4:Too horrible everything

視界を完全に失った生活というのは、不便であり、また危険でもあります。
しかし彼女はそうした不便かつ危険な状況に置かれた自身を悲観せず、寧ろ楽しんでいるように見える時さえありました。
最初こそ、突如として視界を覆った暗闇に混乱し、恐怖していたようですが、今はあまりにも穏やかです。
わたくしにはそれがどうしても、異質なもののように思われてならなかったのです。落ち着きすぎているように感じられたのです。
そして、そう思っていたのは私だけではなかったのだと、わたくしはもう少し後に、知りました。

◇◇◇

検査結果に異常は全く見つけられなかったらしい。聞いたこともないような複雑な名前の検査を幾つか受けてきたようだけれど、全くの健康体としか言えなかったという。
けれど彼女は実際に目が見えていない。医師はそれを心因性のものだと判断した。

心因性、と言われても、やはり私にはピンと来なかった。その単語を言葉通りに解釈するのなら、心のせいで目が見えなくなった、ということになる。
けれどそんなこと、本当にあるのだろうか。それは「寝て起きたら目が見えなくなっていた」というシアの報告と同じくらいに不可解で、納得し難いものだった。
しかし当の本人はその「心因性」とう医師の説明にすんなりと理解の意を示したらしく、この重苦しい空気に似合わぬ陽気な声音で口を開いた。

「人間って、ストレスを受けすぎると、体のいろんなところに影響が出るようになっているみたいなんです。
胃に穴が開いてしまったり、声が出なくなったり、足が動かなくなったりすることもあるみたいで、
……だから、目が見えなくなることがあったとしても、おかしくはないのかなあって」

最後の方は寧ろ自分に言い聞かせるような声音で、どこか諦めと悟りの様相を呈しているようにも思われた。
そうだ、この少女は敢えて陽気に振る舞っているのかもしれない。私やアクロマさんを安心させようと、直ぐによくなるから大丈夫だと、そう示しているのかもしれない。
それならば、私は彼女の不安について言及すべきではないのだろう。そう判断し、私はいつものように冗談っぽい言葉の響きでシアをからかった。

「何もないのに目が見えなくなるなんて、おかしな話だわ。詐病じゃないでしょうね」

「あはは、そうだったらよかったんですけど」

「冗談よ。……それで、お医者さんはどうしろって?」

まさか心因性だから手の打ちようがない、と匙を投げたわけでもあるまい。医師なのだから、何かしらの行動指針を示してくれる筈だ。そう、私は思い込んでいた。
無学な私は、風邪を引いたときに風邪薬を処方してくれるのと同じように、あるいは大きな切り傷を手術で縫合するのと同じように、
そうした、目を見えなくさせる程の異変を起こした心というものに処方する薬や、手術のような治療方法が存在するのだと、本気で思っていたのだ。
けれど彼女の母親が、彼女に似た、困ったような笑顔でやわらかく告げた。

「頑張りすぎてしまったのかもしれないって、言われたわ。これは心からのサインだと思って、ゆっくり休んでくださいって」

それは頭を殴られたような衝撃だった。私は相槌を打つことも忘れてただ、沈黙する他になかったのだ。
頑張りすぎてしまった、心からのサイン、ゆっくり休んで……。シアのお母さんが紡いだ音の並びが脳裏でガンガンと鈍い金属音を立てていた。

シアが疲れていた?……そんなまさか。あり得ない。
だってこの子は私の後輩で、イッシュリーグの新チャンピオンで、ホドモエに新しくできたPWTでも思いっきり活躍していて、ポケウッドでも徐々に人気を集めていて、
何にでも興味を示して、やりたいことに思い切り打ち込んでいて、いつだって夢中で、楽しそうで……。
それらの「私の知るシア」の像が、ガラガラと音を立てて崩れていった。
医師の言う「頑張りすぎてしまったのかもしれない」という言葉が、単なる多忙による身体の疲労を指すものでないことくらい、無学な私にだってよく、とてもよく解っていた。

シアの状況がどういった類のものであるか、もう理解はすぐそこまで来ている。けれど喉元まで出掛かっているその結論を押し留めているのは、私のみっともない強情さだった。
彼女は何もかもを楽しんでいるように見えて、その実、その日々に押しつぶされそうになっていたのだと、彼女は追い詰められていたのだと、
理解することはできても、どうしても、認めることができなかった。私の理解の外に彼女がいることを、受け入れられなかったのだ。

シアが私の落とした沈黙を怪訝に思ったのか、「トウコ先輩?」と尋ね、握った手の力を少しだけ強めた。
私はそれを、振り払った。

「!」

おそらく、その場にいた私以外の全員が息を飲んだのだろう。いや、私も息を飲んでいた。自分の取ってしまった行動が恐ろしくて、息をすることを忘れていた。
呼吸を忘れていると気付いてからも、私は暫くの間、息を吸い込むことができずにいた。
この子の空気を奪ってしまうのではないかと、大波となって押し寄せた未知なる恐怖が足元を覚束なくさせていたのだ。

何もかもが恐ろしかった。
シアが追い詰められていた、という事実も、追い詰められていたという事実に全く心当たりを見つけることができない私の愚鈍さも、
この小さな後輩を押し潰してしまった全てのものも、そして、その「全て」にもしかしたら私が含まれているのかもしれないという懸念も、全て、全て恐ろしかった。

先程、冗談っぽくいつものように紡いだ「詐病じゃないでしょうね」という戯言さえも、大きすぎる罪となって私の背中にズシンと重たくのし掛かってきた。
私がこれまで彼女に対して犯してきたであろう罪と、これから彼女に犯してしまうかもしれない罪の重さ。
それらを「恐ろしい」と思ってしまう私が、何よりも恐ろしかった。腫れ物に触るようにシアと向き合う準備を始めている私の心が一番、恐ろしかったのだ。

「……ああ、ごめんね。今朝ポットで右手を火傷したから、強く握られると痛いのよ」

「あ、……そうだったんですね、ごめんなさい。火傷、まだ痛みますか?」

「ううん、大した傷じゃないから平気よ」

きっと今、私はとても酷い顔をしているのだろう。それがとてもおかしなことのように思えた。とても、滑稽だと思ったのだ。
今のシアに私は見えていない。だから私の顔を見ることのできない彼女に対して、嘘を吐くことは造作もないことである筈だった。
けれど、火傷をしたなどという嘘を吐いた私の心臓は、張り裂けそうな程に大きく揺れていたのだ。気付かれないかしらと恐れていたのだ。
これも私の、彼女への「罪」になるのかしらと、ただ、恐れていた。

何もかもが恐ろしかった。

「それじゃあ、暫くはPWTもポケウッドもポケモンの調査もお預けね。これから家に帰るんでしょう?」

「はい。家なら何処に何があるか、よく解っていますから」

「明日、アクロマさんとお見舞いに行くわ。何か欲しいものはある?」

そう尋ねれば、彼女は暫く考え込む素振りをしてから信じられないものを注文した。

「点字の本を買ってきてくれませんか?お金は、予め渡しておくので」

点字。
それは目の見えない人が活字の代わりに紙面に付いた細かな凹凸で言葉を読み取るためのものだ。私でもそれくらいは知っていた。
彼女の目が見えなくなったのが「心因性」であるのなら、その視界を覆う暗闇が一時的なものに過ぎないのなら、そのようなものを調達してくる必要など、ない筈だった。
けれど彼女は点字の本を求めている。好奇心の旺盛な彼女のことだ。これを機会に点字を覚えてしまうつもりなのかもしれない。
けれどそんな楽観的な考えをする余裕などとうに失われてしまっていた。何もかもを恐れる萎縮した頭では、このようなお粗末な言葉を紡ぐ他になかったのだ。

「あんたまさか、ずっとそのままでいるつもりじゃないでしょうね」

彼女を腫れ物として身構えたところで、長年の付き合いである私はついつい、いつものような棘のある言葉しか引っ張り出すことができない。
シアは困ったように笑って「勿論です」と即答してくれるけれど、それが彼女の本音なのか、それとも疲れた心が無意識に弾き出した嘘なのか、私には見抜くことができない。

「でも見えるようになるまでの間、何もしないままっていうのも退屈だなあって思ったから」

「お医者さんは「休みなさい」って言ったのよ。あんたにとっての「休む」は、ほんの数日間の退屈すら許さずに必死になって点字を覚えようとすることなの?」

そうですね、とシアは肩を竦めて笑う。
その数秒後にはもう、自分が点字の本を求めていたことなどすっかり忘れてしまったような陽気さで「それじゃあ、ヒウンアイスが食べたいです」と答えた。

「またそういう、お土産にするのが難しいものを頼むのね。クーラーボックスを用意しなきゃいけないじゃない」

私はそう答えてシアの頭をやや乱暴に撫でた。
それが了承の意であることを彼女も感じ取ったのか、クスクスと笑いながら「ありがとうございます」といつものメゾソプラノで紡いだ。


2016.2.4
(恐ろしすぎる何もかも)

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