その願いがこんなところで叶ってしまったことに、男はどうしようもなく遣る瀬無い思いを持て余す。
彼は視線を逸らそうとしたが、できなかった。泣きそうに顔を歪めながら、それでも必死に言葉を紡ごうと喉を震わせるその姿が、あまりにも美しい色をしていたからだ。
「わ、私はAZさんのように、三千年も貴方を待つことなんて、できない。だから、どうか、」
私を迎えに来てください。
私に生きろと言うのなら、その傍に貴方を欲することを許してください。
少女の口にしなかったそれらの言葉を、しかし男は音からではなく、彼女の泣きそうな目から拾い上げたようだった。
彼女が自ら紡ぐことの叶った初めての言葉、それに込められた彼女の想いを、彼女が自らの喉を震わせて音を紡ぐことの尊さを、男は知っていた。
知っていたから、その懇願を断ることができる筈もなかったのだ。
「では百日」
「え……」
「わたしは、カロスのことや君のことを考え直す時間が欲しい。それまで君に会うことはできないだろう」
顔を上げたまま茫然と立ち竦み、ゆっくりと瞬きをしながら、少女は男の言葉の意味を考えているようだった。
「君は百日なら、待っていられますか?」と確認を乞うように尋ねれば、彼女はその目を見開き、何度も何度も頷いた。
「さあ、行きなさい。百日経ってもわたしが現れなかったら、その時にはもう、君がわたしの後を追おうとも、構わないから」
少女はよろける足で立ち上がり、鞄を抱きかかえるように持って男に深く頭を下げる。そうして踵を返し、歩き始めた。
恐る恐るといった風に進めていた歩幅はやがて大きくなり、少女は崩れかけている通路を一目散に駆けた。
男もそんな彼女の後ろ姿を見送ってから、目を閉じた。
そして、冷たい土が二人を分かつ、1日目の寒い夜が訪れる。
*
彼女が、フレア団のボスたるその男を慕っていたと知る多くの人は、行方の知れなくなった彼を想う彼女を案じた。
彼女と共にアサメタウンから旅に出た同年代の少年、彼女にジムバッジを渡した各地のジムリーダー、ポケモンリーグで彼女と戦った四天王にチャンピオン。
そうした誰もかもが、彼女の、短く切られたオレンジ色の、「彼」を彷彿とさせるその色の髪を見て、驚愕し、後悔し、そして憐れんだ。
けれどそのような周囲の、腫れ物に触るような反応に対し、彼女は拍子抜ける程、気丈に、陽気に、快活に振舞った。
彼等はそうした彼女に安心したが、しかし彼女をより詳しく知る人物には、そうした姿は更なる不安と懐疑とを募らせる要素にしかならなかった。
「もういなくなった「彼」のところへ、行く準備をしているように見えるんだ。だってあの子は、あんな風に笑える子では決してなかったんだよ。
「彼」が、昔のあの子を連れていってしまったような、そして今も、あの子を連れていこうとしているような、そんな気がしてならないんだよ」
彼女にポケモン図鑑を託した博士は、悔いるような声音でそう告白したという。
けれど、更にごく一部の人間は、彼女が「死ぬための準備」をしている訳ではないことを知っていた。
それを知り得たのは、しかし彼女を最もよく知る「誰か」ではなかった。
彼女の真実に最も近しいところにいたのは、彼女があの日から一日たりとも欠かすことなく通い詰めている、フラワーショップの女性店員だったのだ。
「昨日の花は喜んでいただけましたか?」
「はい。……ちゃんと、受け取ってくれていたから、喜んでくれたんだと、思います」
その女性は、毎日自分の店を訪れるこの少女が、カロスを救った英雄であることに気付いていなかった。
彼女を「英雄」たらしめるカロスエンブレムを、彼女はそれを貰った当日に、アズール湾へと投げ捨ててしまっていたからだ。
けれどそんなことに気が付かずとも、女性は最も大切なことを解っていたのだ。
この少女が毎日、一輪だけ購入するその花が、彼女の想う「誰か」の下へと確実に届いていることを。少女と「誰か」は、来たるべき「いつか」をずっと待っているのだと。
勿論、その女性は、少女がその発言の裏に隠した真実を知らない。
毎日、1本だけ購入するその花を、セキタイタウンに開いた大穴の底に置いてきていることも、
その奥深く、風で吹き飛ぶことなどあり得ない場所に置かれたその花が、次の日には「誰か」の手によって持ち去られていることも、
それらの事実から、少女はその「誰か」を、他でもない「彼」であると推測するに至ったのだということも、この女性は全く知らない。知ることができる筈がない。
この店員は、少女と少女の周りで起きたあの日の出来事から、遥か遠い位置に生きる人間だった。彼女は何も知らなかった。けれど同時に、全てを知っていた。
花を選ぶ少女の嬉しそうな横顔が、かけがえのない誰かを想うが故のものなのだと、彼女はその「誰か」を愛しているのだと、何も知らずとも、解っていたのだ。
「あの、とびきり大きくて、とびきり赤い花を探しているんですけど……」
そんな彼女に花を用意し続けて百日が過ぎようとしていた頃、彼女は真っ直ぐに店員の目を見てそう申し出た。
その彼女の頬が少しばかり赤く染まっていることに気付いた彼女は、「いつもの方に差し上げるんですか?」と微笑みながら問い掛けた。
小さく頷いた彼女は、ぽつりと、そのか細い喉を震わせて真実を紡いだ。
「今日で百日目なんです。だから最後は、あの人に似合う花を贈りたくて」
女性は少しばかり驚いたけれど、それ以上を追及することはせず、すぐに「分かりました!」と了承の意を示して、彼女の注文に叶う、とびきり大きな赤い花を選び始めた。
きっと、この少女の想いは今日、実ろうとしているのだ。この少女と「誰か」にとって、百日という期間は、特別な意味を持っているのだ。
その最後の日を自分の選ぶ花で彩れること、それはこの女性にとって至高の喜びだった。
「今まで、ありがとうございました」
「こちらこそ、百日も通ってくれてありがとう」
深くお辞儀をした少女に百本目の花、真っ赤なカサブランカを手渡した。
「きっと喜んでくれますよ」と告げれば、彼女はとびきりの笑顔で頷き、店を飛び出していった。
女性は勿論、何も知らなかった。
彼女の紡いだ「最後」は、彼女自身の「最期」である可能性をも孕んでいたのだということ。
百日目となる今日、「彼」が自分を迎えにやって来てくれなければ、彼女は彼がかつて許した通りに彼の後を追おうとしていたのだということ。
毎日、穴の底へと置いてきた花が消えていたのは、第三者の悪戯によるものであるという確信が得られると同時に、彼女は、死ぬつもりだったのだということ。
彼女は何も知らなかった。だから笑って少女を送り出した。その華奢な足で駆けた先には、彼女の想う「誰か」が当然のように待っているのだと、信じて、疑わなかったのだ。
次の日、カロスの美しい土地から、突如として、一人の少女が姿を消した。彼女を知る多くの人はそのことに驚き、そして悲しんだ。
けれどただ一人、この女性だけは、少女が自らのフラワーショップに訪れなくなったことを、喜んでいた。
今まで此処に通ってきてくれていた少女が、かつてカロスを救った英雄であったことを、彼女はこの時ようやく知り、ほんの少しだけ驚いたが、それだけだった。
彼女はついにあの男を追ったのだと誰もが噂したけれど、それでも彼女だけは解っていた。少女の想いは実ったのだと、信じていた。
そんな彼女の確信を証明するように、そのフラワーショップには百日に一度だけ、真っ赤な野花で彩られた花籠が届くという。
2016.3.3
ポプリさん、素敵な曲のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!