音の鳴る糸は春風を見るか

※ヒャッコクシティ到着より前

シェリー

少しだけ呆れたような、それでいてそうした愚かな私を許すような声が上から降ってきて、私は涙でぐしゃぐしゃになった頬をそのままに顔を上げてしまった。
ミアレシティの路地裏、この暗がりでも彼は私の顔が濡れていることに気付いたらしい。
あの大通りを走ってきたのだろう、少しだけ息を切らせた様子で肩が僅かに揺れていた。
ああ、その肩の揺れは私を追いかけてきたことによるものなのだと、認めれば益々、止まらなくなった。

「君は本当に路地裏が好きですね」

冗談っぽく告げた彼は、スーツのポケットからハンカチを取り出し、まるで繊細なガラス細工を扱うかのような丁寧さで、それをそっと私の頬へと押し当てた。
その、あまりにも美しいハンカチの端は、私の涙を吸って色を変えてしまっているのだろう。
これ以上汚す訳にはいかないと身を引いてハンカチから逃れようとしたけれど、彼は大きな手で私の腕を掴み、私が逃げることを優しく禁じた。

「折角、君を見つけられたのですから、これくらいはさせてほしい」

そして、よく解らないことを言うのだ。頭の悪い私は、彼のそうした発言の意図に思い至ることができずにただ、困惑した。
私は彼の手から逃げられないまま、彼のハンカチが水を吸って色を変えていく様を見ていることしか、できなかった。

泣いている私を見つけることと、そんな私を追いかけてハンカチを差し出すこととは同義ではない。
私が泣いているからといって、彼が私にハンカチを差し出さなければいけない道理など、何処にもない。
けれど彼は当然のように、路地裏へと飛び込んだ私を追いかけて、こうしてハンカチを差し出している。そしてあろうことか、私を「見つけられた」とまで言ってしまうのだ。

みっともなく泣いている私は皆の非難と嘲笑の的になれこそすれ、こうして第三者に優しくされることなどあり得ない筈だった。
何故ならカロスはそうした、私のような美しくないものを許さない土地であったし、私も誰彼構わず優しくしてもらおうという意図で泣いている訳では決してなかったからだ。
だから私はこうして、隠れて泣いているのではなかったか。こうしてみっともない私は、みっともない私を隠し続けた私は、静かにカロスから弾かれていくのではなかったか。
そうしてこの土地は、その類稀なる美しさを保ち続けてきたのではなかったか。

しかしその、カロスにおける当然の摂理を、残酷だがその美しさを保つために皆に許され続けてきたその理を、カロスに生きるこの人は許さない。
カロスの美しさはもっと寛容で、私のような人間でさえも受け入れてくれる素晴らしい場所なのだと信じて疑わないし、また、そうした土地を目指して彼自身、努力している。
彼の意思は決して揺らがない。彼は私がカロスから弾かれることを認めない。

「何か、酷いことを言われたのですか」

「……いいえ、何も。カロスの人は、何も悪くありません」

「けれど君は泣いている。申し訳ない、カロスが君にとってもう少し生き易い場所であればよかったのだが」

だから私は、こんな私に手を差し伸べてくれる優しい手があったとして、それがこの人である限りは決してその手を取ってはいけない筈だったのだ。
私よりもずっと年上である筈の彼が、このカロスに抱き続けている眩しい希望を、私のような存在が汚してはいけなかったのだ。
けれど、ああ、このカロスというあまりにも美しい土地で、あまりにも疲れ果ててしまった私は、いけないことだと知っていながら、この人の手を取ろうとしている。
あまりにも優しいから、揺らいでしまいそうになる。

あとほんの一押しあれば、ほんの一瞬だけ魔が差せば、私はこの人に縋り付いてみっともなく泣きじゃくるだろう。
一人で続けてきた、私にとってはあまりにも過酷な旅路で起きた出来事を、そこで積み重ねてきた緊張と不安と苦悩を、どす黒く汚れたままに吐き出してしまうだろう。
それだけは避けたかった。あまりにも眩しい理想を掲げるこの人の足を、取りたくなかった。

だからこそ、私はこの人と出会うまいとして隠れてきた筈だった。
不安と緊張、恐怖が私の中の器から溢れ出して、どうしようもなく泣きたくなった時、私はいつだって路地裏に飛び込んだけれど、
それはミアレシティの人混みからの非難と嘲笑を避けるための行為であると同時に、彼を避けるための行為でもあったのだ。
私は本当は、この人に一番出会いたくなかったのだ。この人にだけは出会ってはいけなかったのだ。けれど、出会ってしまった。

「君はよく頑張っている。自分を責める必要など、何もない」

その言葉はストンと私の心臓に落ち、カランと、あまりにも軽く空虚な音を立てて横たわった。
彼は幾度となくこうして私に優しい言葉を掛けてくれたけれど、この時ほど、その言葉が空虚に感じたことはなかった。
だって、あまりにも優しいのだ。その優しさがあまりも純正なものであったが故に、彼の言葉は私にとって何の助けにもならなかった。
ぷつん、と音がした。それは私にしか聞くことの許されない、私の心にピンと張っていたなけなしの矜持が切れる音だった。

「それじゃあ、どうして私はこんなにも苦しいんですか!」

その音と同時に私は叫んでいた。私の頬に押し当てられたハンカチ、それに添えた彼の手が僅かに強張る気配がした。
いけない、と思った。けれど押し留めることはもう不可能だった。
こんなことを言ってはいけないと、よりにもよって誰よりも優しいこの人にぶつけることがあってはならないと、知っていながら、止まらなかった。

「だって、カロスは何も悪くない。この土地に住む人も、とても親切で優しい方ばかりです。
それなのに私はこうして、貴方のハンカチを汚している。それは私がカロスに相応しくない人間だからじゃないんですか?
そうして貴方の愛したカロスは、美しさを保ってきたんでしょう。相応しくない私を弾くことで、貴方がカロスに抱いた理想は叶う筈なんでしょう!」

「……」

「私は、此処にいてはいけないんでしょう、フラダリさん……」

そうして、決して口にしてはいけなかったことを、決して口にすべきではなかった相手に対して紡いでしまった私は、いよいよこの人から見限られる筈だったのだ。
私の言動が、どうしようもなく利己的なこの言葉が、カロスに相応しくないものであると判断した彼は、私に差し出したハンカチをそっと引っ込める筈だったのだ。
案の定、私の頬に押し当てられていたハンカチは引かれて彼のポケットに収まったけれど、彼はその空いた手で私の肩を、腫れ物に触るようにそっと抱いた。
離してください、と消え入りそうな声で紡げば、この空気に悉く相応しくない、いつもの穏やかな声音で「何故?」と尋ねられてしまった。

「呆れたでしょう、私のことを、」

「いいえ」

息を吐くように紡がれた否定の言葉に呼応して、矜持と一緒に切れてしまった緊張の糸がふわふわと足元を覚束なくさせる。
膝を折って崩れ落ちるようにぺたんと座れば、陽の差さないアスファルトの冷たさが、血の上った私の思考回路をゆっくりと冷やしてくれた。
けれど冷静になってみても、彼が私を見限らない理由にどうしても思い至ることができなかった。

もっとも、彼の発言や行動の意図が解らないことなど、今に限ったことではなかったのだけれど。
彼はいつだって私の理解のずっと先を歩いていて、だからこそ、私はその立派な背中に焦がれていたのだけれど。

「ありがとう、君の思いを話してくれて」

先程、まくし立てた酷い言葉に対して、驚くべきことに彼は感謝の言葉すら紡いでみせた。
まるで「その言葉を待っていたのだ」と言わんばかりの声音に、私の心臓がゆっくりと凪いでいった。
私よりもずっと背の高い彼が、アスファルトに屈むようにして膝を折り、私の目線で話し掛けてくれている。
その事実が恐ろしかった。こうあるべきではないとずっと言い聞かせていた。貴方は私を見限るべきなのだと、しかしもう口にすることはできなかった。

「わたしに話してください。君の思っていることを、もっと聞かせてほしい」

とうとう拒む術を無くした私は、糸が切れてしまい力を失った筈の手をゆっくりと動かして、彼の手に縋る。
ふわり、と胸の奥で小さな風が吹いた。

2015.12.8
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