3

(Everyone was sorry.)

その日、同じ木の下で待っていてくれた彼は、そのまま私を連れて東に広がる湿地を抜け、アールナインへと足を運んだ。

「流石に雪の降る街で話し込むと冷えるだろう」

そう告げた彼はしかし、寒さに顔色一つ変えず、眉さえ動かしていないように見えた。
確認するように「ダークさん、寒がりですか?」と尋ねた私に振り返った彼の口から、呆れたように「お前がだ」と紡がれてしまい、私はあまりの驚きに絶句するしかなかった。

その強すぎる衝撃は、きっと歓喜に似ていたのだろう。
居るか居ないか解らないような彼、その、一向に紐解くこと、覗き込むことの叶わない心を、少しでも私に砕いてくれたことが嬉しくて堪らなかった。
ただの償いの筈だった。そして感謝のために彼等との時間を重ねていたつもりだった。けれど最近は、私が彼から沢山のものを貰い過ぎている気がする。

彼と毎日、顔を合わせるようになって10日が経った。
最初の頃は沈黙の中に落とされた少しの言葉で終わっていた時間が、10分、20分と長くなり、ついにはセッカシティのポケモンセンターで小一時間寛ぐようにまでなった。

彼は決して饒舌ではなかったが、私の拙い言葉を拾ってくれる。拾い上げてまた返してくれる。
そうした会話を繰り返し、ふと訪れる沈黙の折に、彼は必ず席を立つ。自動販売機を眺めたり、ショップの商品を吟味したり、あるいは何もせずに辺りを歩き回ったりしている。
自分から口を開くことは滅多にないのに、彼はこの手の沈黙が苦手らしかった。
会話と会話の間にある、言葉のない時間。それを甘受することはどうにも彼にとって難しいようだった。
そんな不器用さが、どこまでも人間らしくない様相を呈する彼を唯一、人間たらしめていた。

「何を買うんですか?」

「防寒具だ」

けれど彼が「人間である」ということを知らしめる事象は、私が注意さえ向ければ至る所にあって、
今回の「防寒具」を必要とすることが分かる発言にだって、彼が人間であることを証明するための全てが揃っているように思われた。
人間らしい部分と、人間らしくない部分。彼の場合、そのコントラストがあまりにも痛々しい。だから私は時折はっと息を飲む。そして居た堪れなくなる。
そうして悲しい顔をする私を、彼はただ黙って、少しばかり不思議そうに見ているのだ。

エスカレーターに乗り、隣の酷く白くて端正な横顔を盗み見る。こうして見るとやはり、おおよそ彼は人間めいていない。
顔の美しい造りも、短すぎる睡眠時間も、桁外れの身体能力も、全て私の持ち得ないものだった。
そんなものを備えていない私は、何も持っていない私は、せめて私との時間を割いてくれる彼に報いたくて、探し始めた彼の特徴を並べて「彼」を認識する。

「……貴方が連れているポケモンはキリキザンと、それから、アブソル」

「!」

「貴方の一人称は「私」」

甘いものが嫌い。沈黙が嫌い。でも私の言葉に応えてくれる。ジュースは飲まない。けれど私が飲み終えた缶をゴミ箱に投げ入れるのはとても得意。
私のところに毎日、姿を見せてくれるダークさん。その特徴を羅列する。
もう一人のダークさんでも、またもう一人のダークさんでもない、目の前の彼を脳裏に焼き付けてみる。

「ダークさんが三人黙って並んでいたら、私は貴方を見つけられるでしょうか?」

私は、他の誰でもない彼をそこに存在させることができるだろうか。

「名前が同じだから、余計に複雑ですね」

「複雑……?」

「だって、見分け難いじゃないですか」

見分けられないとは言わない。何気ないその言葉には私は自分の希望を込めていた。
たとえ彼等が同じ服を身に纏っていたとしても、同じ名前だったとしても、
「ダークさん」と呼べば彼等が一度に一様に返事をしたとしても、私は彼等の中から他の誰でもない「貴方」を、そして彼等一人一人を見抜きたかった。
見抜かなければいけない、などと言うつもりはないけれど、見抜きたかったのだ。それが「人間らしい」彼の姿であると信じていた。
しかしそうした私の希望を、彼の淡々とした言葉は実に呆気なく打ち砕いた。

「見分ける必要などない」

私の足は止まっていた。買い物客で賑わう人混みの中、私だけがその波に逆らうように動きを停止していた。
そうでもしていないと溺れてしまいそうだったからだ。足元からじわじわと波打ち渦を巻き始めた戦慄、憤慨、絶望、そうした何もかもに呼吸を奪われそうだったからだ。
膝の裏を渡り、背を舐めるように肩まで浸食するそれにただ恐ろしくなる。
溺れる、と思った。

おそらく私の息を止めた最後の一滴があるとすれば、それは彼の次の一言だったのだろう。

「ゲーチス様はそう判断なされた」

だからそれが正しいのだろうと呟く彼の目が見開かれる。息が詰まる。
「やめて」と告げた声は恐ろしい程に震えていて、上手く息ができなくなって、強く吸い込んだそれはひゅうと弱々しい掠れた音を立てた。

「やめてください」

「……どうした」

そうして彼が伸べた手を振り払った。ぱちん、と大きな音がして、周りの人の視線が私と彼とに集まった。
羞恥に顔を赤くする余裕さえなかった。絶望が他の感情を悉く塗り潰していたのだ。
もしこの絶望があと少し静かなものであったなら、おそらく代わりに私を支配したのは「憤怒」だったのだろう。
どうしてそんなことを言うんですかと、彼の端正な顔に平手打ちさえしたかもしれない。
そんなことに何の意味もない、私が力任せに訴えたところで何も変わらないのだと、解っていながら、止められなかったのだろう。
けれど幸か不幸か、今の私にはそうした憤るための力さえ残っていなかったのだ。

「やめてください、ダークさん」

変えることができると信じていた。悉く人間らしくない彼は人間らしくなることだってできるのだと、私はその手助けがきっとできるのだと、思い上がっていた。
その自信は無謀に変わり、暴走する。誰かを変えたいと躍起になる。
ただの意見の押し付けに成り下がった歪な希望によって、コミュニケーションは崩壊する。
そんなことは許されないと、今の私はよく解っている。

『見分ける必要などない。』

あの人がそう判断した。ならばそれは彼にとっての真実なのだろう。
そんなことを言わないでと乱暴に手を上げることなど勿論間違っているし、
この絶望に任せて「やめてください」と、「そんなことを言わないでください」と懇願するのも、おそらくは正しくないのだろう。
すなわちどう足掻いたところで、私は彼の心に響かせるべき言葉を何も用意することができなかったのだ。私では無理だ。届かない。紐解けない。貴方を呼べない。

勢い良く手を振り払われたことに茫然としていた彼は、しかしもう一度私の腕を取り、人の波から外れたところへと移動した。
ベンチに私を座らせて、いつものように一人分の空白を作って隣へと座った。
自分の矮小さが悔しかった。どうして、と動かした口はしかし音を紡がなかった。

どうして貴方は、貴方たちは、そんなにも悲しいの。

「ごめんなさい」

そう問い詰める代わりに、私は困ったように笑って謝罪の言葉を紡いだ。
貴方を変えられるなどと思い上がってごめんなさい。相容れない世界に勝手に憤ったりしてごめんなさい。貴方の価値観を尊重してあげられなくてごめんなさい。
それでも尚、貴方を他の誰でもない貴方だと認識したくて躍起になって、駄々を捏ねるように振る舞おうとしている私で、本当にごめんなさい。

「私には、」

ふと、私の頭に手が乗った。彼だ、彼の手だ。
おおよそ人間らしくない彼の、その手は冷たく温かい。

「お前が謝る必要など、ないように思える。私に痛みなどないのだから」

その声は温かく冷たい。


2012.11.30
2016.3.17(修正)
(誰もが心苦しがっていた。)

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