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マツブサに報告をするため、彼の自室に向かっていたホムラは、そのワープパネルの手前で一人の少女とぶつかってしまった。

「おっと、これは失礼……って、うん?」

赤い服を着てはいるが、それはマグマ団の団服ではなかった。
その赤いバンダナを見て、その人物がホムラもよく知るあの少女であることに気付いた彼は、少しだけ微笑んで挨拶をすることにした。

「これはこれは、チャイルドではないですか。今日もリーダーのところへ通い婚ですかな?」

いつものようにそう冷やかしたが、その直後、それは失言であったことに気付かされてしまう。
ホムラを見上げる少女の、その頬は濡れていたからだ。
これに驚き、ホムラは狼狽え始める。

「な、ど、どうしたというのだ、チャイルド!」

いつだって笑顔を絶やすことのなかったこの少女の、何事も「造作もないことです」などと笑いながら紡いでいた少女の、そんな表情を、ホムラは初めて目にしたのだ。
リーダーマツブサは、この泣き顔を知っているのだろうか。ホムラはそう思案する。
この少女は泣きながら彼の自室を飛び出してきたのだろうか。それとも、ワープパネルに乗って彼の元を去るまで、その涙を堪えていたのだろうか。

「リーダーマツブサと、何かあったのですか?」

「……」

「と、とにかく、此処では人目に付きます。ささ、こちらへ……」

少女の背中をそっと押し、廊下を歩かせる。
さて、どうしたものか。ホムラは眉をひそめて考え込んでいたが、そこに救世主が現れた。

「……ホムラ。ボクの報告書……また勝手に取っていったの……」

「おお、カガリ!これはグッドなタイミングで来てくれましたね!」

「……?何、が……」

不機嫌そうにつかつかとホムラへと歩み寄ったカガリは、しかしそこで、ホムラの隣で泣きじゃくる少女の存在に気付いたらしい。
その紫苑色の目を僅かに見開き、さっと彼女の腕を掴んで歩き出した。
何故か放っておくことができずに、ホムラもそれに続く。それは普段見慣れている少女だから、というのもあるが、そうでなくとも彼は面倒見がいいのだ。
幹部クラスの重役二人に挟まれて歩く、あまりにも有名な少女の姿を目撃した団員達がざわめいたが、カガリが鋭い眼光を向けると一様に静まり返った。


「……どうしたの」

何も言わずに嗚咽を零し続ける少女に痺れを切らしたのか、カガリはぽつりとそう尋ねた。
ものが少ないカガリの自室に、3人分の椅子などある筈もなく、カガリは自分の椅子を少女に譲り、ホムラにサイコソーダを買いに行かせていた。

いつだって毅然と微笑んでいた少女が、こんな風に弱々しく泣いている様子は、ホムラのみならず、カガリにも衝撃を与えていた。
マグマ団の猛攻にも、毅然とした態度で対峙していたこの少女が、一体何を思って泣いているというのだろう。
カガリの中に湧いたのは純粋な興味だった。この少女には、自分のような激情はないと思っていたからだ。
可愛いものにたいして歓喜の悲鳴を上げることはあれど、何かに対して、怒りや悲しみ、苛立ちという負の感情を弾けさせることなど、一度もなかった。
それ故に、今の彼女を理解できずに狼狽えるしかない。

「ごめんなさい」

すると、ようやく少女は口を開く。

「ごめんなさい、カガリさん。悲しくて泣いている訳じゃないんです」

「……なら、どうして?」

「ちょっと、信じられなくて」

少女のそれが、何を指しているのか、カガリには見当がつかなかった。
しかしおそらくは、マツブサと何かあったのだろう。そして今の少女の言葉を信じるなら、彼といさかいがあった訳ではなく、ただ単に少女が狼狽えているだけらしい。
一先ずは安心したものの、カガリは益々興味が沸いた。
この笑顔を絶やすことをしない、気丈な少女を泣かせる程の「信じられないこと」に対する、純粋な興味だった。

「何が……信じられなかったの?」

「……」

「リーダーマツブサの……言葉を、……信じられなかったの?」

少女は涙を手の甲で乱暴に拭い、困ったように肩を竦めて笑い、頷いた。
カガリは首を傾げた。そんな心配は無用であるように感じられたからだ。あの人を疑う要素など何処にもないし、彼が嘘を吐いたことなど一度もない。

「マツブサさんが嘘吐きだってことじゃないんです。きっと問題は私にあるんですね。
もう、大丈夫です。少し、泣きたくなっただけですから」

「リーダーの前、では……泣かなかったの?」

勿論ですよ、と頷いた少女に、カガリはクスリと笑ってみせた。

「泣いたって……リーダーは、キミを嫌いになったりしない」

するとその少女の目が大きく見開かれた。変なの、とカガリは思う。
何十人もの団員で構成されたマグマ団員のアジトに、単身で乗り込んで来たり、伝説のポケモンに一人で立ち向かったり、挙句の果てには宇宙に飛んだり。
そんなことを何もかも、気丈な笑顔でやってのけてしまう、あの勇敢な少女は何処へ行ってしまったというのだろう。
一体、何がこの少女を臆病にしているのだろう。

「リーダーマツブサは……変わった。……キミと出会って、変わった」

「え……」

「リーダーは、変わった自分のことを……好きだし、そうしてくれたキミのことも、……きっと」

カガリは少女の、泣き腫らした赤い目を真っ直ぐに見つめた。
変なの。臆病になる必要なんて、何処にもないのに。マツブサはキミのことが好きで、キミもマツブサのことが好きなんでしょう?
何を、不安になることがあるの?それはとても羨ましいことである筈なのに、どうしてキミは泣いているの?

カガリには少女の全てが不可解だったが、それでもこの少女を嫌いになることはできなかった。
マグマ団の計画を潰したのも彼女なら、再びマグマ団に指針を示してくれたのもまた、彼女なのだ。
それに、マツブサを慕うその気持ちだけは、とてもよく理解できたからだ。

「だから、不安にならなくていいと思う」

すると少女は何を思ったのか、その肩を震わせて笑い始めた。
首を傾げるカガリに、少女はお礼を言ってから、とても楽しそうに紡ぐ。

「カガリさんが、マツブサさんに似ていたから」

「それは当然ですよ、チャイルド。カガリはリーダーマツブサの子供みたいなものですから」

自動販売機で、3人分のサイコソーダを買ってきたホムラが、少女の言葉に被せるようにそう付け足した。
カガリはそれを受け取りながら「……じゃあ、ホムラは何なの」と不機嫌そうに尋ねる。

「ウヒョヒョ!それは勿論、リーダーの弟ですよ!」

「……あんたの姪とか、絶対、嫌」

「な、なんと辛辣な!チャイルドも何とか言ってください!」

とうとう声をあげて笑い出した少女に、ホムラは心から安堵する。
やはり女性の涙を理解できるのは女性なのかもしれない。きっと自分では、こうはいかなかっただろう。
サイコソーダの缶を少女は勢いよく開け、飛び出てきた炭酸の泡に楽しそうな悲鳴をあげた。
ハンカチを取り出す少女に、ホムラは一言、言っておかなければならないことがあったのを思い出した。

「チャイルド、明日も来てください。リーダーはきっと待っていますから」

サイコソーダの缶を握り締め、少女はとても眩しい笑顔を湛えて頷いた。


2014.12.11

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