1

ミナモシティの浜辺に、彼がいた。
筋肉質な高い背を、少しだけ曲げて歩いている。猫背なのかとも思ったが、どうやら砂浜を凝視しているようだ。
アクセサリとして首から下げられた大きなイカリのチェーンが、太陽の光を反射する。それは現象以上の眩さをもってして私の目に突き刺さった。
つまるところ、きっと私はこの光を待っていたのだろう。眩しい彼のイカリが私の目を刺す瞬間を、きっと待ち望んでいたのだろう。

彼が属する、アクア団のアジトの場所を私は知らなかった。
おそらくこのホウエンの何処かにあるのだろうとは思っていたが、結局のところ、最後まで私がアクア団と対峙することはなかったのだ。

マツブサさん率いるマグマ団の人達とは、連日の騒動を通じて随分親しくなったように感じられていた。
ミナモの傍にあるアジトに行けば歓迎されるし、マツブサさんはようやく私の名前を呼んでくれるようになった。
カガリさんも、私に対して憎しみを込めた視線を向けることはなくなっていた。ぽつりと交わされる挨拶が、とても嬉しかったことを覚えている。
彼等は新しい道に向かって進み始めようとしていた。私はそのことに酷く安堵していた。
マグマ団とのわだかまりは解消された。そして、その時になってようやく私は、対峙することのなかった、もう一つの組織に思いを馳せることができたのだ。

大人の代表として私に謝罪の言葉を紡ぎ、子供である私達に受け継がせる世界を作っていくのが大人の役目だと断言して笑った、彼のその後がどうしても気になっていた。
バトルリゾートの甲板で一度だけ再会したが、それ以降は全く顔を合わせることができなかったのだ。
バトルハウスを勝ち抜いていれば、いつかは会えるかもしれない。
そう思い、何度か挑戦してみたが、私のバトルセンスではポケモン達に思うように連勝を重ねさせてあげることができなかった。

『オレらにゃよ、テメェらガキンチョどもにこの世界を受け継がせていくって義務がある。
だがその世界ってのが結局のところ、どんなシロモノなのか、先ずはそいつをオレたち自身で見定めないとどうにもなんねぇ。
みんなで一緒になって作り出せるモンなのか、それともやっぱりぶつかり合って、争い合って手に入れていくモンなのか、まー先ずはゆっくり考えてみるわ。
アクア団もマグマ団も関係なく、オレたち全員でな。』

私は砂浜を蹴って駆け出した。彼は近付いてくる足音にも反応を見せず、ただゆっくりと砂浜を歩き続けていた。
柔らかな砂に足を取られそうになりながら、私は更に前へと進んだ。転ぶことも厭わなかった。一歩の躊躇ですら惜しいと感じた。
探している時には見つけられないのに、どうしてこんな、何でもない時に限って望んだ人は現れるのだろう。
もしかしたら、誰かに会いたいと思ったら、その人を決して探してはいけないのかもしれない。
そんな在り得ない仮説を立てて笑った。そして、私の心臓は少しだけ跳ねた。

ああ、そうか。私は彼に会いたかったのだ。どうしても、会いたかったのだ。
彼は今、どうしているのだろう。その疑問は私の中で膨らみ続けていた。私は私の中の願望を持て余していた。
彼に会いたいという、素直で愚直なその思いを、抱えきれない程に膨らんでしまったその思いを、私は引きずっていた。

「アオギリさん!」

パチン、と大きな音を立てて、その思いが弾けた気がしたのだ。

振り向いた彼に私は飛びついた。突然のタックルを受け止めきれなかったのか、彼は砂浜にひっくり返る。
その黒い目が大きく見開かれる。私は倒れた彼の両肩に手を添えて、彼の顔の上で笑ってみせる。

「アオギリさん、こんにちは!」

「!」

「私のこと、覚えていますか?」

努めて朗らかに私はそう話し掛けた。ぱっと咲かせた笑顔を曇らせないようにと頬を硬直させた。
覚えていないと言われるだろうか。
そうだとしてもおかしくはない距離だったと自覚していた。マツブサさんならまだしも、私はこの人と、数える程しか顔を合わせていない。
ましてや彼は、私の名前など知らないかもしれない。マグマ団を止めようと走り回っていた子供。そんな覚え方しかされていないのかもしれない。
仮に「誰だっけ、覚えてねえや」と言われたとして、しかし私は「酷いなあ、アオギリさん」と、この笑顔のままに紡がなければならないのだ。
憤ったり、落胆したり、ましてやショックを受けたり、寂しい気持ちになったりすることは、許されていないように感じられたのだ。
そうした距離に私達はいなかった。これは私の一方的な思いだった。

だから、無邪気にも彼に飛びつき、笑顔で挨拶の言葉を投げてみせたのは、ある種の防衛手段だったのかもしれない。
いつもの私が、いつものように纏った装甲だったのかもしれない。もっとも、それはいつものそれよりも酷く頑丈に作られていたのだけれど。
彼に忘れられていたことを認知した瞬間のショックが、何よりも大きなものだと、私が自覚していたからこそ纏えた装甲だったのだけれど。

しかし彼は、そんな装甲は不要だと言わんばかりの笑顔で、笑いながら私のバンダナをくいと引っ張る。

「誰かと思ったらトキちゃんじゃねえか」

忘れられているだろうと思っていた、その人は、弾むように朗らかな声音で私の名前を呼んだ。

「元気だったか?」

衣服と合体した手袋から、唯一覗いた親指には、小さな切り傷が沢山付いていた。私はそれを目で追う。何故か不自然に心臓が大きく跳ねた。
はい、と笑顔のままに返事をする。錆びた装甲はぼろぼろと剥がれ落ちてしまった。

彼は身軽な動作で起き上がり、身体に付いた砂を軽く手で払った。
大きな手で私の頭を乱暴に撫でた彼は、一瞬だけその視線を泳がせる。浮かんだ疑問は、しかし次の瞬間にはいつもの笑顔を浮かべる彼に消し去られていた。

「今日はお仕事、お休みですか?」

「休みなんてあるかよ。組織の軌道修正、新たな指針の構築、それに伴う業務の追加、役割の再振り分け……。とにかく、大人は忙しいんだ」

「あら、それじゃあどうしてこんなところで油を売っているんですか?」

「……そんな大人も、たまにはサボりたくなるんだよ。悪いか」

バツの悪そうな顔で、彼は笑いながら肩を竦める。私もそれに釣られるようにして笑った。
大きく引いてきた波が足元を濡らした。夏の海は冷たくはなかったが、身を焦がすような暑さの割にはまだ温かくなっていないように感じられる。
海水の温度は、地上の気温の推移よりも2か月程遅れているのだと、博識な友人が言っていた言葉を思い出した。
彼は私の足元を見て少しだけ驚き、顔をしかめる。

「おいおい、そんな上品な靴で砂浜になんか入ってくるなよ。……で、何だ?その格好は」

「ミナモデパートでショッピングをしていたんです。気に入った靴があったので、そのまま履いてきました。あ、この服もそこで買ったんですよ」

私はいつもの、ノースリーブにショートパンツの赤い服を着てはいなかった。
桜色のワンピースに、少しだけヒールのある茶色いパンプス。ノースリーブで丈も長すぎないこの服は、まさに今のような夏に相応しい格好だと思った。
たまには草むらを分け入ったり山道を歩いたり海に潜ったりすることを忘れて、町をのんびり歩いてみよう。
そう思っていた矢先に、彼を見つけてしまった。いつもと違う格好に少しだけ恥ずかしくなる。心臓が再び不自然な揺れを刻んだ。
そんな内心を悟られないように、私は片足を上げて靴を見せる。

「可愛いでしょう?キャメルと迷ったんですが、茶色の方が汎用性に長けていると思って」

「……まあ、いいんじゃねえの?歩きにくそうだな、としかオレには解らないけどな」

「ヒールの付いた靴は乙女の嗜みですよ」

すると彼は何を思ったのか、その長身を折り曲げて私を凝視した。
思っていたよりも近距離で見つめられ、私は自分の頬が赤くなっていないだろうかと不安になる。
しかしそれを表情に出すことはせずに、あくまでも普通に「どうしたんですか?」と笑いかけてみる。

「……オマエ、明日も此処に来いよ」

「いいですよ。何かあるんですか?」

「ああ、オレが此処で油を売っている」

その言葉に私は思わず笑ってしまった。仮面としての笑顔ではなく、本心からのものだった。
まるで「オレに会いに来い」と言われているみたいだ。事実、そうなのだろう。
しかしそれを口に出して指摘してしまえば、折角交わされた再会の約束を取り消されてしまうかもしれない。
だから私は、肩を震わせながら頷くことを選んだ。

こうして私達は再び出会ったのだ。


2015.1.7

© 2024 雨袱紗