Crazy Cold Case


FileE:インクフェイトを削ぎ落とせ

『貴方にだけ、などということ、あれだけ賢い子供なら、ご機嫌取りのために誰にだってそう口にするのでは?
現に、あの子が停滞していることを知っている人間は、君以外にも大勢いるようですよ』

いけ好かない元委員長の言葉がネズの脳裏で木霊する。今一度、舌打ちをしたい衝動に駆られる。
けれども彼が舌打ちをするまでもなく、目の前で勢いよく捲られるページの音が、ネズの記憶の中で嗤うローズの声を掻き消していく。

今日はもう来ないのだろうか、と思いつつ、夕食の調達に出向くために鞄を手に取った瞬間の来訪だった。
これまでにない乱雑さでノックされたドアの向こうから、少女が転がるように飛び込んできて、ネズへの挨拶さえ忘れてずかずかと上がり込み、そして、あの本を手に取った。
ユウリ、と何度か呼び掛けたものの、彼女の鼓膜は機能を失ったかのようにネズの声を受け取らなかった。
瞬きさえ忘れたその瞳は、ページの上で踊る物語、エネコと老人の暮らしぶりを追うことに必死で、ネズのことなど映しもしなかったのだ。

「一体どうしたんです」

「……」

「続きが気になるのなら特別に貸してやってもいいんですよ。ただ持ち帰るにせよ此処で読むにせよ、おれの許可を取るのが礼儀でしょうね。ほら、何か言いたいことは?」

今更、気にしてもいない礼節を持ち出してネズは咎めた。けれども彼女は応答する気配を示さず、ページを捲る手もやはり止まらない。
物語を慌てて追いかけている、というよりかは、何か特定の台詞や文章を探している、と捉えた方がしっくりくるページの捲り方であるように思われた。
ネズはそれ以上、咎めることをやめた。好きにさせてやろうと思ったのだ。

その行為は夕闇の迫る薄暗いリビングで長く、本当に長く続いた。
この暗がりでは目を悪くするだろうと思い、ネズが部屋の明かりを点けたことにさえ、彼女は何の反応も示さず、ただページに視線を突き刺し続けていた。
やがて、裏表紙側に数ページしか残っていないところまで捲り終えた彼女は、そこ、にある事実を確かめるように恣意的な瞬きを幾度となく繰り返し、小さく息を吐いた。

「本当に死んでしまった」

すっと背中の冷える心地がした。吹雪でさえ生温い、と思わせる程の身震いが起きた。
何処でそのような、致命的なネタバレを拾ってきてしまったのだ、という呆れと、一体誰が彼女にそのような惨たらしいことをしたのだ、という遣る瀬無い憤りと、
中盤に繰り広げられる数多の無常観と死生観を経てこそ味わえる死への平穏をすっ飛ばして、彼女が「そこ」へ辿り着いてしまったことへの焦りが、ネズの目の前を暗くした。

「ユウリ、そのエネコは」

ネズを見上げる少女の顔には一切の表情がなかった。人形のような冷たい顔は無言の内にネズの釈明を禁じていて、彼はもう、何も言うことができなくなった。
彼女は長い、本当に長い沈黙の後でふっと息を吐き、ぎこちない笑みを作りながら、本の中ほどのページを大きく摘み上げた。
表紙とそこから100ページほど、そしてエネコの死が描写されていると思しき終盤の10ページほど、そこを表紙と裏表紙共にだらりと宙へ垂れ下げている。
彼女がまだ読んでいないと思しきところだけを、自らの指で摘まみ、こちらへよく見えるように差し出している。
此処に、と凛とした声で彼女は続ける。ネズは己の沈黙を相槌とすることしかできない。

「この中盤、300ページほどの間に起こった何かが、エネコを死なせたのだろう。正確には、この300ページほどを経たから、エネコは「死んでもいい」と思えたのだろう。
『無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない』そう、エネコの言うとおりだ。私も、心からそう思うよ、ネズさん」

「……」

「エネコは平穏のために命を賭した。真理を見つけて、そこへ向かうために抗うことをやめた。すごいよ、エネコは本当にすごい。立派だ。
だってこんなにも呆気なく、世の真理に辿り着けている。たったこれだけで。たった、300ページをのんびりと生きただけで!」

ぐにゃりと彼女の顔が歪んだ。自嘲を示すその表情は、けれども少し尖ったものでつつけば呆気なく崩れてわっと泣き出してしまいそうだった。
ああ、とネズは彼女の言葉を聞きながら思う。
泣き出しそうだ、泣き顔のようだ、泣いてしまえばいいのに、などとしながらも、そういえばまだおれは、君が泣くところを見ていない。

「私はもしかしたら、私の自認している以上に頭が悪いのかもしれない。不器用で、愚鈍で、生きるに値しない人間なのかもしれない」

「それはまた、とんでもない結論付けですね。何故、そんなことを? 聞かせなさい」

沈黙の枷から解かれたネズはすかさずそう尋ねる。一度示された彼女の癇癪めいた激情を恐れることなく、ネズはもっと、と欲張ることができた。
だって、と少女は躊躇うことなく感情の波をネズに向けてくる。
その泣き出しそうな顔、けれども決して泣くことなどないのだろうなと確信できてしまうその表情を真っ直ぐに見つめて、ネズは少しばかり、安堵する。

「私はこの旅で、私の本質を追究することに命を懸けていたつもりだよ。
ポケモンたちとの旅を楽しみながら、いつか私にも、他の皆のように何かを強く望める機会がやってくるのだと信じていた。その選択が私の本質に根付く瞬間をずっと夢見ていた。
でもどうだろう。ムゲンダイナを捕獲し、チャンピオンになり、旅を終えても尚、私はまだ、何一つ選べない私のままだ。自由を恐れ責任から逃げたい私のままだ」

「ええ。……ええ、どうぞ続けて」

「言い訳じみて聞こえるかもしれないけれど、私の旅路は怠惰なものではなかったはずだ。それなりに必死だったよ。私は、エネコよりずっと懸命に生き抜いてきたはずだよ。
それでも、無理だったんだ。エネコが呆気なく辿り着けた場所を、私はどうしても見つけることができないんだ。
それは、私がエネコよりもずっと劣った存在だからではないのかな。これだけ波乱万丈な時を生き抜いても尚、変わることのできない私は、もう無価値なのではないのかな」

もう300ページ分だけ続くと思えた彼女との静かな読書の時間、それをネタバレという最悪の形で奪っていった輩を、ネズは思いきり蹴り飛ばしたかった。
勿論、物理的な意味ではなく心理的な意味での話だ。
ネズへの嫌がらせか、少女への嫌がらせか、あるいはその両方であるかは分からないが、何にせよ、部外者にこの時間を滅茶苦茶にされたまま終わってしまっては悔しいだけだった。
故にネズは、見えない犯人に奪われた時間以上のものを今、この少女との会話で手に入れて、その犯人に「ざまあみろ」と嗤ってやらなければならなかった。
お前のおかげでユウリは前よりずっと元気になりましたよ、ありがとうございます、などと、それくらいのことを吐き捨ててやらねば気が済まなかったのだ。

そうした負けず嫌いの気質もさることながら、きっと彼はただ必死だったのだろう。
もっと吐き出せばいい。もっとくずおれてしまえばいい。もっと曝け出してほしい。いっそ縋り付いてくればいい。
泣くつもりがないのならそれでもいいが、零れて然るべき嗚咽と涙の分だけ思いの丈を開示してほしい。
もっとおれに機会を与えてほしい。君を許せる機会を、君を肯定するための材料をもっとおれの前に並べてほしい。
君は「ごめんなさい」などと笑って何もかも諦めた気になっているのかもしれないが、おれはまだ、そんなもの認める気になどなれやしない。

「真理というものが仮に、命を差し出さなければ見つからないものなのだとして、それならどうしてガラルは私に、命を賭する機会を与えてくれなかったのだろうね。
……ねえネズさん、どう思う? エネコが死に、私が生きている、その運命性の根拠に少しでも心当たりがあるなら教えてほしい。私には本当に、もう分からないんだ」

全てをすらすらと吐き出して、そうしてようやく少女はネズに言葉を求めた。
震え続けていた彼女の喉は、今や夕刻の空気を静かに通すばかりで、細められた目は、二人の間に訪れた沈黙を寒がっているようにも見えた。
ネズは少女の手から本をそっと取り上げて、そのまま肩をゆるく抱き、いつものソファへ連れて行った。くいと手を引けば大人しく座ってくれた。
ネズは隣に腰掛けるのではなく、フローリングに跪く形で膝を折り、彼女を見上げた。

「……おれ如きの答えで君が満足するとも思えませんが、まあ、退屈しのぎにはなるでしょうね」

妹の力まで借りて手に入れた、彼女に手を伸べることの叶う、この機会。
何処の誰とも知らぬ悪趣味な犯人により作り上げられてしまった、彼女の感情を全て発露させるための、この舞台。
ここまで整えられてしまっては、そして他でもない少女が自分の言葉を求めているとあっては、ネズはもう、諦めることなどできそうにない。

「あの本のエネコが死に、君が生きている理由。おれには二つ、思い付きます」

力なくソファに座る少女の両手を握った。やや冷たい温度ではあったがその手首には確かに命の拍動があり、そのことをネズはひどく誇らしく思ったのだ。

「一つは君が求めているもの、追究したがっているものというのは、死ぬことなく生きたまま得なければならないものだから。
追究が終着点であるならともかく、君はその追究の結果を軸にその後もよりよく生きたいと考えているのでしょう。それなのに、追究の段階で死んでしまっては意味がない」

「……納得はできないけれど、理解はできる、かもしれないね。もう一つは?」

「二つ目、こちらはおれの主観に過ぎませんが」

そう前置きして、ネズは小さく息を吐く。
静かに彼の言葉を待つ少女の視線はネズの喉元に突き刺さったまま、そこが次の言葉を震わせるために動く瞬間をただひたすらに待っている。
大量の蜂蜜を溶かした紅茶のような、そうした毒めいた不安と焦燥を孕んだ目、そこにネズの顔が映っていることを確認してから、彼はいたく満足した心地で口を開く。

「君の命が、君の自認している以上に重いからなんじゃないですかね。
エネコよりも、ガラルよりも、この世の真理や君の本質なんかよりも、君の命、君が悩みながらもこうして生きていることというのは、ずっと大事で、かけがえがないものなんですよ」

あの本の中にいるエネコは、ある種の「絶対的な太平」すなわち平穏を求めていた。
その、誰にも侵されることのない平穏の対価として、死は妥当なものだったのではないかと思う。少なくとも、あの本の中では妥当であるという風に描写されている。
けれどもこの少女が求めているのは、そんな大それた平穏などとは比べ物にならない程に、些末でささやかなものだ。
そんなものを手に入れるためにいちいち死んでいたら、命が幾つあっても足りないではないか。

君は死んではいけない。そんなもののために命を賭そうとしてはいけない。
世の真理を得て冷たい水に溶けるのは、その紙の中に溺れるエネコだけで十分だ。

「ねえ、君は立派ですよ。無価値であるはずがない。だからもう、自棄にならなくたっていいんです。追究できないものがあるなら、未解決のままにしておいたっていいんです。
君が、君の言うところの「欠落」を抱えたままであったって、おれはちっとも気にしません」

「……貴方に対して何も求められない、私でも? 苦し紛れの悪態や馬鹿げた駄々捏ねしか吐き出せない、私でも?」

「問題ありませんね」

ネズは即答した。疑問を差し挟む余地を、彼女に与えたくなかったのだ。
二つ返事とはこのことか、と考えながら、その言葉を受けて少女の頬が少しずつ緩んでいく様を、ネズは安堵の心地と共に眺めていた。

「そうなのかな」と呟くので「そうですとも」と返した。「そうだったらどんなにかよかったろう」と歌うので「おれがそうしてやりますよ」と旋律を被せた。
「絶対に呆れないと、幻滅しないと此処で誓える?」などと、くどく厄介なことを尋ねていると自覚した上でそのように問いかけてくるので、
その目を今一度力強く見上げつつ「ええ、誓います」などと、結婚式のままごとめいた言葉まで並べて笑ってやる。

もっとだ、もっと尋ねてこい、もっと縋ってこい。一片の懸念も残すな。全部この場で曝け出していけ。おれは君になら大抵のことを誓える。君になら大抵のことをしてやれる。
おれはただ、君の「貴方だけ」を信じていたいだけだ。君が「貴方だけ」とまで言ってくれた相手に相応しい奴でいたいだけだ。

「私は探究というものについて、何か大きな勘違いをしていたようだね」

上から押さえつけるようにして握っていた少女の両手は、腕の機能をそこで初めて思い出したかのようにぴくりと動いた。
手の平を上に向け、ネズのそれと合わせるように指を引っ掛けてくる。ネズの細い手首を中指の腹で撫でながら、紅茶の色は少しずつ、穏やかに細められていく。

「私が旅の中でがむしゃらに求めていた私の本質というのは、ガラルを救ったり大成したりすることで得られるような代物じゃなかったのかもしれない。
それというのはもっと、ささやかな場面の中にさりげなく芽吹いてくるもの? 例えば、今のこの時間のような?」

「おや、君からそのような希望的観測が出て来るなんて珍しいですね。何か、君の本質とやらを掴めそうな、手ごたえのようなものでも感じたんですか?」

場の空気を緩めるため、揶揄いを含んだ柔らかな声音を努めて出した。
もう一度彼女に笑ってほしいと願ってしまったがための、ネズのささやかな願望が込められた意図的な抑揚の付け方であった。
けれどもそうしたネズの言葉を受けて発された少女の音には一切の緩みがなく、
むしろ、力加減を誤って触れてしまえばぷつんと切れてしまいそうな糸のように、美しくピンと張りつめられていたのだった。
やれやれ、一筋縄ではいかない、とネズは呆れる。それも彼女らしいと許せる程度にはとっくに絆されている。きっと彼女が「貴方だけ」などと口にしたあの日から、ずっと。

「もし、そうだと言ったら?」

2020.5.31


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