3:Cruel miracle

彼女のライブキャスターには、あまりにも多くの番号が登録されていました。
イッシュを旅する中で彼女が得た無数の繋がり、その尊さを、この小さなライブキャスターが示しているように思われてなりませんでした。
しかしその無数の番号の中から、見えない彼女が「私の代わりに連絡を取ってほしい」と頼んだのはたった2人だけでした。
一人は彼女の母親、そしてもう一人は彼女の「先輩」でした。

◇◇◇

最初は、質の悪い冗談だと思ったのだ。
4つ年下の後輩であるシアは健康を絵に描いたような、活発で活動的な子だったし、
遠くにある看板の文字を読んだり、ずっと向こうの草むらを駆けるポケモンの種類を言い当てたりすることに関しては、私よりもずっと優秀だったように記憶していたからだ。
そんな彼女の目が見えなくなったなんて、あり得ない。それが、私がその知らせを受けた時に抱いた率直な思いだった。

けれどライブキャスターの画面の向こうで「アクロマ」と名乗った白衣の男のことを私はシアから聞いてよく知っていたし、
彼女が「そう」なったとして、誰よりも真っ先に頼る人物として彼が相応しい相手であるということも分かっていたから、その報告を笑って切り捨てることができなかったのだ。
けれどシアの失明の経緯を聞けば聞く程に、信じられない、という気持ちが私の中でぶくぶくと泡のように膨れ上がっていった。

「机に伏せて居眠りをしていて、起きたら完全に目が見えなくなっていた」……普通に考えて、信じろという方が無理な話だ。
そもそも失明というのは、何か鋭利な刃物や針で目を直接傷付けられたり、危険な化学製品を目に浴びたりといった「事故」を経て起こるものなのではないだろうか。
居眠りを経て目が見えなくなるなんて、あり得ない。仮に彼女が眠っている間に誰かに何かをされていたのだとして、それに彼女が気付かなかった、という状況も不可解すぎる。
『そんなことが起こるものなの?』と懐疑を露わにして尋ねれば、彼も困ったようにその整った眉を下げて首を振った。

『まだ何とも言えません。けれど現実に彼女は目が見えていない状況です。理屈は分かりませんが現象は起きてしまっている。ならば「起こり得る」と答えるしかないのでしょう。』

科学者らしい癖のある言い回しをした彼は、ヒウンシティの総合病院で待っていますと私に告げてから、他に聞いておきたいことはありませんか、と私に確認を求めてきた。
私は暫く迷った後で、何もないと答えた。
本当は「シアと話をさせて」と言うつもりだったけれど、そう告げようと息を吸い込んだと当時に、
ライブキャスターから小さな、本当に小さな嗚咽が聞こえてきてしまったから、どうしてもその言葉を飲み込まざるを得なかったのだ。
そしてこの、あまりにも不可解な報告の中で、唯一、その嗚咽だけが「真実」を明確に物語っていたのだ。その嗚咽に懐疑の念を抱く余地などまるでなかった。

シアが、私の後輩が、私に代わってイッシュの英雄になってくれた彼女が、泣いている。私が彼女のもとへ駆けつける理由など、それだけで十分だった。

病院の白はなんとなく落ち着かない。自分が何処にいればいいのか解らなくなるからだ。
色を持った生き物である私たちに、病院の無機質なその色は眩しすぎる。どこにいても目立ってしまう気がするのだ。自分が、酷く浮いた存在であるように思えてしまうのだ。
だから廊下の壁にカラフルなポスターが貼られていると、安心する。
何も鮮やかなのは私たちのような生き物ばかりではないのだと、病院が異質なのであって、鮮やかな私たちは別におかしくはないのだと、色を持った何もかもが教えてくれる。

そう、此処は異質なのだ。
そしてそのような「異質」な空間に、私の後輩がお世話にならざるを得ない状況にあるということが、どうにも悔しく思えてならかなった。

目が見えなくなったのだから取り敢えず眼科の診察口に向かうべきだろうと、案内板でそれらしき場所を探す。どうやら眼科は2階にあるらしい。
近くにあったエレベータのボタンを押して待っていると、背後から爽やかなテノールで私の名前が呼ばれた。

トウコさんですね」

「え?……ああ、アクロマさん。こんにちは」

身長はNと同じくらいか、あるいは少しだけ高いかもしれない。
けれどそれはオールバックにされたブロンドと、くるりと円を描いた青い髪のせいでそう見えていただけなのかもしれなかった。
こんなおかしな髪型をした男をシアが慕っているという事実は私を少なからず驚かせたけれど、
彼女も少し奔放で好奇心が旺盛で、それ故の探究心は科学者のそれに似ているようなところがあったから、その実、白衣を身に纏ったこの男とは気が合うのかもしれなかった。

「あんたのことはシアからよく聞いて知っているわ」

「ええ、わたくしもシアさんから、先輩と呼んで慕っていた貴方のことはある程度聞いていましたよ」

「そう。なら話が早いわ。私はシアみたいに礼儀正しくないからこんな言葉遣いだけど、別にあんたを軽く見ている訳じゃないから、そこだけは誤解しないでね。
いつもシアの遊び相手になってくれてありがとう」

私の無礼な言葉に彼は至極まっとうな受け答えをした。愛想笑いをすべきところでちゃんと笑ってくれたし、かといってこちらを軽侮している様子もない。
しいて言うならば答え方がやや生真面目であるような気がしたけれど、それは彼自身のというよりも、科学者という職に就いた人間の性であると言った方が適切である気がした。

彼は早口で、……といっても、Nのそれに比べれば大したことのない速さではあったのだけれど、
シアが1時間ほど前にプラズマフリゲートにやって来たこと、その時には既に目は完全に見えなくなっていたこと、
居眠りをしていた場所を尋ねると言葉を濁して明確な答えを口にしてくれなかったこと、最初こそパニックになっていたが今では落ち着いていること、などを話してくれた。

今は先に駆け付けた母親と共に、診察室へ入っているという。
シアの母と私の母は知り合いで、私達は昔から家族同士での付き合いをしていたから、彼女の母親のこともよく知っていた。
ちょっとやそっとのことでは動じない、大らかで陽気な人だった。けれど流石に、我が子の目が突如として見えなくなったという報告には、顔色を変えたのではないだろうか。

「あのさ、私、こういうことはよく解らないけれど、その……」

「……どうしました?」

おそらくはまだ背の低いシアに対しても、いつもそうしているのだろうと思わせるような仕草で、彼はその長身を少しだけ傾けて、私の顔を覗き込むようにして尋ねた。
ああ、人の話を聞くときはこうやってするのよと、Nに教えてあげたい。そう思いながら私は、尋ねたところでどうにもならないと解っている問いを投げた。

「治るのよね?」

眼鏡の奥に光る金色の目が瞬きを不自然に止めた。
やはり聞いてはいけないことだったのだ、これは私の不安を押し付けたに過ぎない無意味な問い掛けだったのだと、そう悔やんでも先程の言葉をなかったことになどできなかった。
彼は止めていた瞬きを今度は何度か意識的に繰り返した。私にはそれが、今の信じがたいようなこの現実に何とかピントを合わせようとする試みのように思えてならなかった。
何もかもが解らないのは彼も同じなのだ。白衣を着ているからといって、医師でもない彼に人の目のことなど解る筈がなかったのだと、しかしもう、遅すぎた。
けれどこのおかしな髪型をした男は、そんな愚かな問い掛けをした私に、呆れることも責めることもせず、ただあまりにも穏やかに笑ってみせた。

「来てくれて、ありがとうございます」

「え……」

「貴方がそうして不安を口にしてくれるから、わたくしはまだ平静を保っていられる。年長者の私がしっかりしなければと虚勢を張れる。
貴方がいなければ、不安に飲まれるのはわたくしの方だったでしょう」

……随分と出来た考え方をする人だと、いつもの私なら素直に感心できたのだろう。調子のいいことを言って、などとからかいながら笑うことができたのだろう。
けれど、できなかった。私が彼の言葉通り、不安に飲まれかけているというのもあったけれど、
彼がそんな言葉で濁そうとした真実があまりにも重いことに気付いて、私は彼に見せた苦笑の裏で愕然としていたからだ。

見えなくなった目が見えるようになる。
ドラマや漫画の世界でそれは「奇跡」として表現される。十数年も生きていれば、そうしたものを題材としたエンターテイメントの一つや二つ、お目にかかる。
だから、解っている。それを奇跡とすることの本当の意味を、物語の中で目が見えるようになるという「奇跡」を描写する理由を、私はよく、解っている。
つまりはそういうことなのだ。普通は、見えなくなった目が見えるようになることなど、殆どないのだ。

だから、彼は不安なのだ。だから、彼は不安に飲まれた私を笑顔で許したのだ。
その不安は当然のことなのだと、あまりにも優しい言葉で残酷な真理を紡いだのだ。

「大人って狡いわ。大事なことを、何一つ教えてくれないのね」

吐き捨てるように紡いだ八つ当たりを、ドアの開く音が遮った。弾かれたように待合室の椅子から立ち上がった彼の後に、ワンテンポ遅れて私も続いた。
母親に肩を抱かれてゆっくりと歩いてきた彼女の名前を呼べば、その海色をした目が不自然に中を泳いだ。

いつも真っ直ぐに私の方を向いて「トウコ先輩」と、屈託のないメゾソプラノを震わせるその顔は、
しかし突然目が見えなくなったことによる恐怖と絶望で、泣きそうになっているものだと思っていた。少なくとも、アクロマさんの元へやって来た直後はそうだった筈だ。
けれど私ではないところを見上げ、手をひらひらと動かして私を探す彼女の顔は、あまりにも穏やかで、静かだった。
異常な状況下に置かれている筈の彼女は、しかしどこまでも正常だった。だから、恐ろしくなった。

シア、見えていないのでしょう?
それなのに、どうしてそんなに落ち着いているの?

「心因性、っていうらしいです」

ようやく見つけた私の手を両手で握り、困ったように笑いながら紡いだ彼女の目は、やはり私の視線と交わらない。
その海に、私は映らない。


2016.2.4
(残酷な奇跡)

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