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特に確固たる根拠があった訳ではないけれど、「その時」はずっと後であるのだろうと、
彼女にも心の準備と思考を整理するだめの時間が、彼が心を落ち着かせるために要したそれよりもずっと長い時間が必要であろうと、
……そう思い込んでいただけに、その日の夕食の場で、彼女が2冊目のノートを差し出してきたことはゲンを少なからず驚かせた。

驚きの波が引くにつれて、ゲンはそのノートに視線を落とした。
彼女の幼い、丸い文字がびっしりと書き連ねられている。青いインクで丸く塗りつぶしてあるのは誤字だろう、ページに幾つか点在していた。
昼にこの2冊目のノートを渡してから、ずっと書いていたのだろうか。そうでなければこの文字数の説明がつかない。

「……今、読んでもいいかな」

少女が頷いたのを確認してから、ノートを両手で持ち、彼女の文字を追い掛けた。
長い時間をかけて、ゆっくりと一行ずつ、用意していた夕食のことも、静寂がもたらす不安のことも忘れて、ただ読み続けた。
彼女の「告白」は、時に混沌と、時に必死に、ある時は淡々と、そしてまたある時は痛切な文字の形で彼の目を穿った。
けれど読み進める程に、彼の心の中には、ただ「解らない」という思いばかりが積み重なっていった。

彼女が旅の中で経験したこと、……それは10歳の子供が経験するには、あまりにも過酷で難解なものであるように思われた。
その凄まじい旅路を労うべきだったのかもしれない。辛いことを思い出させてしまったことを謝罪するべきだったのかもしれない。
けれど、どんな言葉も「軽すぎる」ように思われた。
鋼鉄島でゲンと別れてからの1か月、その間に彼女の身に降りかかったことを、この文字から全て読み取り、その苦しみを我が物とすることは不可能だった。

理解できないことは、推し量るしかない。けれど推し量ることすら困難である程に、彼女の旅路には、理解できない単語が多すぎた。
赤い鎖、が何を意味するのかも、ギンガ団、がどういった組織であるのかも、ギラティナ、というポケモンの存在も、彼には解らなかった。

ただ、「アカギ」と「ギラティナ」という単語は数ページに渡り何度も登場したため、彼は解らないなりに、否応にもその単語を記憶の中に留めることとなった。
アカギとはおそらく、ギンガ団という組織を束ねていた長であろう。
ギラティナはどうやら異世界に住むポケモンであるようだが、彼女のギラティナに関する記述は「大きい」「怖い」「食べる」など、あまり要領を得ないものばかりであった。
……ただ、普通の草むらに生息しているようなポケモンでないことは確かなようだ。空を覆うような大きなポケモンに遭遇した経験が、そもそも彼にはなかったから。

ギンガ団という組織がテンガン山で伝説のポケモン、ディアルガとパルキアを呼び起こした。そのために3匹のポケモンから「赤い鎖」を作る必要があった……。
世界を歪めようとしたアカギに、大きく開いた影の中からギラティナが牙を剥き、彼を影の中へと引きずり込んだ。少女は彼を追い、飛び込んだ……。
不思議な世界で上も下も解らないままにアカギを追い掛けた。音も風もない、寒い場所だった……。
少女は彼とのバトルに勝利したようだが、彼に「お前がギラティナと対峙することは元の世界を壊すことになる」と脅された……。
ギラティナから逃げた彼女にアカギは暴言をまくし立てると、崖から飛び降り、姿を消した。ギラティナは彼を追い掛けて世界の底へと向かい、そして……。

『わたしはアカギさんをさがした。でも、見つからなかった。』

『ギラティナに、ふしぎなせかいからおいだされた。シロナさんに出会って、いっしょに少しだけすごして、それから、ここへ来たの。』

少女らしい幼い字で書かれた「旅の記憶」は、どこまでも少女らしくない過酷な様相を呈していた。
どんな言葉も彼女には不相応であるように思えて、彼は更に詳しいことを尋ねるために質問を重ねた。

「君はギンガ団のことを前から知っていたのか?」
「悪事を働いた彼等は、君にも攻撃を仕掛けてきた筈だ。危ない目には遭わなかったのかい?それとも、君のポケモンがしっかりと君を守ってくれたのかな」
「ディアルガとパルキアを君は見たのか?シンオウの神話に伝わるユクシー達を助けたのも、君?」
「ギンガ団のこと、アカギのことを、君は怖いと思わなかったのかい?」

彼女は全ての質問に大きく頷いた。
こんなにも小さな少女が果敢にもこのような惨い事件に対峙していたということを、彼女の字をもってしてもまだ完全には信じられていない、
そんな彼を糾弾するように、やわらかく叱責するように、少女は真っ直ぐに彼を見ていた。両目の藍色には星が降りていた。

「……この、」

沈黙を埋めるように男は喉を震わせた。

「この「不思議な世界」は、何処にあるんだい?」

恣意的な瞬きを幾度か繰り返した後で、少女は初めて首を横に振った。
しかしその否定のサインが何を示しているのか判りかねたため、「私がそこへ行くことはできないだろうか?」と尋ねれば、彼女は更に激しく首を振ってぼろぼろと涙を零し始めた。
どうしたんだい、という彼の声など届いていないかのように、彼女は顔を恐怖に歪ませて『嫌』『行かないで』『駄目』と口を動かした。
ひゅう、と声の代わりに漏れる息が痛々しさを増してきた頃、彼女はゲンの手元からノートを乱暴に奪い取り、青いインクでたった一文を書き殴った。

『あなたも食べられてしまう。』

食べられてしまう?ゲンは彼女の文字に首を捻り、困惑した。
「恐ろしいポケモンが人間を食べにやって来る」というのは、子供が一人で夜、外に出掛けることを窘めるための決まり文句のようなものであり、
そうした伝承は、しかし子供が成長していくにつれ、ただの作り話に過ぎないことを彼等自身が理解していくものである筈だった。
それをこの、10歳になる少女が真に受けて、しかもこれほどまでに恐れているという事実は「異常」であったが、ゲンはもう、彼女に狂気を当て嵌めることができなかった。
彼女が異常なのではない。彼女が置かれていた環境が異常だったのだ。このノートに刻まれた彼女の冒険の記録がそれをはっきりと示していた。

この子が、そうした「ポケモンに食べられてしまう」などという伝承を真に受けている理由が、あの世界には必ずある。
それを見つけなければならなかった。自分はそのために此処にいて、今、彼女の冒険を紐解こうとしているのだとゲンは確信していたのだ。

やっと、やっとここまで来たのだ。躊躇う訳にはいかなかった。

「大丈夫だよ、私は食べられたりしない。もし君に何かあっても、私が君を守ってみせるから」

すると少女は涙を止めぬままにはっと顔を上げ、しばらく茫然とした表情で彼を見つめてから何度も頭を横に振った。
小さな口は何度も無音で『違う』と訴えていて、ゲンは彼女の感情の高ぶりが収まるのを待ってから、「何が違うんだい」と続きを促した。
彼女は再びペンを取り、先程の荒っぽい、慌てたような字を忘れさせるかのような丁寧な文字を綴った。

『わたしがあなたを守るの。』

その言葉は確かな意味を持つ文章として、ゲンの目に焼き付いた筈だった。にもかかわらず、彼はその言葉を意味のあるものとして飲み込むのに数秒を要した。
こんなにも小さな少女が、先程まで「不思議な世界」を恐れて大粒の涙を零していたか弱い女の子が、しかしあまりにも真摯な目で「私が貴方を守る」と訴えている。

『わたしが、あなたの手を引くんだよ。』

大の大人を一人、預けるには、彼女の背中はあまりにも小さく、頼りなかった。そんなことは解っている。解っていたのだ。
けれどゲンはその言葉に了承の意を示して、彼女の頭をそっと撫でた。
彼女が自分を守れるか否かは、きっと最早問題ではなかったのだろう。
彼女が自らよりもずっと大きな身体の、ずっと年上の大人を守ろうとしてくれている、その意思だけで十分だったのだから、それ以上のことなど望むべくもなかったのだろう。

……ああ、でも私が君と初めて出会ったあの日、私は他でもない君に守られていたね。

『それじゃあ私がお兄さんを守ってあげるね!』
あの時、少女は朗らかな声音でそう言った。星の降りたような、キラキラと輝く目を三日月型に細めて、快活に、陽気に紡いで笑ったのだ。
彼女は何も変わっていない。出会った頃も、今も、少女は少女のままでずっと此処に在る。

嗚咽の完全に止まった彼女は次のページを捲り、スラスラと『あさっての夕方に出かけよう。』と書く。
少しばかり驚きながら「夕方に家を出れば、帰る頃には真っ暗になってしまうよ」と告げれば、彼女は不思議そうにこちらを見上げた。
その「不思議そうな目」があまりにも透き通った色をしていたため、ゲンは思わず息を飲んだ。
間違ったことは言っていない筈なのに、その目には、まるで間違っているのはこちらなのではないかと思わせる、純粋の過ぎた疑念と懐疑の色が宿っていたのだ。

『だいじょうぶ。』

最早、彼の常套句となってしまったその言葉を引き取るように、彼女は平仮名ではっきりとそう綴り、まるで言い聞かせているかのように、瞬きを忘れた目で彼を見上げる。
彼はその、星の降りた夜から目を逸らすことができない。


2016.8.12

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