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見えないあの子の代わりに、わたくしが見たもの全てを此処に記します。
あの子を取り巻く、あの子を愛しく思う者の全てを代わりに覚えておきます。
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ケタケタと甲高い笑い声が暗闇に木霊していた。あまりにも強い眩暈に痛みすら覚えて、ああ、さっきの嘲笑は夢だったのかと認識し、少しばかり安心した。
……どうやら他人の病室で眠ってしまっていたらしい。
個室に備え付けられた小さなデスク、そこに伏せるようにして彼と話をしていた記憶がまだ薄く脳裏に残っていた。きっとそのまま睡魔に襲われたのだろう。
彼の呆れた声を聞くことになるのは必至だと思いながら、痛む頭を押さえてゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、絶望することになると知っていたなら、もう少し心の準備をしてから目を開けたのだけれど。
「……人の病室で死んだように眠るとはいい度胸だ」
「……」
「気分が悪いのなら早く帰りなさい。此処で倒れてもワタクシは面倒を見ませんよ」
彼がいつも読んでいる考古学の本、そのページを捲る音が心地よく耳に届く。
おそらくその人はいつものようにベッドに腰掛ける形で座り、こちらに視線を向けることなく、本を読みながらその言葉を紡いだのだろう。
そしていつもは饒舌に言葉を紡ぐ私が、ただの一言も発さないことへの違和感に気付き、今、ようやくその顔を上げてこちらを見てくれたのだろう。
……此処までの全ては私の推測にすぎない。それらを確認する術を完全に奪われてしまった今の私に、その推測を真実とするための力はなかった。
言葉を発することを忘れた私に、彼は長い、長すぎる沈黙の後でそっと口を開いたらしい。
「シア」
はい、と上擦った声で返事をする。音を紡いだ自分の喉が震えていることをいつもより鮮烈に感じ取る。
ああ、これは悪い夢などではなく私の身に降りかかってしまった現実の出来事なのだと、認めればいよいよ耐えられなくなった。
弾かれたように席を立った。近くに置いてあった筈の鞄を掴み、逃げるようにドアの方へと駆け出して、取っ手と思しき部分に手を掛けた。
すっと空振りした右手に、ああ、ドアは開けっ放しになっていたのだと気付いて、もう一度呼ばれた私の名前を聞こえなかったことにして、廊下に出て、ドアを乱暴に閉めた。
廊下や階段には幸いにも手すりが付いていたので、それを頼りに駆け足で1階まで降りた。
降りながら、何度も両目を擦ったけれど、その事実はどうしようもなく残酷について回って、振り払うことなどできないのだと思い知らされた。
どうしよう。どうすればいいのだろう。
衝撃、混乱、動揺、そして絶望。それらの重すぎる感情は一か所に収束し、とある人物の名前を瞬間的に弾き出した。
空を飛べるポケモンの入ったモンスターボールを宙に投げ、行き先を指示して、その背中に飛び乗った。
彼には「気付かれてはいけない」と思い、逃げるようにあの場を後にしたけれど、「彼」には寧ろ、気付いてほしかった。
この恐ろしい事態に対して、彼にできることが仮に何もなかったとしても、それでも絶望するなら、彼の傍でそう在りたいと思った。
だから私は、プラズマフリゲートに飛んだのだろう。
私の目が、見えなくなった。
*
空を飛ぶことは大好きだったけれど、目を閉じて空を飛ぶこと程、恐ろしいものはないのだと気付かされてしまった。
今、どのあたりを飛んでいて、目的地までどのくらいまで掛かるのか。次にポケモンがどちらに体を傾けて飛ぼうとしているのか。
それら全ての情報が、突如として、手に入らない状態に置かれてしまい、私はただ困惑するしかなかった。
まるで、暗闇の中でジェットコースターに乗っているようだ。振り落とされないようにいつもより強く彼の背中にしがみ付いて、私は下降の始まる瞬間を、待っていた。
ようやくプラズマフリゲートに足を着けた時、あまりの安堵に涙が出そうになった。よかった、これで彼に会える。ただそれだけのことにどうしようもなく安心した。
彼は白衣を着ているけれど医師ではないし、彼に会ったところで何の解決にもならないのかもしれないけれど、それでも彼でなければいけなかった。
つまりはそうした人だったのだ。私にとって、このプラズマフリゲートの甲板に立つ相手というのは。
「こんにちは、シアさん。今日はいつもより早い到着ですね」
甲板を歩く靴音がこちらに近付いてくる。私は靴音と声のする方に振り返って駆け出した。何処だろう。何処にいるのだろう。もう声が聞こえるのだから直ぐ傍にいる筈だ。
一歩、二歩進んだところで彼がいつも嵌めている白い手袋に手が触れて、そこに縋り付くように両手を伸べて、泣き出した。
急に駆け寄ってきたかと思えば物凄い力で手にしがみ付き、わっと泣き出すという常軌を逸した行動に私に彼は驚き、狼狽していたけれど、
暫くして何らかの確信を持ったらしく、柔らかなテノールが「……シアさん」と私の名前を紡いで、震えていた。
「わたくしが見えますか?」
小さく首を振れば、あの時の「彼」に似た長い沈黙が落とされた。
私が「アクロマさん」と名前を呼べば、彼は我に返ったように返事をしてから私の手を握り返し、もう片方の手で私の肩を抱いてゆっくりと質問を重ねた。
「いつから、このような状態に?」
「1時間くらい前から、だと思います」
「それまでは見えていたのですか?見えなくなる少し前から、視界が不鮮明になったり、眩暈がしたりしませんでしたか?」
「……机に伏せて、居眠りをしていたんです。強い眩暈がして、身体を起こして目を開けたら、全く見えなくなっていました。それまでは普通に見えていました」
嗚咽交じりにみっともなく受け答えをしているであろう私を、彼は静かに許してくれた。これこそが、私がこの人のところへ向かおうと思った理由だったのだ。
突然起きてしまったこの、何もかもが分からなさすぎる常軌を逸した事態に対して、驚愕、狼狽、絶望といった混沌とした感情の末に泣き出すような幼く拙い私を、
このどうしようもない事態において「助けてください」と縋ってしまう、無力でみっともない私を、受け入れ、許してくれる人がいるとすれば、
それは彼以外にはあり得ないだろうと思っていた。
イッシュで二度目の騒動を起こしたプラズマ団と対峙し、彼等を解散に追い込んでしまった私の、本来の弱い部分を見せることができる人がいるとすれば、
それはあの頃からの私の葛藤を知っていて、それでも尚、私を支えてくれたこの人以外にはいないのだと、知っていた。
そんな私の傲慢で思い上がった推測は、けれど今この瞬間に真実へと姿を変えようとしていた。現に彼は、みっともなく泣き続ける私を許してくれる。
他の何でもなく、そのことにこそ、私は救われていた。
「シアさん、わたくしは白衣を着てはいますが医者ではありません。貴方の身に何が起きたのか、貴方の言葉だけでわたくしが判断するのはあまりにも危険です。
ですから一度、病院に向かいましょう。貴方の目に何が起きたのか、然るべき場所でなら分かるかもしれない」
彼の適切な指示に頷き、ポケモンの背へと誘導してくれる彼の手に、縋った。
*
目が見えなくなること自体は、別段、恐怖すべきものではなかったのだろう。
この謎の暗闇が晴れなかったとして、それはしかし、私を絶望せしめるものでは決してなかったのだ。
では何故、この時の私はみっともなく泣いていたのかと問われれば、ただ単に、その変化があまりにも突然だったから、ということに尽きるのだろう。
あまりにも唐突に訪れた変化に私の身体は素直な驚きを示した。震えが止まらなかったし、涙だって同じだった。
私に何が起こっているのか解らないという、盲目の事実は私の心を不安にした。
けれど私は幸いだった。それは他でもない、貴方がいたからだ。
貴方がいてくれることが何よりの幸いだと、しかし私は今の震える音で口にすることができなかった。
今の私がそれを口にすると、なんだか酷く子供っぽい強がりにさえ聞こえてしまいそうだったし、
何より彼の目を見ることなくそうした大事なことを紡ぐのは、何かが、違っている気がしたからだ。
彼の目を見て話がしたかった。
それが叶えられないという一点において、おそらくはこの暗闇というのは、私を絶望せしめていたのだろう。
けれど、それだけだ。他には何も変わらない。そう言い聞かせていた。
あまりにも長い夢が、甲高い笑い声とともに幕を開けた。
2016.2.4
(小さな幸い)