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「やっぱり貴方は強い人だわ」

ヒカリに聞こえさせまいとする、囁くような声音でそれは発せられた。
何のことかなと、解っていながら問い掛けるゲンに、シロナは困ったように笑いながら「訂正するわ。強い人であると同時に、狡い人だったのね」と苦言を飛ばした。

「10歳にもなる子がリボンの解き方を知らないなんて、あり得ない」

「……そうだね」

「でも、貴方はそんな「あり得ない」ことにずっと向き合って来たのね。あり得ないところで息をする彼女の心を読めるようになるまで、ずっと一緒にいてくれたのね。
……あたしが、みっともなく怯えて迷っていた間も、ずっと」

それは違う、と思った。ゲンに少女の心を読むことなどできる筈がなかった。
今だって、生クリームをクレープの生地に塗っている彼女が何を考えているのかなど、当然のように解らない。
二人は違う人間だった。年も離れていたし、性別さえも違った。
だからこそ、何もないところで糸が切れたように倒れる彼女を不気味だと思い、虚ろな目をした彼女に不安と恐怖を抱いていたのだ。違う生き物だと思ってしまったのだ。
それでも向き合い続けた。理由を並べることは簡単にできたが、今となっては「向き合い続けた」という仮定と「今も彼女の傍に在る」という結果だけで充分であるように思えた。

「君にもすぐにできるようになるさ。人との関わりを持つことが苦手な私にでもできることだからね」

そう告げれば彼女は俄かに元気を取り戻したように笑ったが、しばらくして再びゲンの方へと歩み寄り、「本当にそれでいいの?」と意味ありげな念を押した。

「どういうことだい?」

「貴方はあの可愛い子の心を読む役目を、自分だけのものにしておきたくはないの?」

後から考えれば、シロナはこの言葉で彼を試そうとしていたのだろう。
けれど、事実として「人との関わりを持つことが苦手」である彼は、この一瞬で彼女の言葉の意味を推し量ることができなかった。
だからこそ、事実のままにその答えは紡がれ、からかい混じりで言葉を続けようとしたシロナを沈黙させるに至ったのだろう。

「まさか、あり得ない。あの子は私を忘れるべきだ。あの子と出会った日から、私はずっとそう思っている、今でも」

彼女の強張った顔を、元の陽気な表情に戻す術を見失ったゲンは、苦し紛れにボウルの中の苺をひょいと摘まんで自らの口へと放り込んだ。
すると案の定「こら、それはクリームの上に置くものよ」と窘められてしまった。
けれどそこから「仕方ない人ね」と肩を竦めて、彼と同じように一口サイズにカットされたバナナを摘まんで口に入れたため、
秘密を共有した子供のように、顔を見合わせて楽しく笑う他になかったのだ。

事実、二人は秘密を共有していた。この「不思議な少女」という秘密を、彼女が不思議ではなくなる日を願うがために、二人だけの隠し事としていた。
それが解っていたから、ゲンもシロナも笑い止むことができなかった。
どうしようもなくおかしなことをしていると解っていたから、それでいてどちらもがただ必死に少女のことを想っていたから、
こうする他になかったのだと、言葉に出さなくても解っていたから、彼等はただ笑い続けた。

そうした悪い大人を、ヒカリは困ったように見つめていた。
苺やバナナをそのまま口に放り込むことはせず、正しくクレープの上に置いて再び彼等を見上げることで、そんな狡い彼等をゆるやかに窘めた。
ゲンはそんな彼女を見つめ返し、微笑んだ。あの日の少女が船の上から告げた言葉がゲンの脳裏に木霊した。

『私、ヒカリっていうの!お兄さんの名前を教えて!』
君は私の名前など知るべきではなかった。君は私を忘れるべきだったんだよ、ヒカリ

彼女はゲンの予想以上によく食べた。
3人で自作したクレープは想像通り甘かったが、旬のものでない苺の強い酸味のおかげで、なんとか「美味しい」と思える仕上がりになっていた。
少女はその、宝石のようなお菓子を気に入ったらしく、生クリームやチョコソースといった、味の重い食材を多分に用いているにもかかわらず、
ゲンやシロナが手に持つクレープと全く同じ大きさのものを、ゆっくりと、けれど確実に口の中に収めていった。
美味しい?と上機嫌で尋ねるシロナに、彼女は大きく頷いた。

「こんなに美味しそうに食べるヒカリを見るのは随分と久し振りね」

私もだ、と同意すれば、少女は慌ててクレープを置き、焦ったようにノートへ書き付けた。
『あなたのごはんもおいしいよ。』という、こちらへの気遣いが滲む言葉にゲンは思わず噴き出した。
解っているよ、と彼女の頭を撫でれば、何度も頷いてからペンを置き、再びクレープを両手で掴んだ。

こうしているとこの少女が、本当に、以前の、ごく普通の「少女」であるように見えた。
声が出ないことと痩せていることを除けば、此処にいるのは以前の、朗らかで快活な少女であるように思われたのだ。

けれどそうした見方を「驕りだ」と窘めるように、クレープを食べていた少女の手がぴたりと止まる。
もう2口分程しか残っていないそれを皿に戻し、少女はぼろぼろと泣き出した。
これにはゲンは勿論のこと、先に食べ終え洗い物をしていたシロナも驚愕して、どうしたとか、何処か痛いところがあるのかとか、次々と早口で尋ねた。
白い頬を伝う水は下に落ち、彼女のスカートに落ちて染みを作った。
彼女はゲンやシロナの問い掛け全てに首を振り、ペンをやや乱暴に掴むと、震える手でノートに言葉を綴った。

『おなかがきもちわるい。』

シロナは青ざめた。まさか食中毒だろうか、何かよくないものが入っていたのではないか、そんな思案を重ねては狼狽えていたが、ゲンは別のところに引っかかりを覚えていた。
彼女は「お腹が痛い」ではなく「気持ち悪い」と書いたのだ。
食後に覚える気持ち悪さの典型例は何かと考えて、彼の頭は些末な、けれど少女にとってはとても重要であろう現象を弾き出した。

「シロナ、大丈夫だ。ヒカリはおそらく食べ過ぎで気分が悪くなったんだ。満腹まで食べるという経験を、久しくしていなかったのだと思う」

おそらく、普段からごく少量のものしか食べていなかったから、胃が小さくなっていたのだろう。
一人分にも満たないクレープの量でも、満腹感を覚えてお腹が張ったようになる。少女はその不快感に恐怖しているのだろうと、そう理解して彼は「大丈夫だよ」と繰り返した。

「もう1時間も経てば気持ち悪くはなくなる筈だ。それまで少し辛いかもしれないけれど、君がおかしくなった訳ではないんだよ。私もシロナも経験することだからね」

彼女の降らす雨の粒が小さくなってきたことにゲンは安堵していた。何度も頷きながら、少女はそれでも不安そうにお腹を抱える。
「クレープ、美味しかったね」と確認するように告げれば、彼女は涙で塗れた顔を上げてぎこちなく笑った。

彼女はまだ普通になれない。解っていた筈だった。けれど幸いにも、彼はそうした不思議なところを生きる少女の手を引くことができる。
彼と少女が過ごした1週間が、あまりにも誠実で献身的なあの時間が、そうすることを許したのだ。

ソファに身体を沈めてうたた寝を初めたヒカリを起こさないよう、努めて静かに玄関の扉を開けてシロナは外へと飛び出した。
一歩、二歩と進んだところで彼女はくるりと振り返り、陽気で流暢な、しかしどこか意地の悪い問い掛けを紡いでみせる。

「……貴方は強くて賢いのに、肝心なところで盲目になっているみたいね」

「どういうことかな?」

「だって、ねえ、貴方はあの子を忘れられるの?」

彼女は慧眼だった。人との会話に長けていた。いずれもゲンには持ち得ないものだったから、そんな鋭い指摘をされたところで特には驚かなかった。ただ、困り果てた。
「忘れられるさ」と告げたところで、それが嘘であることなど、彼女には見抜かれてしまうと思ったからだ。
それにゲンとて、自らが口にした言葉くらいは、しっかりと覚えていた。不器用な男は忘れた振りをすることさえできなかった。

「貴方はあの子を忘れられない。あの子を引き取りに来た時、貴方は確かにそう言ったわ。それだけ長い時間、貴方はあの子と一緒にいたの。それはあの子だって同じことよ」

「……」

「あの子は普通の女の子よ。リボンの解き方を忘れてしまっても、貴方のことはしっかりと覚えていたの。そんな、貴方のことが大好きな、ただの女の子よ」

知っている。
あの子が重力を忘れたように倒れることも、階段の上から転げ落ちることも、狂ったように地面を掻き毟ったことも、
リボンの解き方を思い出せないことも、ものは全て下に落ちると認識できていないことも、時間の感覚がおかしいことも、声が出ないことも、虚ろな目をしていることも、
この世界の常識の何もかもを手放したように生きていることも、知っている。
にもかかわらず、自分のことを覚えていてくれたことも、覚えている。解っている。

けれどその事実について考えるのは、彼女がこの世界でのルールを思い出してからでも遅くはない。今はまだ、その時ではない。

「何故私に、そんなことを?」

「ふふ、どうしてかしら。あたしにもよく解らないわ」

「……ではそんな意地の悪い質問をする君にいいものをあげよう。10日前に作った激辛カレーだ」

少女がこの家にやって来た日の夜に作り、食べきることができずそのまま冷凍していた大量のカレーを、紙袋に入れて押し付けた。
眉をひそめて嫌がるかと思ったのだが、「あたし、辛いのも大好きなのよ」と肩を竦めて得意気に告げてみせる。
それなら好都合とばかりに、冷凍庫に封印されていた全てのカレーを袋に詰めて渡せば、「ちょっと多すぎじゃない?」と、いよいよ彼女はお腹を抱えて笑い始めた。


2016.7.28

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