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翌日、私は昨日の約束通りに、ミナモシティの砂浜にやって来ていた。
買ったばかりのワンピースをもう一度身に纏い、パンプスではなくサンダルを履いてアスファルトを蹴った。
砂浜に入ると、私は徐にサンダルを脱ぎ捨てた。燃えるように熱い砂を、強く踏みしだいて足跡を付けた。
それは衝動に身を任せた結果なのか、弾む気持ちをこんなところでコントロールしておこうとしたが故の行動だったのか。

歩幅を大きくしたり、小さくしたり、大きく曲がったりしながら、時折振り返って、自分が作った芸術を堪能した。
広大なキャンバスに、筆を叩き付けているような気分だ。私は満足気に頷いて歩みを進めた。
きっと、作品が完成した芸術家の気分は、こんな感じなのだろう。絵画の経験など無いに等しいけれど、その満足感を想像することは難しくなかった。

そういえば、私の友達も、絵を描くのが好きだと言っていた。キャンバスを必要とするような油絵ではなく、水彩画を得意としているらしい。
水彩色鉛筆なるものを愛用していて、これさえあれば何処でも絵が描けるのだと笑っていた。
読書も好きで、知識に貪欲な彼女はとても多趣味だ。料理もできるし、裁縫も嗜み程度には身に付けているらしい。彼女には限界がないのだろうか。
それだけありとあらゆるものに手を出していれば、そのうち疲れ果てて全部投げ出したくなりそうなものだけれど。
しかし絵画以外のそれらの「趣味」が、本当の意味での趣味ではなく、彼女がその時々の必要に迫られて身に付けたものであることを、私はまだ、知らなかった。

「何を探しているんですか?」

砂浜の真ん中で、昨日のようにやや猫背になっている彼の背中をポンと叩き、話し掛ける。
振り返り、昨日のように笑ってくれた彼は、特徴的な服のポケットから小さな丸い石を2つ取り出した。

「これ、何だか分かるか?」

「石、ですか?……あ、でも透明ですね」

一つは淡い緑色をしていて、もう一つはぼんやりとした白のようだ。平たい石のようにも見えるそれを、私は凝視する。
この綺麗な石を、彼は探していたのだろうか。

「これはな、シーグラスだ」

「シーグラス?」

「元は割れたガラスの破片だ。それが長い間、海の中で流されていくうちに、割れたところの角が取れてこんな風に丸っこくなる。
荒波に揉まれて角が無くなるのは、自然も人間も同じってことだな」

俗世の忙しない空気に疲れ果てたサラリーマンのようなことを言って彼は豪快に笑った。
私はその、曇りガラスのような白いシーグラスをじっと見つめた。砂浜に紛れていれば、ただの小石にしか見えないそれを、彼は慎重に探していたという。
シーグラスの収集家なのだろうか。そう尋ねてみたかったが、それより先に私は別の言葉を紡いでいた。

「私も欲しいです。一緒に探してもいいですか?」

彼は少しだけ驚いた顔を見せた。
「あ、別にアオギリさんが見つけたものを奪おうとしている訳じゃありませんよ」と慌てて付け足した私に、彼は笑いながら「そうじゃねえよ」と否定してくれる。

「オマエみたいなお嬢さんに、こんなゴミみてえなコレクションは似合わねえだろ」

「どうして?そんなことありません。幾つか拾って小瓶に詰めたら、とっても可愛いと思うんです」

「……まあ、オレに止める権利はねえわな」

好きにしな、と呟かれたその言葉に頷き、私は彼がするように、砂浜をゆっくりと歩いて回った。
砂浜の中には、波打ちの関係か、小石が打ち寄せられているポイントがある。彼に倣って私もそうした場所に歩みを進めた。
太陽の光を反射する白い砂浜は、じっと見続けていると目が眩んでしまう程の眩しさだ。
私はその光の中に埋もれた淡い色のガラスを探しながら、時折、隣を歩く彼をそっと盗み見た。
私よりも遥かに長身で、足も長い筈の彼が、本当に小さな歩幅で砂浜を歩き、真剣な表情でシーグラスを探している。
その姿は、男性に対して相応しくない感情を私に抱かせた。子供みたいだ、なんて。可愛いかもしれない、なんて。

この、私よりも年上である男性は、もしかしたら、私よりも純粋で無垢なのかもしれない。
粗暴な言葉遣いで相手を圧倒し、威圧感を与えることを得意としているにもかかわらず、その本質はとても繊細で穏やかなのかもしれない。
アクア団のリーダーとしての彼の顔は完全に影を潜めていた。
アオギリさん本来の姿をこの目に焼き付けて、私が抱いたその感情は、今までの彼にとても不釣り合いで、けれどだからこそ愛しいのだと、私は何故か知っていた。

「ピンク色のシーグラスとか、ありますか?」

「ピンクなあ……。無くはないが、見つけるのは骨が折れるかもな。
元々のガラスの色でシーグラスの色も決まるんだ。だから白いガラスや、ジュース瓶の茶色いガラスなんかは、割と見つけやすい。
何に使われていたのかは知らねえが、青いシーグラスもよく見かけるな」

「あ、海が色を付けてくれる訳じゃないんですね」

私は苦笑した。彼が持っていたエメラルドグリーンのガラスは、海の中で透明なガラスに色が付いたものだと思っていたからだ。
科学が得意な人間なら、そんなことはあり得ないと一笑に付されるだろう。無学な私は馬鹿にされたのだろう。しかし彼はそうしなかった。
代わりに「面白いことを言うじゃねえか」と笑って、私の頭を乱暴に撫でた。

「オレも最初はそう思っていたさ。海からの贈り物だとか言って、一人ではしゃいでいやがった。
だが大人になって、これがガラスの破片、所謂ゴミだと理解しても、たまにこうして、集めに出かけちまう。
綺麗なものは綺麗なままだ。それは大人になっても変わらねえ」

私は息を飲んだ。彼は隣を歩いていた私の足が不自然に止まったことを怪訝に思ったらしい。少し進んだところで振り返り、「どうした?」と尋ねてくれる。
何でもありません、といつものように笑って誤魔化すことは簡単にできた筈なのに、私の顔は笑顔を作ってはくれなかった。
けれど、足を止めてしまった理由を彼に説明するだけの語彙力を私は持ち合わせていなかったし、何より、私も解らなかった。
彼のその言葉を聞いた瞬間、私の中に駆け巡った言いようのない感情を、表現するための言葉を私はまだ、知らなかった。
それに近しい単語を、私の頭は即座に弾き出したけれど、それはどう考えても間違っていると思った。
大の大人に対して、ましてやほんの数回顔を合わせただけの相手に対して抱く感情にしては、あまりにも飛躍しすぎているように感じられたのだ。

「アオギリさんの言葉、素敵ですね」

だから私は、自分の感情を保留にしておくことを選んだ。まだ、結論を急ぐ時ではないと思ったのだ。
きっと彼とは、また会える。一度交わされた再会の約束を、もう一度交わすことは驚く程に容易い。
だから、焦らなくてもいい。

「いきなりどうした。世辞ならいらねえよ」

「いいえ、本心です。アオギリさんの言葉、好きですよ」

照れくさそうに肩を竦めて苦笑した彼に、私は紡いだ。紡いだ後から、その言葉はストンと私の胸に落ちていった。
この人の言葉は、とても綺麗だ。粗暴な喋り方をするにもかかわらず、紡がれる内容はとても繊細で、慈愛に満ちていた。
だからなのだろう。彼の粗暴さと豪胆さはある種の装甲なのかもしれないと思い始めていたのは。たった数回しか会っていない彼の言葉を、ずっと忘れられずにいたのは。

『オレらにゃよ、テメェらガキンチョどもにこの世界を受け継がせていくって義務がある。』
あの日の言葉が脳裏で静かに音を立てていた。

「……」

しかし、私は沈黙する。
夏の日差しを隔てた向こう側にいる彼が、その陽に焼けた肌を不自然に赤くしていたからだ。
私が口を開こうとした途端、彼は先程よりも更に強い力で私の頭を撫でる。彼らしい、海の匂いが鼻を掠めた。
そして私は、先程までの仮説を確信へと変える。

トキちゃん、そういうのはな、本当に大事な奴に言ってやれ。こんなおっさんじゃなくて、他の誰かにな」

その「誰か」が貴方かもしれないと、言えば彼は驚くだろうか。


2015.1.7

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