2

(Happiness does not depend on external circumstances.)

見つけた!いつもの高台ではなく、高く伸びる木の下で彼は待っていた。
「ダークさん」と呼べば、彼は直ぐに私をその視界に収め、こちらへと歩を進めてくれた。

彼は約束を破るような人ではないのだろうと思った。彼を疑う気持ちは更々なかった。
「月が変われば相手をしてやる」という言葉を、彼等が守らなかったことなどただの一度だってなかったからだ。
しかしそれでも、どうしても「明日」を疑ってしまいそうになる自分がいたのだ。

存在する、そこに居る、という言葉から、彼等は悉く遠い位置に在るように思える。
居るのか居ないのか解らない。ずっと前から居たかのように、何もなかった筈の場所にそっと現れ、さっきまで存在していたのが嘘のように忽然と消えてしまう。
「そこ」に彼等が居たとして、私は見つけられないのかもしれなかった。居ることにすら気付かずに通り過ぎてしまうのかもと恐れていた。

けれど私の目は彼を見つけた。そして彼の目にもおそらく、私が映っているのだろう。
深い闇色の目に私の姿を見つけることは、まだ、難しいのだけれど。
そんな風に彼の目を凝視するのは、まだ少しばかり気恥ずかしく、失礼な行為のように思われたからなのだけれど。

「こんにちは」

「……ああ」

彼は、此処に居る。そんな当たり前のことを何度も繰り返した。
彼が「一人だけ」で私の前に現れているという事実も、少しばかり私を落ち着かなくさせた。
「ダークトリニティ」としてではなく、一人の「ダークさん」と、バトル以外でこうして向き合うのは、初めてだったからだ。

「寒くはないか」と尋ねられたので、「大丈夫です」と返せば、彼はそのまま木の根元に腰を下ろした。
私も隣に座っていいのだろうかと迷いつつ、一人分くらいの空白を置いてそっと座った。
木の幹の凸凹を背中に受けながら、さて彼に何を尋ねようかと迷っていると、意外なことに彼の方から迷いなく言葉が紡がれてしまった。

「お前のポケモンは幸せそうだ」

「え、……どうしてですか?」

「お前がそれを聞くのか。それは私の台詞だ」

素早い切り返しに思わず苦笑してしまった。
ああ、こんな風に話をすることができる人なのかと、彼だって大人なのだから当然なのだけれど、そんな「当然」のことを噛み締めるようにもう一度笑った。
私の頭の回転はおそらく、鈍くなっていたのだろう。
それは寒さのせいなのか、それとも彼とただ会話をすることへの緊張のせいなのか。おそらく、どちらも正しいのだろう。寒さも緊張も一様に判断を鈍らせるから。

二人の間に生まれた空気を、吐き出した息で白く染めた。鈍くなった頭を必死に働かせて、彼の言葉の意味を、その言葉を他でもない彼が紡ぐ意味を、考えていた。

ポケモンが泣こうが、勝とうが負けようが私達に痛みはない、負ければ次のポケモンを使うだけだ。
そう言い放った彼の口から、そんな言葉が出て来たことに、おそらく私は驚いて然るべきだったのだろう。
そして、そんな彼が「幸せ」という言葉を使い私のポケモンを評価したことに、私はある種の希望を見るべきだったのだ。
彼が、もしかしたらポケモンを大事にしようとしているのかもしれない、私と同じ形のポケモントレーナーになろうとしているのかもしれないという希望。
それが、彼のその言葉には込められていたのだろう。

「……せめて、傷付けないであげてください」

長い時間をかけてそれらを導き出すことに成功した私の口は、そんな言葉をぎこちなく綴った。

「向き合う余裕はないかもしれないけど、せめて傷付けないであげて。見捨てないであげて。
そうしたら、彼等は待ってくれます」

ポケモン達は残酷なまでに優しい。裏切ろうとも傷付けようとも、最後まで私達を見続けてくれる。
それに応えなければいけないなんて、そんなことを言うつもりはない。第三者が諭したところで当人にその心がなければどうにもならない。何も変わらない。
彼等の考えを変えるものがあるとすれば、それは私の言葉ではなく、待ってくれるポケモン達の姿だと知っていた。

「あ、そうだ。近くの自動販売機で飲み物を買って来たんですよ。よかったらどうぞ」

私は鞄からまだ温かいそれを出して、彼に放り投げた。当然のように片手で難なく受け取った彼は、しかしその「ココア」と書かれた缶を見て首を傾げる。
暫くの沈黙が降りた。私はその沈黙が何を意味しているのか分からずに、首を傾げた。
もしかしたら甘いものは嫌いなのかもしれない。そう思ったけれど、彼は特に苦言を呈することなく、缶のノブを開け、躊躇いがちに口を付けた。
ああ、よかった。嫌いということではなかったのだ。けれどそう安堵した瞬間、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしてそれを突き返して来た。

「飲めない」

そんな悲惨な顔で言わなくてもいいのに、と苦笑しながら受け取り、「甘いの、苦手だったんですね。ごめんなさい」と謝罪した。
背格好からして私よりも随分と年上の人なのだろうから、こんな甘い飲み物ではなく、コーヒーを選ぶべきだったのだろう。自分の失敗が恥ずかしかった。
けれど甘いものが嫌いなのであれば、飲む前に私に付き返してくれてもよかったのにと思い、
もしかしたら彼なりに、飲み物を差し出した私の厚意を無為にしないための一口だったのかもしれないと深読みして笑った。
そんな少しばかりの律儀さが微笑ましかった。彼のことを何も知らない私が、その時の彼の真実に辿り着くことなど、できる筈がなかったのだ。

一口分しか減っていないココアを手で持ち、少しずつ飲んだ。ふう、と息で冷やす度に、缶の中で空気が循環し小さく笛のような音が鳴るのがどうにも楽しかった。
甘ったるいそれに欠伸が出る。日溜まりの中に居る心地がする。けれどそうした私の反応を、ダークさんは怪訝そうに見ていた。

「眠いのか」

「いえ、寝不足という訳じゃないんですよ。昨日もちゃんと7時間眠りましたから」

その言葉に彼は不自然な瞬きをする。何かおかしい所があっただろうか。
寝過ぎだと呆れられるか、それで何故欠伸が出るんだと馬鹿にされるかだと思っていただけに、彼のそのどちらでもない反応は私を少しばかり驚かせた。
その目に戸惑いの色を見つけた私は、恐る恐る尋ねてみた。彼等の「常識」と、私のそれとは大きく異なっているのかもしれないと、思ったが故の質問だった。

「ダークさん、眠らないんですか?」

「いや、二日に一回は寝るようにしている」

疑問は確信に変わり、大きすぎる衝撃を私に与えた。
だって「二日に一回は眠る」というのはつまり、一日置きに徹夜をしているということになる。
それは私の尺度では「眠っている」とは言わない。私ならそんな生活、一週間ともたないだろう。
以前から彼等の人並み外れた身体能力を見ていた私は、彼等の日常生活について、多少のことでは驚かない自信があったのだけれど、これはあまりにも衝撃的だった。
深く大きく敷かれた隔絶に愕然とする他になかった。

「な、何をしているんですか?」

「ゲーチス様をお守りしている」

彼から紡がれたその名前に背筋が凍る。ああ、そうだった。彼はゲーチスさんの部下、忠実な彼の僕だったのだ。
毎月、この町で私を待っているのだって、彼の心を取り戻すためだったのだ。いつだって彼の行動の背後にはあの人がいた。
そしてその言葉に、恐怖とは違う、しかし異様な冷たさが身体の芯に注がれる。それは私がこれまで幾度となく、イッシュの彼等に抱き続けてきた感情に似ていた。

「貴方たちにずっと守られて、慕われているなんて、ゲーチスさんは幸せですね」

「……そうか」

「なのに、そのことに彼はきっと気が付いていないんでしょうね」

きっとこの人も、悲しいのだ。
そうした思いを吐き出すように「悲しいなあ」と零せば、彼は目を伏せ「よく、解らない」と、あまりにも淡々と告げた。

そうして立ち上がった彼に私は焦った。いけない、と思った。消えてしまうと恐れた。
彼はそういう人だった。初めからそこに居なかったように存在することを止めてしまう。だから私は彼の存在を明日に繋ぎたくて言葉を投げる。

「明日も会えますか?」

彼は小さく頷いてくれた。


2012.11.29
2016.3.17(修正)
(幸福とは外的状況によって決まるものではない。)

© 2024 雨袱紗