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トキちゃん、手を出しな」

アオギリさんはそう言って、私の掌に小さな石を乗せた。また新しいシーグラスを見つけたらしい。
私はそれを見て歓声を上げた。淡い赤のシーグラスは、あまりにも綺麗な球体をしていたからだ。
楕円状でもなく、平たくもない、完全な球となっているそのシーグラスが、どんなガラスを元としているのかは私でも予想が付く。

「ビー玉ですね!」

「お、よく解ったな。たまにしか見つからねえレアモノだから、大事に取っとけよ。
オマエが探していたピンクとはちょっと違うが、まあ似たようなモンだろ」

「いいんですか?ありがとうございます!」

海にはビー玉も流れ着くらしい。長い月日を経てその透明な色を失ったそのシーグラスは、しかしそれ故の柔らかな輝きを持っていた。
可愛いなあと呟きながら、私はそれを、着てきた白いパーカーのポケットに入れた。

夏に長袖のパーカーを身に纏った私に「随分と暑苦しい格好じゃねえか」とアオギリさんは笑う。
私は得意気に笑って、そのパーカーを勢いよく脱いだ。今日はこの下に水着を着てきたのだ。
ノースリーブで丈の短いワンピースに見えなくもない水着だが、流石にミナモの町を水着で堂々と歩くことには抵抗があったので、パーカーを羽織って来たのだ。

イッシュに生息する、プルリルというポケモンを模したその水着を、私は見せびらかすようにくるりと一回転してみる。
「どうですか?」と尋ねる私に、アオギリさんは笑いながら「いいんじゃねえの?そのひらひらした布は、泳ぐ時には邪魔になりそうだがな」と返してくれた。

「そういやそんなポケモンを、この辺の海で見かけたな。オレが見たのは青い方だったが」

「あれ、プルリルはホウエン地方にもいるんですね」

「見かけるようになったのは最近だ。ここらの生態系も、随分と変わっちまったな」

プルリルはその性別によって、身体の色が異なるらしい。オスなら水色、メスならピンク色だ。
水タイプとゴーストタイプを併せ持つ彼等は、その可愛らしい外見に反して攻撃的だ。
プルリルに捕まえられ、海底に沈められる人間の事件が、イッシュでは少なからず報告されているらしい。
もっとも、それは人間や他のポケモンが、彼等の縄張りを犯したり、先に攻撃を仕掛けたりした場合の話で、普段はそんなに凶暴なポケモンではない。
ぷかぷかと海面に浮かんだり、泳ぐ人間の隣に並んで漂ったりする可愛いポケモンだ。
……もっとも、私は実際にプルリルを見たことはない。今の知識は全て友達の受け売りだ。

「で、なんでまた水着なんて着てきたんだ。泳ぎたいのか?」

「いいえ、そういう訳じゃありませんよ。昨日のワンピースから潮の匂いが取れなくなっちゃったんです」

水着なら、いくら潮の匂いが付いても問題ありませんよね。
そう付け足した私に彼は笑った。成る程、そういうことかと頷きながら、わしゃわしゃと私の頭を乱暴に撫でる。
この大きな手が、好きだ。始めは突然の衝撃に身構えたりもしたが、今ではすっかり慣れてしまった。

「……まさかとは思うが、泳げねえのか?」

「まさか!泳げない人間が水着を買う訳がないじゃないですか」

すると彼は何を思ったのか、いつもシーグラスを探している砂浜とは逆方向に歩き始めた。
こちらを振り返り、手招きするので、私は駆け足で彼の後を追い掛ける。
ミナモシティの外れにある高台の先、小さな灯台の下に辿り着いた彼は、含みのある笑顔で私の腕を強く引いた。

「どうしたんですか?」

「ほら、下を見てみろよ」

そこはちょっとした崖になっており、深い青が太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
切り立った崖の高さに私は少しだけ怯んだが、直ぐに浅瀬では見ることのできない、その深い海の色に夢中になった。
綺麗ですね。そう紡ごうとした瞬間だった、ふわりと身体が浮く気配がしたのは。
ぐらりと揺れた視界に私は焦った。彼の含み笑いの理由がようやく判明したのだ。一刻も早く彼の腕から脱しなければいけないのだが、彼は私を下ろしてはくれない。

「え、ちょっと、アオギリさん!何を、」

「ほーら、泳いでこい!」

私の身体は宙に投げ出された。
人はあまりの驚きに直面すると、悲鳴をあげる余裕などなくなるらしい。
身体が海面に打ち付けられないようにと、慌てて体制を整え、私は海に飛び込んだ。

「!」

ゴーグルを身に付けていなかったため、開けた目に海水が染みてかなり痛い。
しかしそんな痛みを忘れる程に、海の中はとても青く、澄み渡っていた。私は両手を動かして水を掻き、底へと進んだ。
チョンチーの群れが、より深いところでゆっくりと泳いでいる。海藻の隙間からパールルがチラリと顔を覗かせた。
その中に見慣れないポケモンを見つけた私は、慌てて海面に向かってバタ足を繰り返す。
海の底から太陽を見上げると、海面がゆらゆらと揺れていて、そこに光が差していて、ただそれだけのことなのに、どうしようもなく美しいと感じた。

海面に顔を出し、呼吸を再開する。
呆気に取られた表情のアオギリさんを見上げて、私は波の音に掻き消されないようにと声を張り上げた。

「アオギリさん!プルリルが泳いでいましたよ!」

すると彼はお腹を抱えて盛大に笑い始めた。何かおかしなところがあっただろうか?
海藻でも髪に引っかかっているのだろうかと思い、確認したが、何も付いていない。
「どうしたんですか?」と尋ねれば、彼はその問いに答える代わりに、勢いよく地を蹴って海へと飛び込んできた。

しかしその勢いに反して、海面は彼を拒むように水飛沫を立てることなく、溶けるように彼の身体は海に飲まれ、底へと沈んでいった。
ジュゴンみたいだ、と思った。つい先日、浅瀬の洞穴で見つけたその白いポケモンを彼に重ね、私は沈黙した。
やがて海面に顔を出した彼は、私の額をその指で軽く突き、笑った。

「……確かに、プルリルはいた」

「いたでしょう?可愛いですよね」

「ああ、だがなトキちゃん、その前に言うことがあるんじゃねえのか?オレはオマエを崖からこの海に放り投げたんだぜ?」

そうでしたね、と紡いで私は肩を竦めた。
抱き上げられた瞬間の驚きと焦りは、海に投げ出された途端にぱちんと音を立てて弾けてしまっていた。
私は一度に複数の感情を抱えていられる程、器用な人間ではない。
だから今はただ、彼の人魚のような泳ぎと、とても可愛いプルリルを見たことへの感動を、そっと抱きかかえておきたかったのだ。

「少しびっくりしましたが、私は泳げるから何の問題もありませんよ」

「流石だな、やるじゃねえか」

「当然です、山に登ったり海に潜ったりすることなんて、私にとっては造作もないんですから」

彼は私の、海に濡れた頭をいつものように撫でた。水を含んでいる分、少しだけその手が重く感じた。
はにかむように笑いながらその手にそっと触れると、彼は肩を竦めてとんでもないことを呟く。

「オマエ、人魚みてえに泳ぐのな」

それは、私の言葉だった筈なのに。

その瞬間、私はあらん限りの力を振り絞って、手元の海水を思い切り彼の方へと弾き飛ばした。
突然の奇襲に彼はむせ返る。私はくるりと背を向けて一目散に浅瀬へと泳いだ。
信じられない、と思う。恥ずかしいことを言わないで、と願う。どうして私と同じことを思ったのかしら、と迷う。
しかし、その「信じられなくて、恥ずかしい、私と同じこと」に、他でもない私が動揺しているのだからこれはもう、誤魔化しようがない。
だからせめて、それを悟られないようにと必死に逃げた。

しかしいくら彼が私の泳ぎを褒めてくれたからといって、私のスピードが彼のそれに敵う筈がない。
直ぐに腕を掴まれ、引き留められた。男性らしいがっしりとした腕に肩を抱かれ、くるりと向きを変えられてしまった。

「太陽のせいです!」

「は?」

何を言っているんだ、と怪訝な顔をする彼に見えないように、私は片手で顔を隠して笑った。

「顔が赤く見えたのだとしたら、それはきっと、太陽のせいです」


2015.1.8

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