Crazy Cold Case


Case8:ラパを引き抜く鼓舞の腕

Case8:カブ
第二鉱山の南口でその子に出会った。「奇遇だね」などと肩を竦めてこちらに笑いかけてきたけれど、何らかの目的で彼と話をするためにやってきていたことは明白であった。
このような何もないところへ訪れる他の理由など、無敗の現チャンピオンにあるはずもないのだから。

「そうだね、奇遇。うん奇遇だ。トーナメント会場以外で顔を合わせるのは久しぶりだね。
ぼくはたった今、トレーニングを終えてエンジンシティへ戻るところなんだ、よかったら少し一緒に歩かないかい」

「嬉しいお誘いをありがとう。それじゃあ喜んで」

青いニットベレーが彼女によく似合っていた。カブを負かした水の色、悔しさを思い出させる雨の色だ。
彼女を見ると雨を想起してしまうのは、ひとえにその雨のせいでカブ自身がこの少女に敗北を期したからためであった。
もっとも、それはカブに限ったことではなく、彼女と戦ったことのあるトレーナーのほとんどが、彼女の戦いと「雨」を結び付けている。
インテレオンの大技による雨を知らないのは、そもそものダイマックス環境が存在しないスパイクタウンのジムリーダーを務めていた、彼くらいのものではないだろうか。

敗北の雨の冷たさを知らない、若くエネルギッシュな元ジムリーダーのことをカブは思った。
彼はいつになったらシュートシティのトーナメントに顔を出すのだろうと、この少女の顔を見ると連鎖的に、そうしたことにまで考えが及んでしまうのだった。

「ぼくに訊きたいことがある。違うかな?」

努めて威圧感を排した優しい声音でそう尋ねてみる。彼女は驚いたように目を見開き、ぱちぱちと恣意的に瞬きを3回繰り返した後で眉をくたりと下げ、笑った。
そうだよ、その通りだ。凄いね、こんなにも呆気なく見抜かれてしまうなんて。私はそんなに偶然を装うのが下手だったかな。そうした言葉が早口でぽろぽろと転がり出ていく。
彼女が、大人である自分にある程度心を許していることを何となく感じ取ったカブは、それらの言葉に対しては返事をせず、ただ笑顔を作り彼女の「訊きたいこと」とやらを、待つ。

「貴方のリーグカードを拝見したよ。ホウエン地方出身なんだね。あちらでも長く、ポケモントレーナーをやっていたの?」

「そうだよ。ポケモンバトルにおいてはもう、ガラルでの思い出の方が多くなってしまったけれど、幾つになっても故郷は懐かしく愛おしいものだ。ホウエンに興味があるのかい?」

「興味……そうだね、そうかもしれない。どうしてもエネコに会いたいんだ。学術的、いや文学的な意味で関心があってね」

少女の口から転がり出たあまりにも可愛らしいポケモンの名前に、カブの足は思わず止まった。
エネコに会いたがっている? この少女が?
何のために、と尋ねかけて、すぐにはっとした。文学的な意味での関心をエネコに寄せているのであれば、弾き出すべき作品の名前など一つしかない。
小説作品などついぞ読まないカブであっても、有名作品であれば教養としてタイトルとあらすじくらいは把握している。

「あっはは! そうかそうか、あれを読んだのだね。でもどうかな、君の考えているような結果は得られないかもしれないよ。
ホウエン地方に生息している全てのエネコがあんな風に、哲学的、遁世的に生きている訳じゃないからね」

止めていた歩を再び進めて少女の隣に並びつつカブはそう告げた。
彼女は驚いたような、少しばかりがっかりしたような、それでいてそうした答えが返ってくることなど想定済みであったような、
そうした、平穏と不穏を絶妙な配合で混ぜ込んだ緊張感のある笑顔で「そっか、そうなんだね」と相槌を打った。

「あのお利口な物語は、エネコのそうした聡明な性質に端を発したものだと思っていたんだけれど、違ったんだね」

「少なくともぼくの知るエネコは、あの本にあるようなことを考えるポケモンではなかったかな。その小さな身に相応しい、健気なお利口さを身に着けている程度だったよ。
でも理由はどうであれ、ホウエン地方のポケモンに会いたいと思ってくれるのは純粋に嬉しいね。実際のエネコは文字で見るよりずっと可愛らしいんだよ、君もきっと好きになる」

「好きに?」

今度は少女が足を止める番だった。カブは「そうとも」と相槌を打って振り返った。そして、息を飲んだ。
先程までの、平穏と不穏が絶妙にブレンドされた笑顔はすっかりなりを潜めていて、ただそこには少女らしい純粋な困惑と躊躇いの色が、丸い二つの目に爛々と滲むばかりであった。

「それは困る、警戒しておかなければいけないね」

「えっ、どうしてだい?」

「だってそんなことになってしまっては私の均整が取れなくなるだろう。
愛着とか、個人的な嗜好とか、そういうものを軽率に持つと、その対象物が私の思考基準になってしまう。最適でない、最良でないもののために、生きようとしてしまう。
そんなことをしていては生産性が、社会活動における能率が、下がるんだ。それはチャンピオンになった私にとって殊更に致命的なこと、価値を失いかねない危険なことだ。
……故に、避けなければならないよね?」

大企業を束ねる社長か、あるいは冷徹な瞳で裏を牛耳る政治家か、もしくは最高精度のAIを埋め込まれたアンドロイドか。
そうした、とにかく常軌を逸した並々ならぬ存在を彷彿とさせる言い方で、彼女はエネコを好きになることをきっぱりと拒んだ。

自己の生産性を欠きたくない。社会における自身の価値を失いたくない。
そうしたもっともらしい思いを正当化するためのツールとして、「チャンピオン」という肩書きは今の彼女に丁度いいものであるように思われた。
事実、その、自らの生産性を維持したいという貪欲な思いと、チャンピオンとしてこう在らねばという意識は見事なまでに調和していた。
彼女の言葉はいつだって淀みなく凛々しいものであったが、今回のこれはあまりにも、……恐ろしい程に美しく、ある種の芸術、歌のようだとさえカブは思ったのだ。

誰かに訴えかけているかのような言葉。誰かに言い聞かせているかのような言葉。誰かに懇願しているかのような言葉。誰かと秘密の約束を交わしているかのような、そうした言葉。
そしてこの場合、その「誰か」というのはこの少女自身のことに他ならない。

そこまで思考を巡らせたカブの足はまたしても止まった。少女は再び歩き始めていた。
振り返ることなく数歩先へ進んだ彼女は唐突にくるりと振り返り、青いニットベレーの下にある顔を、得意気に、寂し気に、歪めてみせた。

「私は、ローズさんのようにこのガラルを1000年先まで愛したりしないよ。キバナさんのように、ライバルを打ち負かすことを10年も夢に見続けたりしない。
ダンデさんのように、ガラルの皆で強くなりたいなどという強欲を働かせたりもしない。私は何を好きになるつもりもない」

「……ユウリ」

「つまらないかな? 人間性の際たるものである愛や執着や欲望を大きく欠いた私は気持ち悪い? 別に構わないけれどね。私は私のやり方で、なんとかやってみるだけだから」

彼女がチャンピオンになってからしばらく経つが、彼女自身はその立場を、その立場に付随してくる役割をまったくもって気に入っておらず、
様々な人物のところに顔を出しては、それまでの彼女の聞き分けの良さからは信じられない程の愚痴と駄々捏ねを零して回っていると聞いていた。
……だが、百聞は一見に如かず。ガラル南部で共にジムリーダーを務めるヤローやルリナから伝え聞いた情報よりも、カブは自ら対峙した彼女の姿から確信を得たかった。
そして、少女がエネコの話題で、うっかりか、意図的なものかは分からないが、とにかく上手に口を滑らせてくれたことにより、その確信が今、手を伸ばせば届く位置に来ている。

「ねえ、大丈夫かい?」

叱責でも落胆でも罵倒でもなく、心配の温度を含んだ懸念の形で疑問符が飛んできたことに彼女は分かりやすく驚きを示した。
ギシ、と錆びた音の幻聴を拾えてしまいそうな程のぎこちなさで首を傾げ、「何のことかな」と呟くのだ。
先程までの、歌うように紡がれていた演説らしき「誰か」への言い聞かせを作っていたのと同じ喉から出てきたとは思えない程に、その声は弱く頼りないものだった。

「だから、その……拘りや好みや愛着を持てないまま生きていくのは、随分と辛いだろう?」

もっとも、その弱々しい声だってその一瞬きりのもので、次の瞬間にはほら、いつもの流暢な語り口に戻っていたのだけれど。

「何も好きにならないというのは、辛いことなの? 私はそうは思わない。
愛着の薄さは私の強さの源泉だ。特定の何かに拘らなくてもいい私だったから、変な執着に振り回されて遠回りなどすることなく、こうして強くなれたんだ」

「……」

「近いうちにこの心が、本当に好きだと思える、愛したいと思える対象を見つけてしまったとして、この強さとその愛着との間で苦しむことになったとして、
……でもそれは、「チャンピオンのユウリ」としての課題ではなく、「私」の個人的な問題に過ぎない。
だからカブさん、貴方のような慈愛に溢れた大人が、こんな子供の些末な葛藤に心を砕く必要なんか、きっと何処にもないんだよ」

綺麗な笑顔でそう言い終えた彼女は、エンジンシティの東門の前で大きく伸びをした。
カブの拠点、エンジンスタジアムはもうすぐそこに見える。
だからカブはわざとらしく歩みを緩めて予想到着時刻を大幅に引き延ばし、今時子供でも躊躇ってしまうような、幼さの過ぎる時間稼ぎをする。

先程の少女の発言、これを受けてカブは確信を手にした。
「この、無敗を誇る少女にとって、チャンピオンとしてガラルの頂点に君臨すること自体は造作もないことであり、彼女の苦悩はその役柄とは全く無関係のところにある」という、
彼女のチャンピオンとしての適性を、その愚痴や駄々捏ねにより訝しんでいた人間にとってはある種の朗報とも言えそうな、有益な確信。
けれども同時に彼はもう一つの確信を得ていた。
そうした愚痴や駄々捏ねを繰り返してまで、「この少女はチャンピオンに不適正である」と周囲に印象付けたかった彼女の、本当の苦悩というものを、
おそらくはこのガラルに住む誰も、これから先、ずっと知る機会を奪われたまま、ただ盲目的にこの若いチャンピオンを信奉していくことになるのだろうという、残酷な確信だ。

自分はもしかしたら、その「苦悩」がチャンピオンの肩書きなどとは全く別のところにあると、少女本人から通達を受けた身として、
その苦悩に触れて支えて寄り添うことができる位置にあるのかもしれないと、カブは一瞬だけそのようなことを考えた。
けれどもその相手が「不要だ」と言っているのだ。表向きは何の問題もないように見える彼女が、エネコを好きになるつもりはないと気丈に笑っているのだ。
ならばきっと、踏み込むべきではない。どうしても介入しなければならない時が来たならそうすればいい。少なくとも今は、その時ではない。

「君が並々ならぬ決意で、その愛着の薄さを武器にしようとしていることは分かった。その決意を否定しようとは思わない。見守らせてもらうよ。
ただ、ぼくの支えを得ることが目的ではないのなら……では何故君は、偶然を装ってぼくに会いに来て、この話を聞かせてくれたんだい?」

ただ、こちらも個人的な疑念を晴らさぬままにこの少女と別れたくはなかったため、少々不格好な質問であることは自覚しながらも、カブは尋ねずにはいられなかった。
彼女は眉をくたりと下げつつ目を伏せて、両手をその薄い腹のところで強く握りしめつつ「狡いことを言うよ」と、彼女らしくはないが子供らしくはある前置きをして、口を開いた。

「セーフティネットが欲しくて」

「……?」

「私のそれが玉砕したとき、ある程度の事情を察してそっとしておいてくれる、貴方のような優しい大人が一人でもいてくださると、その……ひどく救われるような気がしたから」

その言葉の意味を10秒かけてカブは理解した。理解した瞬間、大声で笑い出さざるを得なかった。
ああ、なんだ。なんだ! もうとっくに彼女の腹は決まっているのではないか!
「近いうちに」などと言っておきながら、「この強さとその愛着との間で苦しむことになったとして」などと仮定しておきながら、
もうその時は既に訪れていて、その仮定も既に現実のものとなっていて、彼女は既に十分葛藤し終えていて、あとは歩き出すだけ、といった状況であったのだ!
すなわちこれは、大人であるカブに向けた旅立ちの宣誓に過ぎなかったのだ。

ならば、とカブはにっこりと微笑み直した。ならばもうカブがすべきことなど、一つしか残っていない。

「君の力になれるならとても嬉しい。でもぼくの出番がこれきりであるならば、きっとそれが一番いいのだろうね。……ねえ、今此処で君を応援しておきたいんだ、構わないだろう?」

「応援? 断る理由はないけれど、どういう」

意味かな、と少女が尋ね終えるより先に、了承を得らえたことに浮足立ったカブはすっとその脚を肩幅に開き、腕を背中に回した。
胸を張り、息を大きく吸い込む。その前動作でようやく、カブが何をしようとしているのかを察した少女は制止を掛けようとしたが、もう遅すぎた。

「フレー、フレー、ユウリ! ファイトだ! 思いっきりぶつかってこい! 君なら必ず成し遂げられる! さあ行け、行くんだユウリ!」

「ちょ、ちょっとやめてくれないか、カブさん! 恥ずかしいよ!」

その大声はスタジアムの中にまで届いたのだろう。何事かと訝しんだのか、それともチャンピオンの名前に反応したのかは分からないが、かなりの数の人が通りへ飛び出してくる。
彼等の視線から逃れるべく、彼女は青いニットベレーを深く被り直し、アスファルトを力強く蹴って駆け出した。

いいぞ、そのまま振り返ることなく突っ走っていけ。迷わなくていい。そのまま進め。
嗜好も愛着も全部捨ててその身をガラルに捧げて生きていこうとしている君が唯一、手にすることの叶ったものなんだろう。
必ず実らせるんだ。決して、諦めたりなんかするな。

カブは腰に手を当てその華奢な背を見ながら、無言のうちにそうした祈りをかけていた。けれども彼女の大人びた、律儀な性格上、きっと一度は振り返るだろうなと考えていた。
果たして、エンジンスタジアムの前の三差路で彼女は振り返った。カブの予想通りであった。そして彼女はこんなことを叫んで立ち去った。こちらは完全に予想外であった。

「もし成し遂げられたなら、私、エネコに会いに行くよ。ネズさんと一緒に!」

けれども、分かりやすく捻くれたエネルギッシュな青年と、分かりにくく捻くれたクールな少女との組み合わせは、存外、お似合いであるような気もしたのだ。

2020.6.2


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