5

私が、アクア団について知っていることはとても少ない。
リーダーはアオギリさん。幹部は二人、イズミさんとウシオさんだ。私はこの二人と一度だけ、バトルリゾートで会ったことがある。
彼等は「ポケモンにとっての理想郷を取り戻す」ことを指針としていた。それは、「人類の進化の発展の為に尽力する」というマグマ団の思想と対立するものだった。

人類のために大地を広げ、ポケモンのために海を広げる。
その思想の背景にどんな思いがあったのか、彼等がどのような願いをその思想に込めていたのかを、私は知らない。
だからきっと、彼の憂いの正体を理解できずにいるのは無理もないことだったのだ。
私は彼等のことを知らなかったのだから。彼等の思いに触れる機会を持たなかったのだから。

「簡単には変われねえよ」

実のところ、私は少しだけ、緊張していた。
誰かの思いに触れることは、こんなにも不安を伴うことだったなんて、知らなかったのだ。
砂浜に仰向けになり、両腕を頭の後ろで組み、覇気のない乾いた笑顔で言葉を吐き出す彼の隣に、私は座り込んでいた。
もう陽が傾き始めていた。さわさわと音を立てる小波は夕日の光を映していた。

「オレらが今まで理想としていた世界、愛していたポケモンと共に暮らすことのできたであろう世界の理想形は今も変わらねえ」

私はその言葉に首を傾げた。彼の言葉には強烈な違和感があったからだ。
グラードンが復活し、目覚めのほこらに溜め込まれていたエネルギーがホウエン中に溢れたことで、ポケモンの生態系は少しだけ変わった。
それは3000年前のホウエン地方に、本来生息していたポケモン達の出現だった。新たなポケモンの出現、繁栄により、ホウエン地方は更に賑やかに、豊かになった。
そんな、バランスの取れたホウエンというこの豊かな土地で、暮らすことのできないポケモンがいるという事実は私に衝撃を与えた。
私は思わず彼に詰め寄っていた。

「そのポケモンは、この世界では暮らせないんですか?全てを始まりに返さなければ、生きていけないポケモンだったんですか?」

すると彼は、頭の後ろで組んでいた手を宙に掲げ、右手を開き、左手の指を2本だけ伸ばした。

「七日。あいつはこの世界で七日しか生きられなかった」

私は彼の7本の指から目が離せなかった。呼吸すら忘れていた気がした。突き付けられたあまりの絶望に眩暈がした。
彼はその指をそっと畳み、小さく、本当に小さく息を吐いた。

「勿論、世界を始まりに戻したところで、あいつがもう一度生きられる保証は何処にもねえよ。
だがな、このまま放っておいても、あいつが生きていける世界にはならねえ。世界のバランスが整った今でも、だ。
世界は、確かによくなったんだろうよ。大いに結構、いいんじゃねえの?だがオレは、何も変えられなかった」

「アオギリさん、」


「あいつを生かしてやれなかった」


私は、とても利己的な人間なのだと思う。
彼が私に、自分の思いを話してくれている。悲しい記憶を伝えてくれている。
私はそんな彼に寄り添うべきである筈なのに、私の頭は全く違うことを考えている。どうしてだろう、と、不安になっている。
どうしてだろう。誰よりも苦しいのは他でもない彼の筈なのに、どうして私はこんなにも苦しいのだろう。胸が痛いと感じているのだろう。
これ以上は耐えられない、とまで思ってしまう程に、心臓が締め付けられているのだろう。
彼は、これ以上の痛みをずっと背負って生きてきたのだろうか。

私の心は共感を通り越した、もっと別の何かを抱えていた。
それはとても重たい鉛のように、私の首をゆるゆると締め上げていた。息が詰まった。苦しくなった。

私にとって幸いだったのは、彼が私の顔を見ていなかったということだ。
その黒い瞳は空を見上げていた。陽が沈みつつあるこの砂浜で、彼の目はゆらゆらと、星を探すように泳いだ。

「グラードンを復活させて、世界が危機に瀕しかけた以上、オレらがカイオーガをもし見つけて、復活させたところで、同じような危機が起こるだけだろう。
オレはアクア団のリーダーだ。あいつらを危険な目に遭わせる訳にはいかねえんだ」

「……はい」

「それに1匹のポケモンよりも、大勢の人間やポケモンが暮らしやすい世界になった方がずっといい。それも分かる。
あいつのためなら、他の命がどうなってもいいなんて思わねえよ。
……だが、他の命のために、1匹のポケモンを簡単に諦められる程、オレは出来た人間じゃねえんだ」

私は以前、彼が目覚めのほこらで告げてくれた言葉を思い出していた。
『オレらにゃよ、テメェらガキンチョどもにこの世界を受け継がせていくって義務がある。』
私がずっと忘れられずに、大事に記憶の奥に抱えていたこの素敵な言葉は、きっと、彼が自身に言い聞かせた言葉だったのだ。
あの言葉は子供である私にだけではなく、大人である自身にも向けられていたのだ。

『したくもないこと、苦しいことを、簡単にこなせる人ですか?言いたくもないことを、笑顔で言える人ですか?
そんな自分を、好きでいられる人ですか?』
私が昨日、彼に投げた言葉に、彼は曇りのある表情で首を振った。
彼は大人だ。ましてやアクア団という組織を率いるリーダーだ。彼の選択、彼の言動が、組織に与える影響は限りなく大きい。
トップに立つ者は、自分を慕ってくれる人間を導かなければならない。それが自分の、本当に望んだことでなかったとしても。
自分の置かれた立場が彼を締め上げていた。それでも彼は、組織のため、多くの命が生きる世界のために、彼等を選んだ。
そしてきっと、彼はそんな自分のことが好きではない。

一つの命と、その他の大勢の命を天秤に掛ける。
その結果、一つの命を諦めざるを得なかった彼の心境を、私は完全に理解することはできない。
けれど、彼がどうしようもなく苦しんでいることは解った。どちらを取っても苦しまざるを得ない状況に彼は置かれていたのだ。彼の運命は袋小路になっていた。

その選択は私に、遠い別の地方で起こった大昔の戦争の内容を思い出させた。
思い出して、そして私は、笑顔を作った。

「ありがとう、アオギリさん」

そう紡いだ私の声は、果たして、震えていなかっただろうか。
彼は驚きに目を見開く。私はいつも彼にして貰っているように、彼の頭を乱暴に撫でてみた。
海の水を吸っていた筈のバンダナは、砂浜での日光浴により完全に乾いていた。潮の匂いだけが残っていた。同じ海に溶けた者だけが持つ、磯の香りだった。

「私は貴方の話を聞いて、心臓が押し潰されそうになったけれど、でもそれはきっと、アオギリさんの痛みの僅かにも満たないんだと思います」

彼は苦しんでいた。そんな彼に寄り添うことも、ましてやその苦しみを私が取り除いてあげることもできそうにない。
私は彼に比べて、とても無知で幼くて、幸運な人間だった。
したいことを、何の迷いもなくできる。言いたいことを、はっきりと言える。そこに彼のような苦しいジレンマなど存在しなかった。

私はまだ子供で、私の世界は彼のそれよりもずっと単純な造りをしていたのだ。

だから私は、その単純に構成された世界の中で、私にしか使えない言葉を彼に贈りたかった。
彼と同じ世界を共有してあげられないことに嘆きたくはなかった。
私の世界がこんなにも拙いからこそ、無知で幼い子供で在れるからこそ、できることがあると信じていたかったのだ。

「優しいことを言えなくてごめんなさい。でも私、嬉しかったんです」

私は、笑った。

「私達を選んでくれてありがとう」

彼は目を見開いた。その黒い瞳には、笑っていた筈の私が映っていた。
私は慌てて笑顔を作り直して、もう一度、彼の頭をぎこちなく撫でた。

「私、アオギリさんが選んでくれた世界に相応しい人になります」

「……」

「約束します」

私は小指をぐいと差し出した。彼は笑っていなかった。徐に伸ばされた彼の手に私は自分の小指を絡めた。
そこまでが限界だった。私は一番星を探す振りをして、指を絡めたまま、そっと彼に背を向けた。

私はまだ、子供なのだ。いつでも人に見せられるような顔をしている訳ではない。
その顔が、悔しさとやるせなさに歪んでいたとして、それを彼に見られたくなかったのだとして、それはだって、当然のことではないだろうか?


2015.1.8

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