Solution

ティーカップを手にしたインテレオンはまず、ネズにその長い背を折るようにしてお辞儀をした。次にネズと少女を交互に見遣ってから、足音さえ立てずにリビングを出て行った。
最後に玄関のカチャリ、という音だけを立てて、少女の自慢のパートナーは、あまりにも迅速かつ優雅にこの場をネズへと譲ってみせた。
成る程、あれでは少女が自慢したくなるのも無理はない。よく出来過ぎたパートナーだ。トレーナーにとてもよく似ていると感じるのは、ネズの贔屓目によるものだろうか。

蜂蜜をほんの少しだけ溶かした紅茶を彼女は口に運ぶ。「あったかい」と、いつかと全く同じ感想が零れ出る。
その小さな呟きは皮膚伝いにネズの骨を走り、背筋を駆け上がり、心臓を細やかに揺らす。
少女を自らの膝の上に座らせた体勢では、そうした僅かな音でさえもこのように伝わる。その感覚をネズは気に入っていた。彼女にとってもそうであればいいと思った。

「おれの下手な推理を聞くに堪えないと感じたら、やめろ、とだけ言ってください。その言葉がない限り、君が泣こうが喚こうがおれは話をやめません」

触れた腕から若干の緊張を拾い上げる。心臓の拍動を把握できる程度には優秀な感覚を持って生まれたことにネズは感謝したくなった。

「それはまた随分な言い様だね。私は、貴方にこれだけのことをしてもらっておきながら、貴方の話さえ聞くことを易々と拒める程、狭量な人間ではないつもりだよ。
……それとも、私のこんな言葉は信じられないかな」

信じられない? 何を馬鹿なことを。ネズは「まさか」と吐き捨てるように口にして、ほんの少しだけ笑った。
信じていないはずがない。おれが君を信じていなかったことなど一度もない。

「君がアッサムの紅茶を飲んだあの日、「貴方だけだ」とおれに言ったことを、残念ながらおれもちゃんと覚えていましたよ。あの言葉はおれにとっても、それなりに重いものだった。
ですが君はおれに向けるのと同じような愚痴や悪態を、おれ以外の知り合いにも示していたようですね。
……ああ、責めている訳じゃないんですよ。君のちぐはぐな言動に憤っているのでも、君に裏切られたと感じているのでもありません。
おれはダメな奴だから、そうした状況を知っても尚、愚直に君の言葉を信じることしかできなかったんですよ。だから考えていました。君が口にした「貴方だけ」の、本当の意味を」

ローテーブルの隅の方に置いた本が二冊であることに狼狽えたように見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。
そうした僅かな仕草にもネズは益々確信を得ていく。その確信のままに、謎解きは進む。

「チャンピオンという立場への不満を抱いていること、それを知られることは君にとって何の不都合にもなり得なかった。いやむしろ都合が良かった、とさえ考えられます。
君は敢えて不満を撒き散らしていた。駄々を捏ねて、毒を吐いて、自分はチャンピオンに相応しくないのだと大勢に知らしめようとした。
まるで「そちら」が君の欠落であるかのように、示そうとした。でも君が本当に知られたくなかった欠落というのは「そちら」ではないはずです」

「……」

「君は、自らがチャンピオンに相応しくない人間だというある種の欠落を赤裸々に開示することによって、君が本当に隠したかった方の欠落から、連中の目を逸らせようとしていた。
ただ、ガラルに対する将来のビジョンを何も持てない、というのは、別に欠落でも何でもない。14歳が背負うには端から大きすぎるものです。途方に暮れるのも無理のないことだ。
でも君が「本当に何も持っていない」のであれば話は違ってくる」

少女を膝に乗せたまま、ネズはローテーブルの隅へと手を伸べる。二冊の本を取り上げて、右手と左手に一冊ずつ持つ。
片方は180ページ程度の、港町を舞台にした「老人」と少年、そして「海」に暮らす生き物たちの物語。
もう片方は小さな農場を舞台とした、イトマルというポケモンを語り手として紡がれる「おくりもの」の物語だ。
どちらも、彼の決して大きくはない本棚へ大事に仕舞われている時点で、彼のお気に入りであることには違いない。その好みの程度に順位など付けられるものではない。
ただ、こうして二冊を差し出されて、今日はどちらを読もうかと考えたなら、数秒の思考の後で「ではこちらにしておこう」と、一冊だけを手に取り表紙を開くだろう。
その選択は当然のことながら、ネズを苦しめるものでは決してない。これくらいの些末な選択に恐怖したことなど一度もない。

だが彼女にとっては、そうではない。ネズが数秒で為すことの叶ったそれを、きっと彼女は1分かけようと、10分かけようと、1時間を費やそうと為すことができない。
ネズが右手と左手に一冊ずつ持ったそれらの本を、彼女の視界に入れるように背中からそっと差し出した瞬間、彼女に起こった変化がそれをあまりにも克明に示している。

「君は、これができないことを知られたくなかったのでしょう」

凍り付いた息がふっと短く吐かれる。細い蝋燭の火を掻き消すのにも足りないと思わせる弱々しさだ。
少女めいた華奢な肩はきつく強張っている。手を置いて強く握り込めば壊れてしまいそうだと思わせる儚さだ。
彼女を膝に乗せなければ、きっと気付くことなどなかったそれらの反応を、ネズは彼女を信じ抜いたことによりようやく得るに至っている。
そしてその結果が、ネズにこの確信を与える。

「君が隠したかったのは『無敗を貫き、ガラルを救い、チャンピオンにまでなった身でありながら、将来のビジョンを何も持てていないという事実』なんかじゃありません。
『無敗を貫き、ガラルを救い、チャンピオンにまでなった身でありながら、紅茶も帽子も次に読む本でさえも、何一つ、自ら望んで決めることができないままだという事実』です」

少女はそっと紅茶をローテーブルに戻した。カチャ、と寂しげに陶器が音を立てた。
空いた両手で彼女は二冊の本を奪い取り、どちらを手元に残すこともなくローテーブルの上、ティーカップの隣に並べた。
降参だ、とばかりの大仰なポーズで上げられた両手、大きく竦められた肩。
けれどもその陽気な後ろ姿とは裏腹に、その薄い体に埋め込まれた心臓は張り裂けそうな程に大きく揺れていて、その呼吸は浅く短く冷たかった。
余裕のある仕草、余裕のない鼓動、どちらも彼女の真実には違いない。だからこそネズは彼女の顔を見たくなった。あの目の中に在るものを、第三の真実を、見たかった。

「君が以前、おれの前で口にした「欠落」……それは間違いなく、君が期待や執着や愛着を大きく欠いた人間であることを指している。
生得的なものなのか、それとも君の育った環境が君にそのようにさせているのかは分かりませんが、とにかく君はその欠落が暴かれることを最も恐れていた。そうですね?」

彼女は立ち上がり、今一度、二冊の本を手に取って両方を腕に抱いた。
こちらを振り返り、くたりと眉を下げて、照れたように、恥じるように、惜しむように、喜ぶように口元を綻ばせて目を細めた彼女を、ネズはただ美しいと思った。
美しい。そう思ったのならばそれが、それこそがネズの真実となって然るべきだ。

「その通りだよ名探偵。でも不思議だな、貴方に見抜かれることはあまり怖くない」

「……それはよかった」

「続けてくれないか、もっと聞いていたい」

催促の言葉と共に、彼女はネズの膝の上ではなく、ソファの隣に腰を下ろした。
本を読まずに抱えておくことしかできないのなら、確かにネズの膝の上という、視線が交わらず意思疎通に若干の不自由性を残すその姿勢を選ぶメリットはさしてない。
さしてない、はずなのだが、ネズはほんの僅かに口惜しさを覚える。
けれどそうした口惜しさも、彼女が二冊の本を腕に抱いたまま、力を抜いてネズの肩に頭を置いたことにより一瞬にして溶けていってしまう。

「君が探究したかった「本質」というのはおそらく、君が「なりふり構わず求めたいと思える何か」のことです。何もかもをかなぐり捨てて、それでも欲しいと望める何かのことです。
君はそれを見つけられなかった。寄せられる期待のままにチャンピオンにまでなっておきながら、君自身は何にも期待を寄せることができないままだった」

「……うん、それで?」

「旅を終え、救世主として称えられ、チャンピオンになり、肩書き……まあ要するに「ガワ」ばかりが立派になっていく君自身の変化に、君は相当、焦ったはずです。
自分が替えの効かない何かにさせられているにもかかわらず、自分の目に映る世界は相変わらず、替えの効かないものなど何一つないように見える、その乖離に君は愕然とした。
だから君は駄々を捏ね、弱音や愚痴を撒き散らし、「こんな私の代わりなどいくらでもいる」と周りに印象付けようとしたんです。
まあそんな駄々捏ねも、人の情を集め、絆し、不安定な君を支えてやりたいと多くの人間に思わせるような、そうした結果に終わってしまったようですがね」

クスクスと、八割の自嘲と二割の愉悦に肩を揺らすこの少女が、いつから「こう」なのか、何故「こう」であるのか、そうしたことをこの場で問い詰めるつもりは更々なかった。
彼女を「こう」たらしめた何かを探ったところで、それは既に過去の産物であり、ネズが知ったことでより温かく優しい過去に書き換えることが叶う訳でもない。
消すことの叶わない古傷ならば敢えて触れる理由はないし、抉るなどもってのほかだ。

「おれは、君よりもずっとダメな奴ですから、君の苦悩を解決してやることなんかできません。でも人の心の弱さを歌う身として、気持ちを推し量ることはできるつもりです。
寄せられる期待のまま、完璧に、従順に、聞き分け良く生きてきた君にとって、己の意思を差し挟まないことにより最善の結果ばかりを得てきた君にとって、
強い愛着を持つことや望みのままに選択することがどれだけ難しく、勇気の要るものであるかということくらいは、ちゃんと分かっているつもりです。
さて、それを踏まえて、昨日と同じことをもう一度言いますが」

彼女の肩を掴み、こちらへ向かせた。
ローゼルティーの赤い色素はもう完全に失われていて、ただこれまでに見たことのない、恐ろしい程の純朴性を孕んだ紅茶色が、まるい形でじっとネズを見上げてくるばかりだった。

「おれは別に、君が何も決められないままだったとしても構いません」

大量の蜂蜜を溶かした紅茶のような、そうした毒めいた何かを孕んだ目をしていた。これまでの彼女は、ずっと、そうであったように思う。
その「何か」に相当するのは、大抵の場合彼女の感情だった。好奇心、反抗心、愉悦、興味、憤り、諦め、そうしたもの。それらを彼女は自らの目に埋め込むのがとても得意だった。
視線の力強さ、瞬きの回数、そうしたもので様々な感情を表現する様は、プロの俳優も頭を下げるレベルのものであるようにさえ感じられていた。

「歩き出せないのなら別にそのままでもいいじゃないですか。選ぶことが辛いなら、無理に期待や執着や愛着を持とうとしなくたっていいじゃないですか。
どうせガラル地方の、賑やかだけが取り柄であるような頭の足りない馬鹿共は、ダンデや君みたいな導き手がいないと何もできないんだ。
にもかかわらず、期待ばかり勝手に寄せられては堪ったものじゃない。そうでしょう?
だから君は君の気が済むまで、いつまでだって休んでいいんですよ。君にはその権利がある。おれもいつまでだって付き合います」

けれども今、彼女の目には「何も」映っていない。
それは彼女が目への演出を怠っているからとかそうした理由ではなく、ただ単に、映すべき感情を決めかねているだけのことなのだろうと思う。
ただ、ネズの言葉を聞くだけに特化した目だと思った。そのように自惚れてしまえる程の美しさだった。

「ありがとう。貴方にそう言ってもらえるのはとても嬉しいよ。ただ現実的な問題として、そんなことが許されるとは思えない」

「何故?」

「だってそんな私の姿は、皆の期待から外れている。いつまでも、が許されるような土地じゃないことは旅をしてきた私にはとてもよく分かっているよ。
私は今回の件で少し皆と話し過ぎた。皆の期待や愛着や祈りに触れすぎた。もう「私の停滞のせいでガラルがどうなろうと構いやしない」とは、思えなくなってしまったんだ。
……何より、そんなことをしても、貴方には何のメリットもない。
私は受け取ることが上手になるばかりで、何一つ貴方に返せないまま、借りばかりが増えていくんだ。今だって、何を返せば貴方が喜んでくれるのかも分からないままなのに」

この少女の心の、奥深く、容易に他者へは触れさせていないようなところに、己の言葉が確かな温度を持って流れ込んでいるという確信は、ネズをどうしようもなく安心させた。
だから、このようなことを言えてしまったのだろう。

「ああ、問題ありませんね。君からはもう十分すぎる程に貰っていますよ。もっとも、おれが勝手に受け取った気になっている、と言った方が正確かもしれませんが」

「それは何? 私は貴方に、何を差し出せていたんだい?」

「愛です」

自らが全く意図していないところで「愛を与えたことにされてしまった」少女は、けれどもネズの言葉の真意に、その狡さと熱意に、まだ気が付いていないらしかった。
その証拠に、心臓の拍動は随分と落ち着いていた。肩も、腕も、強張っていなかった。
僅かに首を捻ろうとする動きが見られただけで、驚愕や動揺や困惑に当たる挙動の一切を彼女は見せなかった。
視線を逸らせずにいる目は相変わらず、純朴の過ぎる紅茶色のままだったので、ネズはくつくつと笑いながらもう一度、そこへ注ぎ込んだ。

「おれは勝手に、君からの愛を受け取った気になっているんですよ。……とか、どうです。こんな浮ついたことを言うおれを、ユウリ、君は嫌いになりますか」

2020.6.6

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