照らせ友のしるべ

 どうしてわたしを選んでくれないのだろう。

 カイは打ちひしがれていた。少女がセキの手を取ったことにショックを受けていた。もっと言えば、少女がセキよりもずっと長い時間を共にして、セキよりもずっと多くの言葉を交わしてきた自分を何故か選ばなかったことにこそ、絶望していたのだ。
 余程、悲壮感のある顔をしていたのだろう。彼女はくたりと下がった眉をこちらに向けて、心から申し訳なさそうな声で「ごめんなさい」と小さく呟いた。その言葉で絶望の淵に叩き落とされていたカイは何とか我に返ることができたけれど、笑顔で明るく「気にしないで」と送り出してやれるだけの気力はまだ取り戻せそうになかった。

「ごめんなさい、カイさん」
「な、何言ってるの。謝らないでってば。謝ってほしい訳じゃない……」

 再度謝罪の言葉を繰り返した彼女に焦りつつ、言い訳がましくそう告げる。謝ってほしい訳じゃないなら、一体何なのだろう。いや分かり切っている。カイはただ選んでほしかったのだ。カイが少女と一緒にいたいと思っているように、少女にもカイと一緒にいたいと思ってもらいたかっただけなのだ。セキとカイ。この二者の選択において選ばれてこそ「ほうら、やっぱりあなたはわたしと一緒がいいんだね」と確信できるはずだったのだ。「あなたはわたしの自慢の友達」と、心からそう思えるようになるはずだったのだ。
 でも、そうはなっていない。この子がセキの手を取ったから。わたしを選んでくれなかったから。
 わたしは嫌われていたのだろうか? そんなことは、ないはずなのだけれど。

「本当にごめんなさい。カイさんのこと、好きですよ。ムラを追われたとき、デンボクさんに抗議してくれたことも、とても嬉しかった」

 彼女の言葉が一時の慰めのために用意された方便でないことくらい、分かる。分かってしまう。ねえ、そういうことがあなたの声音や表情からちゃんと分かるくらい、わたし達、時間も言葉も沢山重ねたはずでしょう。なのに、どうして。

「ただ私、今、不安なんです。恐怖も感じていて、とても心細くて」
「え……?」
「今は私がいっぱいいっぱいなんです。だから……ごめんなさい」

 彼女は深く頭を下げた。おおよそ友達にするには相応しくない振る舞いに、カイは益々困惑する。それが彼女なりの誠意の示し方だと頭では理解できるのに、今のカイにはどうしても、丁寧な言葉と態度で分厚く壁を張られているように感じてしまう。

「では選ばれた幸運なお方、一緒に湖に参りましょう! 詳しいことは道すがら説明しますので」
「応っ! とにかく向かうとしようぜ!」

 ウォロの声掛けによりようやく顔を上げた彼女は、準備を済ませてから隠れ里を出ていった。里の外れで彼女を待っていたと思しきセキは「ここからは別行動、現地で落ち合おう」という旨の説明をしつつ、励ますように彼女の肩を強く叩いた。彼女の隣に立つセキの青い背中は、やや着膨れしている団長服のせいか、それとも赤黒い空とのコントラストのせいだろうか、いつも以上に大きく見えたのだった。
 あの隣にいるのがわたしだったなら、きっともっとその背中は小さかっただろう。もしかしたら彼女よりも、わたしは小柄に見られたかもしれない。その有様はきっと随分頼りないものだったろう。でも彼女なら、もしあの子がわたしを選んでくれた方の彼女なら「一緒に来てくれて嬉しい」といつもの笑顔で肯定してくれるはず。わたしも、彼女にそう言ってもらえるならと、自らの頼りなさをそこまで気にせずにいられたはず。

「……ああ、そっか」

 そこまで想像したところで、雷に打たれたような衝撃がカイに走った。これでは選ばれないはずだと、彼女が自分の手を取ってくれなかったことの理由に思い至ってしまい、目の前が真っ暗になるような自己嫌悪に襲われた。

「だからわたし、選ばれなかったんだ」

 噛み締めるようにそう呟いた。心を落ち着かせてくれる笛をこの異様な空の下で奏でる気には到底なれず、故にカイの息は何の音にもならないまま細く吐き出されて、赤い空を構成する不気味な空気に溶けゆくばかりだった。
 デンボクさんのところへ、行かなければいけない。彼の動向を見ておくことが、今のカイが彼女のためにできる唯一のことだった。セキの言葉を借りたくはないが、今は時間を一秒たりとも無駄にはできない。にもかかわらずカイの足は思うように動いてくれなかった。のろのろと歩を進めながら、カイは彼女に出会ってからこれまでのことをぼんやりと思い出していた。

 暴走するハサギリに困惑していたとき。キングの後継を鍛えてほしいとお願いをしたとき。ガラナちゃんの力になれなかったと後悔したとき。ここしばらくの困難と挫折において、カイの成長をポケモン勝負で導き、カイの悩みを持ち前の調査力で解決し、カイの心を言葉で救ってきたのは、いつだってこの少女だった。彼女はいつだってカイの不安に寄り添い、カイの後悔や後ろめたさを優しく否定し、カイを支えてくれた。そうやって今日まで、セキよりもずっと長い時間を共にして、セキよりもずっと濃い関係を積み上げてきたはずなのだ。

 でも、わたしは?
 わたしは彼女に何をしてあげられたのだろう。
 彼女はわたしに沢山のことを許したけれど、わたしは彼女に何かを許してあげられただろうか。わたしは彼女にいろんな話をしたけれど、彼女はわたしに自分のことを何か一つでも話してくれただろうか。

「……」

 何もないのだ。彼女のためにカイができたこと。確実に彼女の力となり、彼女の心を救えたと胸を張れる出来事が、何も。

 セキには「何か」ができていたのかもしれない、とカイは考える。助けてもらうばかりではなく、支えるための援助か、言葉か、とにかく何かしらを彼女に差し出すことができていたのかもしれない。いや、仮にそれらができていなかったとしても、彼がカイと同じく彼女に何もしてあげることのできないポンコツだったとしても、それでも、セキの方から彼女に凭れかかるようなことは決してしなかったはずだ。
 コトブキムラを追われたことで彼女は追い詰められていた。不安だった。いっぱいいっぱいだった。だから彼女は「負担の少ない相手」を選んだのだ。こんな時に、更に他者の心を守り切るだけの余裕は持てそうにないからと、そう考えて彼女はカイを選ばなかった。「今の私ではあなたの心を支えられない」という、そんな優しすぎる理由でカイの手は拒まれたのだ。

「駄目だなあ」

 セキがどれだけ彼女の力になれるのか、そんなことは知らない。彼女に付いて回るだけで、何の力にもなりはしないのかもしれない。けれど、少なくともセキであれば、彼女の負担にはならないはず。彼女を守ることができずとも、彼女に守らせるような無様は決して見せないはず。そう、わたしとは違って。

「本当に駄目だなあ、わたし」

 悔しさと不甲斐なさを混ぜこぜにした呟きは、静かな隠れ里に存外大きく響いた。自分の言葉で駄目だと烙印を押し、自らに小さな罰を与えることでカイはようやく少し、ほんの少しだけ心を鎮めることができたのだった。

*

 空がいつもの美しい色を取り戻し、コンゴウ団とシンジュ団が大きな歩み寄りに成功したこの日において、誰よりもはしゃいでいるのはギンガ団の団員たちだった。みんな、彼女が異変を解決して無事にギンガ団へ戻って来てくれたことが嬉しくて仕方がないのだ。表立って反論することができなかっただけで、ムラを追われた彼女のことが心配だったのは誰しも同じだったのだろう。中にはシマボシさんのように、団長の目を掻い潜って彼女へと便宜をはかった度胸ある団員もいたらしい。みんながみんな、それぞれにできることをやっていたのだ。彼等のまばゆいばかりの活躍に目が痛くなる。今のカイには少し眩しすぎて、長くは見ていられそうにない。

「カイさん、此処にいたんですね!」

 パタパタと軽快に下駄を鳴らして彼女が駆けて来る。いつもの動きやすそうな団員服ではなく、丈の長い浴衣を着ていた。団員服のマフラーを連想させる、同じ色の赤い帯が実に彼女らしいと思った。似合っているなあ、と微笑ましくなって思わず目を細めてしまう。
 隣の椅子をぽんぽんと叩いて、どうぞと促す。彼女は笑顔で席に着いてくれた。ドン、と大きく聞こえた花火の音に引っ張られるようにして、二人の顔が夜空へと向く。次々に打ち上がる花火に彼女は随分と高揚しているようで、さっきから大きく夜空に赤や黄色が咲く度、わあとかすごいとか声が漏れっぱなしだ。カイに何か用があったという訳でもなく、ただ本当に「お祭りを一緒に楽しみに来た」というだけであるらしい。チラと横顔を盗み見れば、いつもよりも若干幼い、ただただ楽しそうな目の煌めきがそこに在った。

 花火なんてもっと開けたところで見ればいいのに、わたしのところへわざわざ来てくれたんだ。
 その事実を噛み締めることで、あの日感じられなかった満足感の一部を取り戻した気分になれてしまう気がした。きっとそんな風に、あの日感じた無力感を時の流れに溶かしてしまうことだって、きっとできた。……でも。

「ごめんなさい。わたし、あなたに頼りっぱなしだったよね」
「えっ? ……ふふ、異変の日のことですか?」

 彼女はくるりと顔をカイの方へ向けた。左の頬を花火の色に染めながら、視線をブレさせることなくじっと見た。今も次々に立派な花火が打ち上がっている。今日を逃せば次はいつ見られるか分からない特大のお祝いである。それでも彼女はカイが呼べば、そんな特別なものなどお構いなしに、必ずその目にカイを映してくれる。

「私こそ、こちらの不甲斐なさのせいで、カイさんが辛いときに寄り添ってあげられなくてごめんなさい」
「ううん、そんなこと! だってあの時は、あなたの方がずっと苦しくて辛かったはずなのに」
「あはは、これじゃ堂々巡りですね。お互いに、あの日については後悔があるみたい」
「それは……うん。そうだね」
「だから今回は、私にもカイさんにも、ちょっとずつ強さが足りなかったんだって、そういうことにしておきませんか? もし次があるなら、今度はちゃんと支え合えるといいですね」

 そのためにもっと強くなりたいなあ、などと呟く、わたしよりもずっと強い人。何もできていなかったのは明らかにカイの側であるはずなのに、お互い、と両成敗のように山分けした罪を抱いて、これでおあいこだと笑う優しい人。次こそ隣で支え合いたいと力強く願ってくれる、頼もしい人。わたしの隣で花火を喜び、その花火を捨て置いてまでわたしの言葉に向き合ってくれる、わたしの大好きなお友達。
 ねえ、あなたにも同じように思ってもらえるようにするには、どうすればいいのかな。

「カイさん、私、もっと強くなりますから……だから、怖がらないでくださいね」
「こ、怖がる?」
「貴方が私に話してくれた、相談も、頼み事も、弱音も、後悔も、私にとっては大事な時間の中で手に入れた大事な宝物なんです。だからこれからもいっぱい、貴方の言葉を聞かせてくださいね。今まで通りであることを、どうか怖がったりしないで」

 そのままでいいからと笑う彼女の大きな目、そこに映る自分を直視できなくなってカイは思わず顔を伏せた。カイの全てをいつ何時たりとも受け止めていられる程度の強さを身に付けるから、と柔らかく誓うこの少女に、……おい、いつまで一方的に凭れかかっているつもりなんだ。
 しっかりしろ、わたし。

「あ、あなたも! あなたもわたしに聞かせて!」
「えっ、私?」

 勢いよく顔を上げて彼女の手を掴んだ。温かいとも冷たいとも言い切れない、カイとほぼ同じ温度の指にぎゅっと力を込めて叫ぶように訴えた。彼女は急なカイの行動に驚きながらも、決して目を逸らしはしなかった。

「あなたが不安に思っていることも、悩みも相談事も、迷っていることも、後悔も、何でもいいからわたしに話して! あなたが受け止めてくれたわたしの時間と言葉の分、同じだけわたしもあなたから受け取りたいよ。引き取っていたいよ」
「……」
「あなたのように上手には支えられないかもしれないけれど、あなたの思いを受け止めることくらいはできるから。受け止めてみせるから」

 どうかそれくらいはさせてほしい。空から落ちてきたあなたが、厳しい土地でたった一人、頑張り続けてきたあなたが、これ以上一人になることのないようにさせてほしい。
 頼ってばかりだったカイの小さな挑戦。「頼られる」ことを乞うというやや奇妙なお願い。けれども彼女は笑うことも嫌がることもせずに「ありがとう」と優しく笑ってカイの願いを聞き届けてくれた。彼女がこの手のお願いを断ったことなど未だかつてなかったから、少し卑怯な手だったかもしれない。それでもカイは最早なりふり構っていられなかった。どんな些末なことであったとしても、できることがあるなら飛び付いていきたかった。これからもどんどん増やしていきたかった。彼女のためにできること、こんなわたしでもしてあげられることを。

「じゃあ今、一つだけ聞いてもらってもいいですか?」
「えっ、い、いいよ勿論! どんなこと?」

 彼女からのそんな優しい提案に思わず身を乗り出してしまう。彼女はカイからそっと視線を外して、祭りを思い思いに楽しんでいる人々の姿を見遣った。その視線に寂しさの類が混ざっているような気がして、カイは思わず息を飲む。

「みんな、とても楽しそうでしょう? 皆さんが此処で重ねた時間と、皆さんが汗水流して広げてきた空間の中へしっかり入れてもらうには、私にはまだ歴史とか、貢献とか、いろんなものが少しずつ足りないみたいなんです。まだ余所者なのかもしれないなあって、挨拶周りをしている時、いろんなところで、そう感じて」
「そ、そんなこと」

 これだけの成果を上げておいて、彼女がまだ「余所者扱い」だなんて、そんなことは絶対に在り得ない。カイは本気でそう考えているし、コトブキムラの人々だってきっと同じ気持ちだろう。それでも、彼等が二年前にこの地を訪れ、一からムラの形を整えてきたという分厚い歴史の中に、彼女の存在が長らく「なかった」というのは否定しようもない事実で……そこに疎外感を、孤独を、感じてしまうのは致し方ないことであるのかもしれなかった。
 難しい。人の気持ちを受け止めるのは思いのほか難しい。わたしにちゃんとできるだろうか、と不安になりかけたカイの心を、けれども彼女は次の言葉で勢いよく救い上げていく。

「でも貴方に声を掛けたとき、カイさん、喜んでくれたでしょう? 異変解決の功労者とか、実績を上げた団員だとか、そういうのじゃなくて、ただ『私』が来たことだけを喜んでくれた。そういうことがはっきりと分かってしまうくらい、貴方が満面の笑顔だったから、本当に嬉しくなってしまって」

 カイは思わず両手で自らの頬を押さえた。病気か何かを疑いたくなる程に、そこは赤く熱っぽくなっていた。次々に打ち上がる花火に興奮したのだと言い訳をするには、カイも彼女も夜空から長らく目を離し過ぎている。故に、認めてしまうしかなかった。
 そうだよ、嬉しかったんだ。あなたが来てくれたこと、あなたがわたしの隣で花火を見ようとしてくれたこと、その花火さえ捨て置いてわたしをその目に映してくれたこと、その全てが、こんなにも。

「私の席を空けておいてくれてありがとう。貴方の隣に私の居場所があってよかった」

 きっと今も同じ顔をしているのだろうなと確信しながら、カイは真っ赤な顔のままに彼女へと笑い掛ける。

「なんだか恥ずかしいなあ。わたし、そんなに嬉しそうな顔してた?」

2022.2.9

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