12 (7/2)

トーストを2枚入れて、3分に設定した。
もう彼がトーストを真っ黒に焦がすことはない。どれくらいの時間で焼けば、トーストに綺麗な焦げ目が付くのかを彼は知っているのだ。
朝7時15分に2人分のパンを焼く。それは彼の日常と化していた。あまりにもささやかな、けれどこの上なく穏やかな時間を、おそらく彼は愛していたのだろう。

チン、と心地よい音で焼き上がりを告げたトースターから、程よい焦げ目のトーストを2枚抜き取り、1枚を少女へと渡した。ジャムを塗り、牛乳を注いで、テーブルに並べた。
いただきます、と合わせた手に続いて、彼女もゆっくりとその小さな手を胸の前で合わせた。
ゲンは1枚を早々に食べ終えたけれど、彼女は半分ほど手を付けたところで、苺のジャムが塗られたトーストをそっと白い皿へと戻した。
少しずつではあるが、彼女の食べる量が増えてきていることに彼は気付いていた。だから、これで十分だと思うことにして、彼女の静かな「ごちそうさま」の挨拶を見届けた。

彼女の回復。それは早ければ早い程よかったのかもしれない。事実、そう在るべきだと彼は心得ていた。そう在れたなら最善だろうということは解っていた。
けれどもう、男と少女の間には「リミット」が存在しなかった。だからこそ、ゆっくりでいい、焦る必要など何もないと思ってしまった。
少女に焦りを向けないため、そして自分のために、ゲンは焦ることを止めた。そうして朝の時間は静かに過ぎていった。

食器を洗い、来月までに済ませるべき地質調査のノルマを確認していると、滅多に使うことをしない携帯電話が震えた。
充電することすら忘れていたそれは、「バッテリーが残り少ない」ことを示すために残電量が赤く光っていたが、それよりも注目すべき名前に彼の視線は吸い寄せられた。
「シロナ」と差出人の欄に掛かれたそのメールを開封すると、彼女らしいシンプルな、けれどどこか気品を感じさせる文面が簡潔に綴られていた。

『今から向かってもいいかしら?お土産を楽しみにしていてね。』

いいかしら、と丁寧な疑問形で尋ねているにもかかわらず、「お土産を楽しみに」と、もう許可を得られたこと前提で話を進めている様がいかにも彼女らしい。
携帯を充電器に繋いでから、「シロナが来てくれるみたいだよ」と、リビングのソファに身体を埋めていた彼女にそう告げた。
どうやら夢うつつの状態にあったらしく、大きく目を見開いて、慌てたように辺りを見渡し、急に立ち上がって歩き出そうとして、その身体が大きく傾きかけた。
何もないところで突然、重力を忘れたようにすとんと倒れる。もう慣れ過ぎたその現象に備えるため、ゲンはさっと腕を伸べて彼女の肩を掴んだ。
ぱちぱちと視界を切り替えるかのように恣意的な瞬きを繰り返した少女は、不思議そうにゲンを見上げた。苦笑する男の姿がそこには映っていた。

「シロナから連絡があってね、もう少ししたら此処にやって来るそうだよ」

彼女は大きく頷き、今度はフローリングをしっかりと踏みしめて立ち上がった。
お土産があると言っていたけれど、何だろうね。そんな風に伝えれば、彼女は目と口を細めて僅かな微笑みを見せた。

ヒカリ、こんにちは!」

シロナの目元にはやはり隈があった。けれどそれは、3日前に見たそれよりもかなり薄くなっているように思われた。
その認識は果たして正しかったのか、それともその隈を感じさせない程に、彼女が湛えた笑顔が眩しいものであったのか、ゲンにはどちらとも断言することができなかった。
指先に眩しい白の包帯を巻いた少女の手、それを包み込むように握り、大きく振ってから、彼女は躊躇うことなく少女を抱き締めた。
長く細い指が藍色の髪を梳くように何度も何度も往復した頃、彼女はようやく少女から顔を離して、いつもの陽気な笑みを湛えてみせた。

「元気そうでよかったわ。ご飯は食べている?ゲンの料理は美味しい?」

そういうことを訊かないでくれと思ったが、少女はその言葉を受けて迷わず頷いてくれた。

「本当?トーストを焦がしたりしていないかしら」

「……今は幸い、綺麗な焦げ目を作れるようになったよ」

何なら実証してみようかと尋ねるゲンに、シロナは悪戯っぽくにやりと微笑んでから、
「トーストよりも、今日はこれを作りましょうよ」と告げて、果物や小麦粉が入ったビニール袋を取り出した。

「クレープって、食べたことあるかしら?ヒカリと一緒に食べようと思って、材料を持って来たのよ」

その単語はゲンに、テレビの向こうの街中に佇む少女たちが、一様にカラフルな紙で包まれた、筒状のお菓子を持っている姿を思い出させた。
生クリームとフルーツをたっぷり使った、女の子がいかにも好きそうな、宝石のようなお菓子だったように記憶している。それを、この女性は此処で作ってみようと言う。
無理だろうと苦笑しかけたゲンを窘めるように、「案外簡単なのよ?まあ、やってみましょうよ」と、やや高揚に上擦った彼女の声が飛んできた。

「そうだわ、ヒカリにプレゼントがあるの」

彼女は上擦った声音のままに微笑み、鞄から黄色いリボンのかけられた包みを取り出した。
少女にそれを渡し、開けてみてと促したが、彼女はぱちぱちと恣意的な瞬きをした後で困ったように首を傾げた。
目が一瞬、本当に一瞬だが虚ろの様相を呈した気がして、ゲンは慌てて彼女の手を取り、リボンの端へと導いて笑った。

「ここを引っ張ってごらん、解けるようになっているから」

シロナが息を飲む音が聞こえた。少女は彼の言葉に従い、リボンの端を摘まんでゆっくりと引いた。
スルスルと肌触りの良さそうなリボンの解ける音は、きっとシロナにとって、自らの首を絞める縄の音に聞こえたことだろう。
そんな都合のいい幻聴を聞く必要などないと、解っていたからゲンはシロナの背中を強めに押した。彼女は能面のような顔を一瞬でなかったことにして、肩を竦める。

プレゼントの中身はエプロンだった。クリーム色の生地にカラフルな糸で花の刺繍が施されている。
可愛いでしょうと得意気に告げたシロナを見上げ、少女は一旦エプロンをテーブルに置いてから、ペンを取ってノートにすらすらと書きつけた。

『ありがとう。』

おや、とゲンは思った。あたしとお揃いよ、と告げて鞄から同じデザインのエプロンを取り出す彼女には、きっと気付きようもないことに目を向けてしまったからだ。
少女の筆圧が、濃くなっていた。

これを泡立ててほしい。
そう言ってシロナに手渡されたのは、ボウルに注がれた生クリームだった。
生クリームという物体を知らない訳ではなかったが、牛乳に酷似したこの液体を、どう泡立てればあのようなもこもことした形状になるのだろうと考え、途方に暮れた。
『泡立て器で根気よく混ぜましょう』と、生クリームの入ったパックにはそう書かれてあったが、30秒、1分と泡立てても一向に終わりが見えない。

シロナと少女はフルーツを切り終え、クレープの生地を作っているところだった。
小麦粉と米粉、砂糖、ベーキングパウダー、牛乳をそれぞれ秤量し、ボウルに入れて混ぜ合わせている。
同じ「混ぜる」という動作である筈なのに、シロナのそれはとても優雅だ。彼女の生来の気質や風貌がそう見せているのかもしれないが、何より作業が楽なのだろう。
少なくともこちらの、終わりの見えない作業よりは幾分かマシな筈だ。それならば優雅に見えたところで当然のことだったのだろう。
そんな優雅な所作で材料を混ぜ終えた彼女は、出来たかしらとこちらに歩み寄り、ボウルの中を覗き込んで苦笑する。
「無理だ、こんなものがメレンゲ状になる筈がないよ」と告げたが、「大丈夫だから続けて頂戴、ヒカリも待っているわよ」と逆に発破を掛けられてしまった。

ゲンの頭に、唐突ながらサイコロの像が浮かんだ。6面体のそれには1から6の面が刻まれているに過ぎず、何度それを投げたところで「7」の目など出る筈がなかった。
この、生クリームを掻き混ぜる作業はそれに似ている気がした。そうした不毛な作業の色を湛えているように思われたのだ。
幾ら試行を重ねたところで、サイコロは7以上の目を出さない。サラサラとした液体であるこの生クリームを幾ら掻き混ぜたところで、メレンゲの様相を呈する筈がない。
自分の腕が抱えるこのボウルの中身が、あのもこもことした白いものになることなど不可能であるように思われた。けれども彼はサイコロを振るように掻き混ぜ続けた。
それは他でもない、シロナが「大丈夫」と断言したからであり、またこの生クリームの完成を、少女が待っているからでもあった。
それ以上の理由など、この不毛な作業にある筈もなかった。

けれど掻き混ぜているうちに、腕が確かな手応えを拾うようになった。
液体であったものが、徐々に、徐々にその形を忘れて別のものへと変わっていくその様にゲンは驚き、それからはもう、手の疲れなど忘れて必死にボウルの中身を掻き混ぜた。
おそらく彼は夢中だったのだろう。この僅かな、けれど確かな変化に心を奪われていたのだろう。
隣で少女がボウルの中を覗き込み、同じように目を丸くしていることさえも気付かない程に、彼の世界は生クリームと自身の腕だけで回っていた。他のことなど知る由もなかった。
やがて彼もよく知る生クリームの形状になった頃、長く大きな溜め息を吐き、そこで初めて少女の存在を視認した彼は驚き、困ったように笑った。

「つい夢中になってしまったよ。生クリームとは不思議なものだね。……さあ、これで文句はないだろう、シロナ」

角の立つ程に泡だったそれを少しばかり傾けてシロナに見せ、得意気に肩を竦めれば、彼女はまるで幼子のように両手を合わせて喜んでくれた。
……余談になるが、こうした生クリームを泡立ててくれる機械が普及していることを、後にシロナから聞き、脱力した。


2016.7.27

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