Confession

少女は長く、思考していた。思考しているようにネズの目には見えた。
そして、ネズの贔屓と期待を抜きにしても、その真剣な表情は、「勝手に愛を見出されて憤っている、あるいは気味悪がっているような」ものではないように見えた。

「期待も執着も愛着も、嗜好さえよく分かっていない私が、それらの根源となっているであろう「愛」なんて立派なものを、一足飛びに手に入れられているとはとても思えないよ」

「そりゃあそうでしょうね、君には何の自覚もないんでしょう。おれが勝手に、見出しただけの話です。
要するに、おれは君と一緒にいるだけで、君が意図しようとしまいと勝手に、君に愛されたような気分になれてしまうということなんですよ。どうです、随分とお手軽でしょう」

この少女は、愛という浮ついた単語、自らとは無縁だとばかり思っていたであろうその単語に、少なくとも嫌悪感は抱いていない。
それが分かっただけで十分だった。今のネズにとってはそれが本当に「愛」であろうとなかろうとどうでもよかった。
とにかく今は、この少女に「私は与えられてばかり」だと思わせないための根拠が必要だった。そのためならネズは、このような恥ずかしい妄言くらい喜んで吐けるのだ。

勿論その妄言の中には、本当にそうであればいいのにという期待が少なからずあり、それを否定するつもりは更々なかった。
けれども今は、そうしたネズ自身の期待のために動くときではない。
ネズが勝手に見出し勝手に喜んでいる少女からの「愛」というものは、あくまで彼女のためにネズが造り上げたものであり、ネズ自身のためのものでは決してない。
それでこの子が救われるのであれば、この愛が証明できない不確かなものであったとしても、構わない。ネズはその武器を手に取ることを躊躇わない。

「君のそれが、おれにとってすこぶる都合がよく、すこぶる喜ばしい形をしていたというだけの話です。
その愛の真偽について議論するつもりは更々ありません。ただ、おれが信じることができていればそれでいいんです」

「……そこが、分からないんだ。こんな、どうしようもない選択不能性を抱えている私に、貴方はどうやって愛を見たというんだい」

「だって君、おれの淹れたアッサムが飲みたくて此処に来たのでしょう」

選択不能性。なかなかに素晴らしい言葉だと思った。
不自由性をその堅苦しい単語と単語の接続でめいっぱい表現しておきながら、けれどもどこか愉快な、面白さを滲ませた響きであることには違いないのだった。
そうした造語が、特に熟考することなくするりと喉から零れ落ちていく様だって、ほら、どうしようもない程に美しい。

「君は此処に来た。おれになら自らの欠落を開示してもいいと思ってくれた。
アッサムの茶葉を選んで、紅茶に入れるものを選んで、次に読む本のざっくりとした希望を口にして、おれと揃いの色にするためにピンク色のニットベレーを選んだ。
君は選べている。君にとっては恐ろしい選択であったかもしれませんが、それでも君はやり遂げている。そのやり遂げた選択の全てがおれに帰結している。
だからほら、ちゃんとおれのことが好きなんですよ。バカなおれはそんな風に、自惚れていたいんですよ」

たとえばそれは、君が「できない」と認識していたものを「できる」ようにしてしまうような、不可能を可能に変える奇異な力であるのかもしれない。
たとえばそれは、本当に存在しているか否かにかかわらず、ただ「在る」と信じるだけでおれが救われてしまえるような、救世主のような存在であるのかもしれない。
その正体はネズにも分からない。究明できない。未解決のままであるならば、このような仮定のもとに進めるしかない。それでいい。構わない。
その仮定がいつか、二人の真実に化けてくれるかもしれないから。

 
「君が為したそれらの選択全てを、おれは愛と定義します」
 

君が選んでくれた。それだけでもう十分すぎる程だ。他に何か必要なものがあるようには思えなかった。少なくともネズにはそれが全てであった。

「おれは君の選択を信じます。君が信じずともおれが信じます。信じています。君が「貴方だけだ」とほざきやがったあの日から、ずっとそうだった」

宣誓を終えたネズは改めて彼女の目を見つめた。
大量の蜂蜜を溶かした紅茶のような、そうした毒めいた「何か」に相当するものを探ろうと、彼はそのまましばらく沈黙した。
先程から、純朴なまるい目でこちらを見つめ返すばかりだった彼女は、ネズが与えた長い沈黙の後にその目をすっと細めた。
細めて、そして再び開かれた紅茶色に映るネズの顔が、水面に顔を映したときのような揺れ方をしていた。
もしかしたらこの子はもう一度泣きたいのかもしれないと考え、やや乱暴に肩を掴んで抱き込んだ。
名探偵、と称されたネズの推理は見事に当たり、彼女はネズの、お世辞にも頼り甲斐があるとは言えない細腕の中で、少し、ほんの少しだけ泣いた。

「大丈夫」と掠れた声が腕の中から零れ出る。「本当に?」とネズは念を押す。
「ああ、もう『気が済んだ』よ」とややおどけたように紡ぐので「それはよかった」とこちらも努めて呑気な声音で同意する。
「ありがとう」と殊勝なことを口にした彼女を腕から引きはがし、肩に置いた手はそのままに「いいんですよ、惚れた弱みです」などとわざとらしく視線を逸らしつつ告げてみる。
「本当に私のことが好きなんだねえ」と、いっそ感慨深そうに呟くので「ええそうですよ、何か問題でも?」と、笑いながら吐き捨てるように口にする。

「いいや、何も問題ない。大丈夫だよ。……だからそろそろ、歩き出そうと思う」

その言葉は……実のところ、ネズの想定内であった。
彼女が何らかの目的を持って、今の地位や役割に不満を訴え、駄々を捏ね、弱音を吐いているだけであった以上、
その「目的」が達成された、あるいは道半ばで頓挫したのであれば、もうそのような「演出としての停滞」を続ける必要はない。
そして、周りの期待に応えることを良しとする彼女ならば、必ずあの場所へ、あの役割へ戻ることになるのだろう。
そうした確信を得ることは、彼女の正体を暴くことよりずっと容易いことであった。

「あの場所に戻って、君は苦しまないんですか?」

「私の恥ずかしい欠落の目くらましとして駄々を捏ねていただけで、別に、チャンピオンとして生きること自体は嫌じゃないよ。
何がしたいかもろくに選べない私にとって、チャンピオンという確かな役割が与えられたこと自体は、とても喜ばしく都合の良いことであるはずだからね」

そう答える彼女の声音は、ネズが初めて出会った頃の少女を思い出させた。
自信に満ち溢れ、敗北も挫折も知らず、ただポケモンバトルが楽しくて仕方ないという顔で、彼女は日陰の町たるスパイクタウンに乗り込んできた。
あの頃の彼女が戻ってくる。ネズが痺れる程の感慨を抱いたポケモントレーナーと、今度はあのトーナメント会場で対峙できる。
そんな未来への期待はネズを高揚させた。その未来は早ければ早い程いいと思った。明日にでも来てほしいとさえ願ってしまった。
つまるところ彼もまた、無敗の少女とのバトルに臨みたくて仕方がない、一介のポケモントレーナーに過ぎなかったのだ。

「分不相応だったとしても、ダンデさんより遥かに劣るバトルしかできなかったとしても、どんな風にガラルの舵を取ればいいか分からなかったとしても、今はいい。
いつか分相応になってやる。ダンデさんに勝るバトルをしてみせる。完璧なビジョンを元にガラルの舵だって取ってみせる。今の私にならできる気がする。
だって、このままでもいいんだよね。欠落を抱えたままでも、いいんだよね。貴方がそう言ってくれたんだ。私が愛したらしい貴方が、私を愛しているらしい貴方が、そう言った。
だから私は貴方を信じて思いきり、これまで通り足掻くだけだ」

はっ、とネズは声を上げて軽く笑った。
ネズを信じる、と口にしながらも「私が愛したらしい」「私を愛したらしい」と、不確定さを手放せずにいる、そのおかしさに頬を緩められる程度には余裕が生まれていた。

「ネズさん、貴方も一緒に来てくれる? シュートシティのトーナメント戦、ずっと欠席したままだったろう」

「ああ、そうですね。勿論行きますよ。君の停滞に付き合うのも今日でおしまいです。ダイマックスなしで君を負かしてやれる日が今から楽しみですね」

ネズの笑みに引きずられたように彼女もクスクスと笑う。掴んだ肩からその揺れが伝わってくる。
それが異様に心地良い。心地良い、を通り越して眠いとさえ感じる。お互いに無理のあることをし過ぎたのだろう。後悔など微塵もしていないけれど。

『無理を通そうとするから苦しいのだ、つまらない』
おれもそう思う。無理は苦しい。それでも互いに無理を選んだ。慣れないことをした。言葉を尽くした。互いの腹を開き合った。
荒療治が過ぎたかもしれないが、結果的にこれでよかったのだと思う。だってほら、こんなにもつまらなくない。

「それからネズさん、ごめんなさい」

「は? 今度は何です」

「貴方は、私がずっと貴方と一緒にいれば、いつか自分で何もかもを決められて、愛着などの諸々を使いこなせるようになると信じてくれているのかもしれないけれど。
……でも、そんなことはきっともう、起こりようがないんだよ。私はもう、どうしようもないんだよ」

それでも彼女はこんなことを言う。ネズは最早、その言葉に驚くことさえしない。

「何を持たずに走ってきたからこそ、私はチャンピオンになれたんだと思っている。今更、期待や執着や愛着めいたものを覚えてしまえば、本当に「相応しくなくなって」しまうよ。
欠落を隠すためにと大袈裟なまでに肥大させて表現した、これまでの駄々捏ねや不満や弱音でさえ、随分と皆を呆れさせてしまっていたんだもの。
演技でない、本物の「何か」に期待や執着や愛着を覚えてしまったら、私は強さを失うだろう。そうなってしまってはもう、チャンピオンでは、救世主では、いられない。
私はダンデさんのように、ガラルの頂点で底抜けに明るい笑顔を湛えられる程、まともな強さを持つことなんかできやしないんだ」

「それで?」

「貴方に全てを知ってもらえた私なら、きっともっと「お上手」に隠せる。皆の望んでくれるものに、なれる気がする。
そんな私の姿を貴方はきっと望まないだろうけれど、でも私には最初から、こういう生き方しか残されていなかった。どのみち私の愛とやらは、隠されるように出来ていたんだ」

「だから?」

挑発的な声音を作り、尋ね返す。少女は呆気に取られたような分かりやすい驚きの表情でネズを見ている。まるい目へと突き刺すように視線を向け、その紅茶色に無言で訴えかける。
何度も言ったはずだ。おれは君が何も決められないままであったとしても構わないと。君の欠落とやらが払拭されないままだったとしても、そんなことは何の問題にもならないと。
君が君を信じられないままだったとしても、おれが信じられていればそれでいい。何も問題ない、何も。

「いいんですよユウリ、もういいんです」

掻き抱くようにして再び細腕の中へと引っ張り込んだ。少女はくすぐったそうに身を捩りつつ笑った。もう吐く息を震わせたりはしなかった。泣く必要もなくなっていた。
ありがとう、という小さな呟きに、ネズは頷くだけの簡素な相槌を打った。どういたしまして、と流暢に告げるよりも、きっとこれくらいが彼らしい振る舞いに違いなかった。
ピンク色のニットベレー、そのてっぺんに付いたボンボンに額を寄せ、少し毛羽立つフェルト生地に頬を乗せて目を閉じた。
随分と贅沢な時間が降って沸いて出たものだ、と思ったけれど、この時間を惜しむ必要は最早なかった。
きっとまた、いつだってこうしていられる。二人が互いに互いの場所で歩き出してからも、少女はまた必ずこの家のドアを開け、ネズは再訪を歓迎する。
アッサムを淹れ、蜂蜜をほんの少しだけ混ぜて出し、できるだけ優しい物語を選んで共に読むことになるのだ。
そうした優しい確信がネズの意識を沈めていく。腕の中で少女がそっと口を開く。

「それじゃあネズさん、貴方だけだよ。貴方にだけ言うよ」

「ええ、どうぞ」

聞き覚えのある言葉、その続きを発するために短く静かに吸われた息の音を、ほんの少しでいい、占有して、夢の中にまで持ち込んでしまえたらどんなにか幸せだろう。

「私は、貴方を」

2020.6.6

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