マツブサは再び彼女をソファに座らせて、さて、この少女が納得できる理屈をどうやって編み出そうかと思考を巡らせていた。
断る理由はない、とは言ったものの、実のところ、それらしき理由なら幾らでも見つかるのだ。
まだ16歳なのに、もっと将来の可能性を広げなくてもよいのか。
キミはいいところのお嬢さんだろう。そんな簡単に属する場所を選んではいけないのではないか。
働くというのは、キミが考えているよりもずっと過酷なのだよ。その覚悟はあるのか。
しかしマツブサは、浮かんできたそれらの「咎め文句」を全て投げ捨てた。
「キミが此処に居ていい理由なら、既にあるだろう」
それは、以前のマツブサなら絶対に口にしなかったであろう、リスクの高い発言であった。
しかし、そのリスクの高い筈の発言を許したのは他でもない少女であり、彼女の嘘や冗談の中に隠された本音であったのだ。
「私はキミに、此処に居ていいことを許可した。キミはいつだって此処に来ていいし、いつまでだって居てもいい。
キミが此処に来てくれることは私も嬉しいし、キミも、何もないこの場所で過ごすことを楽しんでくれているようだ。……この理由では不満かな?」
すると少女は肩を竦めて笑い、マツブサが思ってもいなかったことを紡ぐ。
「でも、「いつか来なくなるかもしれない」って、マツブサさんは思っているんじゃないですか?」
「私が?」
「これはたった16歳の子供のおままごとだって、直ぐに飽きちゃうだろうって。
私はそんな風に思われるのは嫌ですし、そんな風に思っているんだろうなって、確信もないのにそう考えてしまう自分も、嫌です。
だから、居てもいい理由じゃなくて、居なければならない理由が欲しいんです」
その言葉でようやくマツブサは納得する。つまり少女は主導権を自分に譲ろうとしているのだ。
この不可思議な、不安定だと少女が思っている関係を、確固たるものにしたいらしい。
変わることを恐れている。思いが離れてしまい、それが距離の隔絶をも生んでしまうことを案じている。
だからこそ、その終わりを自分ではなく、マツブサに敷いて欲しいと願っているのだ。
今のこの時間は、少女がこの場所に足を運ばなくなった段階で途切れてしまう。
けれども組織に少女が属すると形勢は逆転する。少女はマツブサの訪問客ではなく、正式な部下になるのだ。
才のない部下を切り捨てることも、上に立つ者は時として必要になる。彼女はそうした「終わり」を望んでいるらしい。
感情が生む隔絶ではなく、そうした立場が生む隔絶からの終焉を望んでいるらしい。
そうすれば、この関係が途絶えたのは、双方の想いのせいではなく、自分の才能がなかったからだと諦められる。
感情の絡まない終焉は尾を引かない。それは子供らしい、とても堅実で臆病な防衛の衝動だったのだろう。
終わってほしくないと、おそらく彼女はそう思っているにもかかわらず、終わってしまった時のことまで案じているのだ。
「成る程、キミの言いたいことは解った。だが私はそれを拒ませてもらうよ」
そして、その彼女の衝動を汲むのなら、マツブサはそれを承諾しなければならない筈だった。
しかし彼は拒絶の言葉を紡ぐ。少女はその顔に笑みを湛えて「残念だなあ」と言いながら、その目を僅かに揺らしている。
マツブサはその目を覗き込むようにして、言葉を続けた。
「キミはそれでいいのか?そうした形式的な関係に身を埋めて、それでキミは満足するのか?」
「はい、少なくとも、マツブサさんに会えないよりはずっと幸せですから」
マツブサはとうとう、小さく溜め息を吐いてしまった。
ごめんなさい、と困ったように笑いながらそう紡ぐ、しかしその目は縋るようにこちらを見上げている。
違う、違うのだ。マツブサは少女にそんな顔をさせたかった訳ではない。
この少女はいつだって不可解だ。だからこそ、その深淵を覗こうと思うのなら、躊躇ってはいけない。
それはとても愚直でストレートな、幼子にもできそうな質問の仕方だったが、マツブサにはそうすることしか彼女を理解するための手段を持ち得なかったのだ。
「謙虚にならなくていいから、聞かせてほしい。キミは何を望んでいるんだ?」
すると少女は迷わずに、するりとその言葉を落としてみせた。
「ずっと、マツブサさんと居られること」
「……」
「距離は近ければ近い程、嬉しいけれど、どんな形でもいいんです。
上司と部下でもいい。何だっていい。これから先も、私の毎日の中に貴方が居るっていう確信が欲しい」
マツブサは微笑んだ。
心の中に芽生えた不思議な感情を持て余すように、ソファで隣に座っている少女の肩に腕を回し、その位置から頭をぽんぽんと叩いた。
その謙虚と強欲が入り混じった、彼女の混沌とした、とても素直な願いは、マツブサの口元に弧を描くに十分な温もりを持っていたのだ。
愛しいと、そう微笑むに十分だったのだ。
「……本当は今すぐにでも、キミの不安を取り払ってあげたいのだが。しかしそれには、まだ私達は早すぎると思わないかね?」
虚を衝かれたように固まってしまった少女にマツブサはもう一度笑った。
きっと「早すぎる」に込められた意味を理解しかねているのだろう。
「それ」をあえて明言しなかったマツブサは、少女の理解が追い付かないのも無理もないことだと思い直した。
「キミが望む「保障」の最上を差し出したい気持ちはあるのだよ。ただ、それには私もキミも、過ごした時間がまだ短すぎるし、双方のことを知らなさすぎる」
「……」
「それまで、待っていてくれないか」
それはマツブサが少女に向けた、初めての懇願だった。
提案でも許可でもなく、確かにマツブサは少女にそれを求めたのだ。
少女はその言葉を噛み締めるように、ぎこちなく瞬きを繰り返して沈黙する。
「キミは変わってしまうかもしれないが、私はずっと変わらない。狡い言い方かもしれないが、大人とはそういうものなのだよ。
そう簡単に私の想いは移ろわない。1か月先も、1年先も、キミの存在が意味するところは変わらない」
マツブサは少女の目を真っ直ぐに見据えた。
「もし、キミが変わらずに待っていられたなら、キミが望むものを最上の形であげよう」
彼は確信していたのだ。嘘吐きな少女の、冗談や虚言に埋められた確かな本音を。彼女が本当に望んでいることを。
だからこその発言がそこにあったのだ。
つまるところ、彼はこの少女を、自分より一回り年下のまだ16歳の少女を、強烈な引力を持った笑顔を浮かべるこの少女を。
少女の目は真っ直ぐにマツブサを見上げていたが、その色は僅かに揺れていた。
やがて彼女はその揺れる目をそっと閉じてから、ぱっといつもの笑顔を咲かせ、こんなことを尋ねるのだ。
「マツブサさんは、私のことが好きだったんですか?」
今度はマツブサの方が絶句する番だった。
しかしそれは一瞬で、彼は肩を竦めて得意気に笑ってみせる。
「そういうことは「察する」のが大人というものだよ、トキちゃん」
「でもね、解っていても「言葉にしてほしい」って思ってしまうのが子供というものなんですよ、マツブサさん」
ほう、とマツブサは感心する。この少女はとても饒舌で、口が達者だ。
上手な切り返しをしてみせた少女に敬服して、先程の問いには答えることにしよう。
しかし言葉にすることはしない。そう簡単に口には出さない。何故なら大人はそうした狡い人間だからだ。
「ああ、そうだ。キミの言う通りだよ。だから何も不安になる必要などない。無理に上司と部下の関係を作り上げる必要もない。
ただ、暫くの間は、キミにとっては不安定な時間を続けることになってしまうよ。少し、辛いかもしれないがね」
しかし少女はクスクスと笑い、なんてことはないという風に肩を竦めてみせるのだ。
「いいえ、辛くなんてないですよ。だってマツブサさんが私の不安を奪ってくれるんでしょう?」
少女はその笑顔のままに鼻歌を歌い始めた。マツブサは少女の頭をあやすようにそっと叩いた。
愛しいと、そう微笑むに十分だった。
2014.12.10