14 (7/4)

窓を打ち付ける雨の音で目が覚めた。
いつもの準備を済ませて少女の部屋へと向かい、扉の前に立ったが、その向こうですでに起きている筈の少女はドアを開けてはくれなかった。
もしかしたら、まだ眠っているのかもしれない。そう思いながらノックをすれば、小さな足音がこちらへと向かってきて、彼女らしくない勢いと共に開かれた。

挨拶のためのノートを持つことすら忘れた少女の手、白い包帯を取ることができる程に傷が塞がったその指先は、冷たい水滴をぽたぽたと滴らせていた。
服の袖も冷たい水を吸って色を変えており、窓の傍のフローリングは水浸しになっていた。
ああ、そういえば彼女がやって来た日の夜も窓を開けて、自らの服や手が濡れることも構わず、雨音へと手を伸ばしていた。
その奇妙な儀式が何を意味しているのか、少女との時間を2週間ほど重ねた今でもゲンはまだ、解らなかった。けれど少なくとも少女にとっては意味のあることだったのだろう。

床を雨で濡らしてしまったことへの申し訳なさを示すように、ノートの新しいページには、「おはよう」といういつもの挨拶の代わりに、「ごめんなさい」という字が並べられていた。
気にしなくていいよと告げて、拭くものを取るために洗面所へと向かう。バスタオルを3枚持ってきて、そのうちの1枚を少女に差し出す。

「そのままだと風邪を引いてしまうからね。窓を閉めて、床を拭こうか」

そう促せば、少女はタオルを受け取り頷いて、ゆっくりと窓の方へと歩み寄ったが、それでも窓を閉めることはせず、手を窓にかけてからもしばらくは動きを見せなかった。
虚ろな目は灰色の空から降り続ける雨を夢中で追いかけていた。少女の手を離れたタオルは濡れた地面にひらりと落ちて、床の雨を吸ってあっという間に色を変えた。
服の裾が濡れていることも、部屋の中に雨が少しずつ入ってきていることも、タオルを握っていたことさえも、空を見上げたその瞬間、綺麗に忘れてしまったかのようだった。

「雨が好きなのかい?」という言葉に少女は振り返り、ゆっくりと首を横に振った。
ではどうしてその冷たい水に拘泥しているのかと思っていると、彼女はようやく窓を閉めた。
しかし足元のタオルを拾うことはせず、代わりにテーブルへと歩み寄り、ペンを握った。それをノートに構えて、考え込むように目を閉じた。

「どうしたんだい?」

長い、あまりにも長い沈黙が降りていた。窓ガラスを叩く雨の音と、窓のサッシから床の水溜まりに落ちるぽちゃんという小さな音だけが、この小さな薄暗い空間に満ちていた。
やわらかな沈黙に身を委ねながら、ゲンは彼女が綴ろうとしている「何か」を待った。
白い包帯から染み出た雨がノートを歪ませ始めた頃、彼女はようやくその手を動かした。
濡れた紙面に落とされ滲んだ青いインクは、子供らしいぎこちない形をした天啓を彼に下し、彼の身体にそのたった一言を雷鳴の如く轟かせるに至ったのだ。


『雨は下にふるの?』


戻って来た。そう確信するや否や、ゲンは少女に腕を伸べていた。
驚いたように肩を跳ねさせる少女に謝ることさえ忘れて、壊れてしまうのではないかと思う程に強く抱き締めた。

「そうだよ、そうなんだよ。水は下に落ちるんだ。
だから雨はあんなにも高い空から私達のところへ降ってくるし、海は海のまま深く沈んでいるし、君が掬い上げた水は指の間をすり抜けていくんだ。
私達は、水の落ちる世界にいるんだよ。水だけじゃない、全てのものは下に落ちるんだ。私達が生きているのはそうした世界なんだよ、ヒカリ

抱き締めたまま、彼は急き立てられるように言葉を紡いだ。手の力を弱めることなどできなかった。
だって今、今しかないのだ。この瞬間、手を離してしまったら、腕の中から逃がしてしまったら、この子はまた、下に落ちる水のことを忘れてしまうかもしれない。
だから彼は言葉の限りを尽くして、彼女のたった一つの理解を肯定した。彼女に疑う隙を持たせないように、何度も何度も、あるいは洗脳のように繰り返した。
「水は下に落ちる」と。

ゲンの言葉が止んだ一瞬の間に、少女は腕の中から彼を見上げ、小さく頷いた。自分の言葉を受け入れるその仕草に、泣きそうになってしまった。
ようやく力を緩めた腕から彼女はそっと抜け出し、更に何かを伝えるために、水を吸ってぐにゃりと歪んだ紙へとペン先を落とした。

やっと「あの子」が帰って来たのだと、ゲンはもう殆ど覚えていない、初めて出会ったあの頃の少女の面影を記憶から引きずり出して、笑った。
紛れもない、それは安堵の笑みだった。彼は喜んでいた。喜び過ぎていた。

だからこの瞬間、彼は忘れていたのだろう。
今の少女と、今までの少女は「同じ人間」であるということ。
今の彼女が下に落ちる水のことを思い出したとして、それはしかし、つい先日までその水のことを忘れていたという事実を掻き消してはくれないのだということ。
共に暮らし始めて2週間、ようやく同じ地に足を下ろすことの叶った彼等の対話は、ようやく交わることの許された彼等の言葉は、これから始まるのだということ。

そうした全てを、彼女は次のたった一言で、あまりにも鮮明に思い出させるに至ったのだ。

『でもわたしは、上におちる水のせかいを知っているよ。』

長い沈黙を雨の音が埋めていた。息を止めた彼を、少女は真っ直ぐに見上げていた。
少しばかり湿った音を立ててノートが閉じられた。ゲンはその、テーブルにそっと置かれたノートとペンを、特に意味もなく呆然と見つめていた。

当然のことながら、ゲンは上に落ちる水のことを知らない。そんなでたらめな現象を可能にする場所が本当にあるのかどうか、疑わしい。
彼女の言う「世界」が、彼女の夢の中にのみ存在する架空の場所なのではないかという思いはまだ、拭えない。
けれど少女の目はもう虚ろではない。「あの頃」のような覇気はないが、それでもその藍色には確固たる意思があった。
彼女は嘘吐きではない。ゲンの知る少女は、こんな目で嘘を吐くような子では決してない。

「……そうだね」

彼は濡れた地面に膝を折った。

「君が下に落ちる水を受け入れてくれたのだから、私も君の、上に落ちる水の話を聞かなければいけないね」

驚いたようにその藍色の目が見開かれる。ぱちぱちとぎこちない瞬きを繰り返す。
ああ、星が降りてきているようだと、初めて会った時に抱いたその印象を、ゲンは今でも覚えている。
あの頃と変わらない目が、けれどあの頃よりもずっと深い色で此処に在る。

「君の話を聞かせてくれないか」

「……」

「話したいことだけでいい。少しずつでもいい。思い出したくないなら無理には聞かない。いつでもいい。私はいつでも、君の言葉を聞く準備が出来ている」

この子を信じよう、と思った。自分のために言葉を綴ってくれるこの小さな子の世界を、今こそ紐解く覚悟をするべきだと心得たかった。
あの陽気で快活な少女の目を曇らせた真実、そこに「上に落ちる水」があるのなら、彼はそれをこの目で見なければならない。
そうして自分の目が少女のように虚ろの様相を呈したとしても、構わない。仮に全てが彼女の虚言であったとして、それはそれでいい。
この雨に濡れた彼女の手の中、そこに常軌を逸した狂気が閉じ込められていたとして、しかし、それが一体何になるというのだろう?

構わない。そんなことで私の目は濁らない。これから起こる全ては、この子を見限る理由になどなれやしない。この覚悟と勇気は他でもない、この少女に貰ったものだ。
……君に出会わなければ、私は、自らの中にある勇気を知ることもできなかった。

待っているよ、と付け足して、彼は今度こそタオルを窓際の床に押し当てた。
あっという間に雨を吸って重くなったそのタオルを、窓を少しだけ開けて外に出し、強く絞った。水の落ちる様子を、もう少女は見なかった。

朝食を食べてから、ずっと彼女は部屋に閉じこもっていた。
彼自身、随分と急いた様子でまくし立ててしまったという自覚があったため、これ以上余計な言葉を投げて彼女を追い詰めないようにしようと努めていたのだが、
昼食の席で彼女の方から「新しいノートが欲しい」という注文をしてくれたのだ。
まだ1冊目のノートはページが残っていた筈だが、今朝の雨で紙が濡れてしまい、歪んで書き辛くなったのだろうと推測し、快く了承の意を示した。
以前の買い物の時に余分に購入していた、全く同じデザインのノートを渡せば、彼女は最初のページに青いインクで「ありがとう」と書いてから、再び自室へと舞い戻った。

何をしているのだろう。思い詰めてはいないだろうか。そんな不安は絶えなかったが、彼は少女の部屋に繋がる部屋をノックしなかった。
人の気配を拾えないリビングは異様な程に静かだった。掃除と洗濯を済ませてからパソコンに向かい、地質調査の報告をミオシティに送信した。

3時を過ぎたところで、早すぎると思いながらも夕食の準備をした。
キッチンに立ちながら、しかし彼の思考はまな板の上にはなかったようで、幾度か野菜と共に指まで切りそうになり、冷や汗をかいた。
シチューを作った際に残っていた野菜とピーマンを使って野菜炒めを作った。水と油がフライパンの上で跳ねる音は存外に大きく、彼を安心させた。
酷く緩慢な操作で調理を済ませ、皿とコップを並べて席に付いた。両手を組んで額にぴたりとつけて、訪れた静寂を掻き消すように長く息を吐いた。

『でもわたしは、上におちる水のせかいを知っているよ。』

あの一行が脳裏に焼き付いていた。声の形を取らないその言葉は、しかし彼の中でけたたましく反響を続けていた。

そうしてしばらく俯いていた彼は、テーブルの向かいで椅子を引く音が聞こえるまで、
少女が自室を出てリビングに向かってきていることも、俯いたゲンを見てこちらに歩み寄って来たことも気付かなかった。
驚きに目を見開いたゲンに、彼女は更なる驚愕を提供する。

『おぼえていることだけ、書いたの。』

「……」

こちらに差し出してきた2冊目のノート、それを恐る恐る捲れば、何ページにも渡り、彼女の字が細かく書き連ねられていた。
顔を上げれば、彼女は真っ直ぐにこちらを見据え、口を開いて静かな言葉を綴った。
「ありがとう」の後の口の形は、断言こそできないが、こんな言葉を綴っているのではないかと彼は推測し、息を飲んだ。

『あなたに信じてもらえて、うれしい。』


2016.7.28

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