どれほどのものに恋い焦がれれば、これだけの数の花を落とそうと思えるのだろう。
花弁の枚数が偶数か奇数かで決まってしまうそれに真剣勝負で挑んだことはまるでなかった。「好き」から始めて花弁が奇数であればいい気分になれるし、偶数で終わり「嫌い」という結論が出そうになったとしても、そういった場合には茎まで数に入れてしまえばいい。そうして花にいい気分にしてもらったところで現実は何も変わらない。所詮は綺麗な花を潰すだけの無益な作業だ。自らの心的問題に整理を付けるためだけに、花の一輪を犠牲にしようとは思えなかった。
一輪、たった一輪でさえ、花を無益に摘んで散らす行為が私は苦手だ。唾棄すべきだとまでは考えないが、好ましくない、とは確実に思っている。自分がするのも、人がするのを見るのも、好きではない。それでも、花を散らした当人が良い気分になれるのならばまだ救いがある。誰かの気分を良くするためだけに摘み取られた命であったとしても、少なくとも今、目の前に広がるこの状況よりは、余程、花にとっても報われる事態であったに違いない。
「セイボリー」
日がどっぷりと沈んだ夜、清涼湿原の崖沿いにその光景はあった。分厚い雲がかかる夜空に星も月もありはしない。代わりに私の目線よりも少しだけ高い位置で、黄色い星がチカチカと瞬いている。小さな花の形をしたそれは踊っているかのような身軽さでふわふわと宙に浮き、光を放っていた。淡い水色の光。「彼」の指揮を受けているというあからさまなサインは、暗がりの中ではより一層目立つ。一人になりたくて道場を出てきたはずなのに、これでは見つけてくれと言っているようなものだ。助けてくれと、言っているようなものだ。
「セイボリー、そこにいるんだろう?」
ぱっと、花達が弾けるようにその花弁を散り散りにする。きっと彼が人差し指で残忍な指揮を下したのだ。額の根本から綺麗に抜き取られたもの、破くような乱雑さで切り裂かれたもの、全てが曇り夜空を背景にぴたりと静止する。やがて淡い水色の光を失った黄色い花弁は、木の葉がひらひらと落ちるのよりもずっと緩慢な速度で、曇り空を映した灰色の湿地の上に降った。少しでも風が吹いていれば、彼の犯行の象徴たる無残な花弁、彼の気持ちを何も救わない花占いの残骸は、そのまま海の方角へと押し流されていただろうけれど、穏やかな夜の空気はその惨状を彼の眼下に晒すことを選んでいる。今夜は気候さえも彼に厳しく振る舞っている。
その全てがどうにも痛々しい。見ていられない。そのはずなのに私は目が離せない。光を失い沈黙した黄色い星から。湿地を彩る死した花弁から。その湿地のすぐ近く、夜の最もくらいところに腰を下ろし、膝を抱えてこちらを睨み上げる彼、その人から。
「ねえ、本当にごめんなさい。私のせいで怒っているんだよね」
「フッ、なんのことです? さあもうお帰りなさいな。あなたなぞに迎えに来てもらわなくとも、あなたの2億倍お利口なワタクシは、しばらくすればちゃんと道場へ戻りますよ」
彼の眼鏡が意図的に曇る。左の口角だけくいと大きく上がる。私の2億倍お利口だという彼は、けれども私の3億倍、強情でもある。この様子では決して私の謝罪を受け入れようとはしないだろう。そして彼の言うところの「しばらく」が経過するまでに、またこの湿地にある花々が散らされていくに違いないのだ。
向上心の有り余る彼とは、ここ最近、毎日のようにポケモンバトルをしていた。進化して水タイプの付いたウーラオス、彼の特訓の場として、私も彼とのバトルにはかなりの有意義性を見出していた。それでも今までウーラオスが負かされることなどなく、彼のポケモン全員を相手に日々辛勝を収めていたのだ。ウーラオス一匹、という縛りを設けて挑むことで、私は彼とのバトルにある程度の本気を出すことができていたし、そうして得る勝利はそれなりに、喜ばしいものだった。そう、苦戦しつつも私達は勝っていた。これまではずっとそうだった。けれど今日は違った。ダイマックスしたセイボリーのガラルヤドラン、彼の放った一撃が、気高きウーラオスに膝を付かせたのだ。
ヤドランとセイボリーは、それはそれは喜んだ。一方の私は、それはそれは焦った。
何とかして次のポケモンで決めなければ、戦い抜いたウーラオスに合わせる顔がない。そうした思いで繰り出したのが、ヤドランに相性有利なヨノワールであったのがよくなかった。加えて、咄嗟に出した指示が、よりにもよって毒タイプの対策用にと最近覚えたばかりの「サイコキネシス」であったのが殊更に、そう、いっそ致命的なまでによくなかった。
エスパータイプを専門としており、自身も超能力ことエスパーパワーを惜しむことなく発揮し周りに見せつけている彼、エスパーのプライドが服を着て歩いているようなこの人から、よりにもとってエスパータイプの技で勝利をもぎ取ることが、どれほど彼の自尊心を傷付けるかは想像に難くない。つまりはそういうことなのだ。彼がこのように花への残忍な行為を働いているのだって、私の3億倍の強情を発揮し膝を抱えているのだって、元を辿れば私のせいなのだ。
勝ちを譲れなかったとしても、もう少し配慮があって然るべきだった。彼にとって何かしら実りのある戦い方で勝つべきだった。「得るものはありました」と「付き合ってくれてどうも」と、バトルが終わる度に掛けられるその言葉。悔しさと感謝とほんの少しの穏やかさを混ぜこぜにした複雑な水色が、ふっと細められるあの瞬間。いつも私に向けられるそれらが今日はなかった。当然だ。その言葉もその表情もほかならぬ私が潰したのだ。私の戦い方が潰した。彼のプライドごと、ズタズタに。
「……あの、本当に、君の怒りはもっともだと思う。私はとても失礼なことを」
「ハイハイ! よく分かりました。ワタクシはちゃんと戻りますとも、あなたが立ち去った後でね。これでよろしいか?」
「……」
「戻りますとも。戻るしかない。優秀なあなたとは違って、もうワタクシにはあの場所しか残っていないのですから、ね!」
バシャ、と勢いよく水飛沫が上がる。一組の男女が波打ち際で海水をかけ合うような、私の母が好んでよく見る恋愛ドラマにありがちな優しいものではなく、それなりに威力の高く、鋭く、冷たいものだ。黄色い花弁の混じった水は、自然の中にある状態であっても勿論、透き通った綺麗なものに違いなかったのだけれど、彼の超能力によって持ち上げられ、意思を持った生き物のように動く様は、自然が持つ純朴な美しさとはやはり一線を画していた。夜の色を失った水、テレキネシスの対象となったことを示す淡い水色の光を湛えたそれに対する称賛、その美しさを表せるだけの言葉を私は持たない。語彙力も、表現力も、何もかも彼の力の前には足りない。口惜しいことだと思いながら、私は顔を背けることも、目を閉じることさえせずに、その水を正面から受ける。彼は自らの手を傷めずに私をぶつ方法を知っている。この光る水はその方法の、きっとほんの一つに過ぎないのだろう。
彼の激情のはけ口になれていると解釈するならば、悪い気分ではない。ただやはりどんなに綺麗であったとしても「水」には変わりなく、顔を背けるという防御を行わなかったツケを私は払うことになってしまった。僅かに鼻から気道へと入り込んだそれを追い出すため、背中を折って大きく咳き込むこととなったのだ。首を掴み、三回、四回と絞り出すように空気の塊を吐き出し、鼻の奥を突き刺すような痛みと息苦しさがなくなったことを確認しつつ、涙目で顔を上げれば……ほら、当たってほしくなかった予想が当たっている。
かなり体を張った行動であると自負していただけに、この八つ当たりで彼の気が少しでも晴れればと少しばかり期待したのだけれど、彼は満足そうに笑うどころか、その眉をこれ以上ないくらいに下げて、愕然とした表情でこちらを見ているだけだった。まるで彼の側が平手打ちを食らったような、ひどく傷付けられたような表情だった。さて困ってしまう。途方に暮れてしまう。そんな顔を、させたかった訳ではないのだけれど。
ひどく子供っぽい、癇癪めいたこの様相に振り回されているという自覚はある。ただの癇癪ならまだしも、それが凡人の私には理解さえ及ばないような、常軌を逸した力によって起こされてしまうのだから余計に質が悪い。けれどもその質の悪さを苦く噛み締め、厄介事は御免だと距離を取れる機会を私はもう随分と前に失している。捻くれていたいならお好きにどうぞと突き放せる程、私はもう彼から遠くない。彼が独りで傷付くことを私は望まない。
「ワタクシに会いに来ること、ミセスおかみに止められなかったのですか」
「止められたとも。一時間もすれば戻ってくるからと。追いかけたところで私が不要な傷を被るだけだと」
「そうと知っていながら何故来たのです。さっさとお戻りなさいな。ワタクシのエスパーパワーに骨でも折られたいのなら止めはしませんがね!」
「折ってくれるの?」
ポト、ポト、コロコロ。そんな軽い音を立てて、シルクハットの周りを飛んでいたボール達が一斉に落ちていく。超能力がぷつりと切れたことから、彼が動揺していることは誰の目にも明らかであったけれど、それ以上のことはやはり分からなかった。「ヒャア」とか「フンヌゥ」とか、いつものように分かりやすい悲鳴を上げてくれればいいのに、と思った。こちらが反応を求めている時に限って彼は沈黙する。そうした狡さに、けれども私はもう苛立つことさえできやしない。
「おふざけが過ぎます、ユウリ。質が悪すぎる、ワタクシにさえ勝る程です」
「冗談で言っている訳じゃないよ」
顔に付いた水と黄色い花弁を手の甲で拭ってから、私はそっと水辺へと足を沈め、慎重に彼へと歩みを進めた。靴に染み込む水がくすぐったかったので、努めて笑みを作ってみる。そんな私とは対照的に、彼は傷付いたように眉を下げ、いっそ泣き出しそうな表情になってしまう。私は焦り始めていた。
私は、私の捧げられるもの全てで彼の憂いを取り払いと願っている。そのためなら大抵のものを手放せる。けれどもそうして差し出したもの全てが彼の首を絞めている。彼の傷を癒すどころか、むしろそこに塩を塗るような所業しかできていないことを、その表情が克明に知らしめてくる。私はそれを噛み締めて、ほんの少し絶望する。でももう一度、もう一度言葉を尽くせば届くのではないか、などという、限りなく可能性の低い事態を望む私の心が、またしても「わるあがき」を始める。
「何の罪もない花がこれ以上摘み散らされずに済むのなら、君がそれで落ち着きを取り戻してくれるなら、私の骨なんてちっとも惜しくない。君の気が済むまで、幾らでも」
「だ、黙りなさい!」
腕を差し出しかけた私の前で、それより先に彼が右腕を鋭く突き出す。たったそれだけで、彼は触れることなく私を文字通り「突き飛ばした」。私の体に未知なるエネルギーが唐突に埋め込まれて、それが私の意図の関せないところで勝手に爆発したような感覚を瞬時に覚えた。そうした奇妙な衝撃が私の体を僅かばかり浮かせて、そして直後、黄色い星の散る浅く冷たい水辺へと叩きつけたのだ。バシャンと、先程とは比べ物にならないくらいの水音が鼓膜を強く揺らしていった。この現象を実際に目にするのは、いや、実際にこの身に受けたのは初めてだった。
「あっ」
この体に何が起こったのか、などということ、彼の2億分の1しか利口さを持ち合わせていない私が考えずとも、彼が呆然と零したその一音があまりにも克明に示している。私はたった今、彼の「テレキネシス」の餌食になったのだ。
彼の顔色が、この暗がりでも分かる程にはっきりと変わる。彼の息が、少し離れたこの距離からでも分かる程に大きく震える。恐怖、後悔、罪悪感、そうした諸々が彼を容赦なく掻き乱していた。私は彼が今度こそ本当に泣き出してしまうのではないかと思った。
水辺へと投げ込まれた私の手や足や服や鞄に、彼が散らした黄色い花弁が纏わりついている。無残に使い捨てられていった花々、何の益も生まない花占い。これ程までに多くの花を散らせなければならないほどに彼が焦がれていたものとは、何だったのか。私はそれが分からないでいる。それでいて、そんなことも分からない私だからこそ、彼にこんな顔をさせているのだということだけは分かってしまっている。
私が彼に付けてしまった傷は、もう一生癒えることなどないようにさえ思われた。私はそれだけの罪を犯したのだと、この瞬間、そう覚悟した。
「ユウリ! 大丈夫ですか!」
「!」
けれども彼はそうした、彼自身の情動になど構いもせず、草むらに手を付いて勢い良く立ち上がった。そして、お気に入りと思しき踵の高い綺麗な靴が濡れることも厭わず、黄色い星の降る水辺を踏みしだいて駆け寄って来たのだ。水の上、尻餅をついた状態で沈黙する、どこまでも軽率でどこまでも愚蒙な私のところへと。とんでもない重罪さえ犯した私を、気遣って。
「その、す、すみません。そんなつもりでは」
「……セイボリー」
「ワタクシはなんてことを! よりにもよってあなたに、このような」
これこそが、彼が過去に起こした「問題」であり、彼があの道場に身を寄せるようになった理由の際たるものである。ジムトレーナー時代には、敗北を喫する度にその対戦相手へ軽い暴力紛いのテレキネシスをお見舞いしていたという。彼はそのせいでエスパージムを追われた。けれども長く道場で過ごすうちにこうした問題はほぼなくなった、という話を、私はつい先日、ミツバさんと食べた朝餉の席で耳にしたばかりだった。
彼にとってヨロイ島は真に楽園であった。優しい皆のおかげで彼は落ち着きを取り戻していた。そこに現れたのがこの私だ。私は配慮の足りないポケモンバトルで彼の矜持を砕くだけに飽き足らず、軽率に踏み込んで、挙句彼に、こんなことまでさせてしまった。
「怪我はありませんか? 痛むところは」
「ごめんなさい!」
水辺に膝を折り、視線を合わせてくれた彼に対して告げられる言葉など、私にはもうこれくらいしか残っていなかった。
傷付いた彼を放っておくことができずにやって来たにもかかわらず、私の言葉は彼を益々切りつけるばかりで、彼の情動を掻き乱すばかりで、何の役にも立っていない。あまりにも悔しかった。あまりにも情けなく、あまりにも申し訳なかった。そして何より救いようがないのが、「では、どうすればよかったのか」という解決法を、打開策を、この期に及んで何一つ見つけることができていないという点であった。
「あの、もし? 何故あなたが謝るのです?」
「……ごめんなさい」
壊れたラジオでももう少しマシな挙動をするだろう、と思える程に、情けなくも私はそればかりを再生した。本当に、もうどうしようもなかったのだ。
私はただ、私が君に付けてしまった傷の分だけ引き取っていければそれでよかったのに。君が「いつかワタクシもあなたのように」と言ってくれた、そんな私で在りたかっただけなのに。
2020.6.22