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私はいつものように、マグマ団のアジトの廊下を駆けていた。足取りは驚く程に軽い。
信じられない言葉を、彼が紡いだあの日、私はきっと一生分の幸せを飲み下してしまったのだろうと錯覚していた。
けれど、不思議な幸福はその後も続いた。
最初こそ、そのことが信じられなかったが、今では受け入れられるようになっていた。

『もし、キミが変わらずに待っていられたなら、キミが望むものを最上の形であげよう。』

彼の言葉を思い出し、笑顔になる。私が笑みを絶やさないのはいつものことだったけれど、きっとその笑顔の違いに、彼は気付くだろう。
見抜かれることが恐ろしいことだと感じていた、少しだけ昔の私に苦笑する。どうしてそんなことを怖がっていたのだろう、と今なら笑える。
私のことを見抜いてくれる人がいることは、こんなにも幸せなことだったのに。

ワープパネルにそっと足を乗せ、彼の部屋に辿り着く。
マツブサさん、と声を上げようとしたその瞬間、私は踏み出した足を床に付けないままに硬直することになる。

「……」

聞き覚えのありすぎるそのメロディは、私が毎日のように、此処で歌っていたものだった。
しかしそれは私のものよりもオクターブ低い。やや遅いテンポで紡がれるその音は、私の鼓膜を優しく揺らした。

『キミの歌を歌うことにしよう。』
『あれを私が諳んじられるようになるまで、キミが毎日欠かさず歌ってくれたなら、そのうち私も歌い出すかもしれないよ。』

マツブサさんが、歌っている。
それは抑揚もビブラートもない、ただ、音階の通りにぎこちなく紡がれる、何の変哲もない歌だった。
几帳面な彼らしく、一音一音の音程は決して狂わせないが、遊び心のない、丁寧な、悪く言えばつまらない歌だったのかもしれない。
下手ではない。しかし決して、上手くもなかった。

なのに、どうしてだろう。

「……マツブサさん」

「なっ……!?」

どうして私は、泣きそうになっているのだろう。

いつかのポケモンバトルで取り乱した、あの時のような狼狽を見せる彼は、きっと気付いていないだろう。
私の笑顔がぎこちないことに、込み上げてくるものを必死に抑えていることに。
だから私は、いつものように陽気に話し掛けることにした。

「歌、もう覚えていてくれたんですね」

「ち、違うんだ。これではなかったのだよ。もう少し、もう少し流暢に歌えるようになるまで聞かせないつもりだったのであって、その、」

私は背を伸ばして、弁明を重ね続ける彼の口元を手で塞いだ。
眼鏡の奥の目が見開かれる。ぎこちなく微笑む私がその瞳に映っている。
暫くの沈黙を置いてから、そっと手を放せば、彼は大きな溜め息を吐いて憂えるようにこちらを見下ろした。

「来ていたのなら先に言いたまえ。盗み聞きとは感心しない」

「ごめんなさい。でも人って、驚き過ぎると言葉も出なくなっちゃうんですよ」

子供らしい、そんな狡い言い訳をして、私はいつものソファに座った。相変わらず、このソファはふわふわですね。そう言って笑う。
彼は呆れたような顔をしてみせたものの、それ以上咎めることをせずに、軽く苦笑した後で書類に視線を落とした。
私はいつものように、プラスルにポフレをあげたり、ポロックを作ったり、それをつまみ食いしたり、ポケモン図鑑を眺めたりしている。
何も、変わらない。いつもの日常だ。それが酷く嬉しかった。

変わってしまうことが恐ろしいと感じていた。いつか、この想いが離れてしまうのではないかと思っていた。
人の想いという、儚いものだけで成り立つこの時間はとても幸福で、しかしそれ故に脆く、恐ろしいものだった。
だからこそ私は、それ以外のものでこの関係を固めてしまいたかった。明日も、1か月先も、1年先も、私はこの人と居られると確信したかったのだ。
そんな子供っぽい幼稚な欲を彼に打ち明けてしまった。

『そう簡単に私の想いは移ろわない。1か月先も、1年先も、キミの存在が意味するところは変わらない。』
彼はそんな私に断言したのだ。「私は変わらない」「何も不安になることはない」と紡いで笑ったのだ。
そして私は彼と、約束を交わした。とても眩しい、約束を交わした。

だからだろうか、と私は思う。
だから、私は今、泣きそうになっていて、マツブサさんは今、優しい声音であの歌を紡いでいるのだろうか。

「マツブサさん」

「なんだね。やはり聞くに堪えない声だったか」

「違いますよ。そうじゃなくて、……一緒に歌ってもいいですか?」

マツブサさんは不思議そうな顔をして、しかし肩を竦めてそれを承諾した。
彼の旋律は私のそれよりもオクターブ低い。同じ歌である筈なのに、まるでコーラスをしているように聞こえる。それが心地良くて私は笑った。
ああ、何も心配することなんかなかったのかもしれない。不安に思うことなど、何一つなかったのかもしれない。

私には、今を抱いてしっかりと前を見据えるための覚悟がある。きっとそれで十分だったのだ。
私は、自分の矮小さを悔いたりしない。狡い自分を、嘘吐きで冗談が得意な自分を嫌ったりしない。

トキちゃん」


そして、彼が私の名前を呼ぶ、その瞬間の限りない幸せを、私は絶対に忘れない。


「明日は日曜だが、予定はあるかね?」

「いいえ、明日も此処に遊びに来ようと思っていましたよ」

それを聞いたマツブサさんは、大人特有の含みのある笑みを浮かべた。
何かを企んでいる時の、狡い大人の笑顔だ。探るように彼を見るが、彼は目を書類に伏せたまま、こちらに目を合わせてはくれない。

「では明日、私に同行してほしい。買わなければならないものがあるのでね」

「荷物持ちですか?喜んで!マツブサさんの為なら段ボール3箱は余裕で持てますから」

いつものテンションでそうまくし立てる。
すると何がおかしかったのか、マツブサさんは声をあげて笑い始めた。
どうしたんですか、と縋るように尋ねてみると、彼は書類から顔を上げて私を見つめた。

「その必要はない。確かにキミに持ってもらう荷物だが、ほんの数グラム程度のものだよ」

「え、そんなに軽いんですか?」

「ああ、とても軽いものだ。もっとも、キミには重すぎるかもしれないがね」

「ば、馬鹿にしないでください!私はスプーンよりも重いものを持ったことのないような、箱入りのお嬢様じゃないんですからね」

彼の言葉の意味するところが解っていなかった私は、それを「お嬢様」である私へのからかいと受け取ってしまった私は、そんな風に言い返した。
片手を上げて「ああ、そうだったな、すまない」と謝罪する彼は、しかしそれでも楽しそうだった。

「ということは、荷物持ちという名のデートですね!わあ、楽しみです!
お気に入りの服と、ヒールの付いたサンダルを出しておかなくちゃ。何処に仕舞ったかな……」

そんな戯言を紡ぎ始めた私は、その荷物の正体を、まだ知らなかったのだけれど。

「楽しそうだね、トキちゃん」

「……はい、とっても!」

彼が私の名前を呼ぶ、その瞬間の限りない幸せを、私は絶対に忘れない。


2014.12.11
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