1-2:月の筏をつくる指

「黙れ、とは、言わないんだね」

 冷たい水辺に体を沈めたまま、起き上がることを完全に放棄した私は、目の前で寄る辺なさそうに立ち尽くしている彼へそう話しかけた。
 相手に対しての言葉であるはずの謝罪も、此処まで壊れたように繰り返せばそれは自分、すなわち私のための言葉でしかなく、最後の方はもう、ただ意味を為さない呻き声のかたちを為すばかりだったというのに、彼は最後まで制止をかけなかった。私が「ごめんなさい」と言い疲れるまで、彼はずっと泣きそうな表情のまま、私のそれを、聞いていたのだ。

「あなたはワタクシのしたいようにさせてくださった。水で頬を打っても体を突き飛ばしても、文句ひとつ言わなかった。だからあなたが謝り続けていたいのであれば、ワタクシも、止めるべきではないと思ったのです」

 そう答えつつ、彼は私の隣に腰を下ろした。浅い水辺であるとはいえ、足を投げ出すようにしてそこへ座れば衣服は全てびしょ濡れだろうに、彼はちっとも気にする素振りを見せなかった。
 冷たい水をたっぷりと吸った彼の靴は、きっと乾くまでにかなりの時間を要するだろう。彼は明日、トレーニング用の白いスニーカーで一日を過ごすつもりなのだろうか。そう考えて私は少しだけ不安になる。エレガントを信条とする彼が、踵の低い靴で外を歩くことをよしとするとは思えなかった。けれども彼はその、お気に入りと思しき靴を水から庇うような真似はせず、むしろ靴下の部分までずぶずぶと水辺に沈めるようにして足を伸ばし、少しだけ朗らかに笑ってみせた。

「気は済みましたか? ……ああ違います、意趣返しをしているという訳ではなく!」
「うん、分かっているよ。ありがとう」

『君の気が済むまで、幾らでも』
 意趣返し、つまり恨みを晴らすための行為……とは先程、このように告げて、だから私の骨を折ればいいと促したあれのことを言っているのだろう。あれは随分と彼の気分を害する発言であったようだ。けれどもまたあれは、私への感情を憎しみや恨みで埋め尽くすほどに悪趣味なもの、という訳でもなかったようだ。
 私の気が済むまで付き合ってくれるこの人に、私も何かしてあげられればいいのにと、本気でそう思っている。でも彼は私の骨などちっとも欲しくない、むしろ迷惑だとさえ思っているようである。……やはり、手詰まりだ。私がこの人に対してできることが、どれだけ思考を巡らせても思い付かない。

「それで? あなたは一体何に対して謝っていたのですか?」
「え? それは勿論、君に対してだよ。君にこんなことを私がさせた。君にとって嫌な言葉を私が投げた。だから」
「そちらではなく! 此処へ来たときに開口一番、あなたは謝ったでしょう。あちらのことを聞いているんですよ」

 水辺の上で黄色い花をふわふわと飛ばせていたあの光景が思い出される。随分と前のことのように感じていたが、時間にしてみれば僅か数分前のことだ。
 先程までの謝罪は、平静を欠いた私のための言葉であるという卑怯な意味合いがとても強かったけれど、一番初めに彼へと告げたそれは、紛れもない、彼のための言葉であったと断言できる。彼の怒りを鎮めたかった。そのためには私が非を認めて頭を下げる他にないと思った。それはだって、当然のことではないのか? そんな当然のことに対して、どうして彼は今頃、拘っているのだろう?

「いや、だってあの時、私のせいで君は怒っていたのだから、謝るのは当然のことだろう? 配慮が足りなくて、君に不快な思いをさせてしまった」
「配慮? ……フッ、あはは、配慮! 配慮ですって?」

 彼は顔を歪めて笑った。皮肉めいた、いつもの、左の口角だけをぐいと上げたアシンメトリーな笑顔だった。けれども眼鏡は白く曇ってなどおらず、大きく見開かれた水色が真っ直ぐに私をその視線で刺しているのがとてもよく見えた。まるで「ワタクシから目を逸らしたりしたら許さない」と、言っているかのようだった。

「相変わらず、不愉快極まりないことを言うのがお上手ですね! 此処はいつから虫唾のランニングパーティになったんです?」
「……えっと、君の神経を逆撫でさせたい訳じゃなかったのだけれど」
「ハッ! あなたは本当に、何も分かっていない!」

 右手の人差し指がピンと伸びる。黄色い花の散る水辺が、まるで大きな石でも投げこまれたかのように大きな歪みを見せ、バシャバシャと大きな波を立てる。手負いのイワンコが威嚇をするような、あるいは獲物を逃したマッギョが乾いた土に八つ当たりをするような挙動だった。
 けれども彼はもう、その水を私に飛ばしてきたりはしなかった。代わりに彼が飛ばしてきたのは、こんな言葉だ。

「配慮! そうだ、配慮だ! 配慮が必要なんですよあなたにとっては! ワタクシとのポケモンバトルにあなたは配慮を必要としているんだ! その程度なんだ、あなたにとってのワタクシというのは!」
「えっ、あのセイボリー。待って、私はそんな」
「ワタクシはどんな手を使ってでもあなたに勝ちたいと思いさえしたのに、あなたの考えていることと言ったら、ワタクシの矜持をどのように守りつつ、角の立たないように勝利するかといったことばかりだ! そうでしょう! 違うとは言わせません!」

 それは、いっそテレキネシスでもう一度吹っ飛ばされた方が幾分かマシだと思わせる程の強烈な威力を孕んでいた。私はとても恥ずかしく、悲しく、恐ろしくなって、……でも彼の視線は相変わらずこちらに刺されたままだったから、やはり目を逸らすことができなかったのだ。
 超能力という、常人には理解の及ばない力を使いこなし、その力を己の矜持として惜しまず発揮してきた彼。その激情に任せて相手を浮かせることさえあった彼。けれども彼が寄越してくるどんな力よりもずっと、私は「それ」に堪えていた。未知の過ぎる「超能力」という力で傷を負うことなんかよりも、既知の過ぎる「言葉」という力で私の心を割り開かれることの方が、ずっと痛く苦しかった。

「バトルだけじゃない。全力で足掻いているのはいつだってワタクシの方です。あなたは配慮などという上品な言葉で、かたく身を守っているだけではありませんか!」

 彼は怒っている。私は傷付いている。彼がこれ程までの激情を露わにして、私に何かを訴えようとしているということは分かる。私の何かが致命的に間違っていたのだということは、流石に察することができる。
 彼は私の配慮を嫌っている。私の配慮は彼を慮るためのものであり、私の身を守るためのものではなかったはずだ。でも結果としてそうなっている。彼がそう解釈したのだから、それこそが彼の真実であり、私のどんな釈明だってきっと届きやしないだろう。

 でも、まだだ。まだ分からない。
 彼のためになるものであれば私は持てるものを厭わず差し出すつもりであり、そこに自らの骨を含むことは私にとって損失でも何でもなかった。彼になら大抵のものを差し出せる。本気でそう思っている。でも彼はこんなにも憤っている。私が差し出せる「大抵のもの」の中に、彼の望むものが入っていないからか、あるいは私が差し出そうとしているその姿勢がそもそも、間違っているのか。
 答えを出せないままぐるぐると考え続ける私に、けれども彼はまたしても、驚くべき言葉を飛ばしてくる。

「ワタクシは今日、嬉しかった」
「えっ」

 途方に暮れる私の、混乱に揺れる視線の先で、彼が水色の目をそっと伏せた。そして、穏やかに笑った。先程までの激情をほんの少し恥じるような、私の「配慮」を小馬鹿にするような、そうした笑みだった。左の口角はもう不自然に上がっておらず、ただ綺麗な形で彼の顔にすっと三日月を描いていた。
 再びこちらを真っ直ぐに刺す水色にはもう、視線を逸らすことを禁じるような気迫はなかった。それでも私は動けなかった。強迫性の欠片もない、柔らかな懇願めいた水色だったからこそ、私は逸らすことができなかったのだ。

「あなたの二体目を引き出させることが叶って、嬉しかった。その後であなたが本気を出し、ワタクシのエレガントさんが完膚なきまでに叩きのめされてしまったことだって、悔しさこそありましたがそれ以上にやはり、嬉しかった。あなたの本気に対峙できたと確信できたからです」

 そうだったの?
 身を乗り出してそう尋ね返したかった。私が、罪悪感と羞恥と後悔とに苛まれていなければ間違いなくそうしていた。
 私のウーラオスがあのフィールドに膝を付いたとき、彼とヤドランが「喜んでいる」ということは分かった。けれどもそれは勝利により湧き出る当然のものだと思っていた。そこにどのような意味が含有されていたか、などと探りを入れるだけの余裕はあの時の私にはなかった。

「ああ、なのに……ふふ、あなたときたら! ひどく罪悪感に満ち満ちた顔をして! 全力で戦ったことを悔いるような、不愉快極まりない顔をして! ワタクシがどんなに嬉しかったか、知ろうともせずに、俯いて……」

 そうだ。私はただ必死だった。勝たねばならないと思った。どんな手段を使ってでも。そうして必死に戦って、勝つことができて、勝ってしまって。
 その「勝利」こそが、彼を傷付けたのだとばかり思っていて。

「こんなにも分かりやすいワタクシの喜びにさえ気が付けない、そんな使えない配慮ならいっそのこと、ザクザクに切り刻んでヤドンのおやつにでもして差し上げれば如何か!」
「……セイボリー、私は」
「あなたの配慮は、献身は、いつだってとんだ的外れなんですよ! お分かりいただけますか、ユウリ!」

 でも、そうではなかった。彼が懇切丁寧に説明してくれたおかげでようやく分かった。ひどく傷付いた彼に、私が傷付けた相手である彼に、ここまで言わせなければ自らの罪を理解できない私が、とても恥ずかしかった。
 とうとう彼の目を見ていられなくなって、私は青ざめた顔をさっと逸らし、深く俯いた。私は何も言えなかった。謝罪の言葉を紡ぐ勇気さえなかった。彼もまた沈黙していた。風の音がやけに甲高く聞こえた。

 ちゃぷん、と水辺が揺れる。黄色い花がひとところに集まっていく。暗い水辺に大きな星が出来る。更に集まり筏になる。彼の人差し指がくるくると動いている。その水色が随分とやわらかであることから、彼が自らの無残な花占いを悔いているのだということが分かる。何にも報いられることなく死んでいったそれらを、弔っているようにも見える。
 私はいてもたってもいられなくなって、慌てて自らの顔や服や鞄に付いた花弁を、目につく限り全て外して、水辺へ流した。彼は私の急な挙動に驚いたようで一瞬、その指を止めたけれど、やがていつもの得意気な表情になって再び指を動かし、私が流した花弁もその筏の仲間に加えてくれた。心臓が溶けるような心地を覚えた。

「……その、言い過ぎましたよね。すみません」

 私は大きく首を振った。何度も振った。彼は眉を下げて笑った。黄色い筏は更に集まりを大きくした。月にさえ化けそうであった。
 ジョウト地方という場所には四季がある。ある特定の季節には、川に「花筏」と呼ばれる、ピンク色の花弁の塊が見られるらしい。とても綺麗だと聞き及んでいるけれど、私にはこの水辺に浮かぶ黄色い筏で十分だった。むしろこれを占有できることに勝る幸福はないのではないかとさえ思えた。いつかジョウト地方に赴くことがあったとして、そこで見る花筏とやらがどれほど美しいものだったとして、それでもきっと、彼の指揮により漕ぎ出されたこの「月筏」には、及ばない。

「あなたの骨など折りたくありません。ワタクシはそのような野蛮な形であなたに勝利したいとは思いません。ワタクシの欲しくないものばかりあなたは差し出してくださる。ワタクシはただ、全力で戦ってくれるだけで、本気で向き合ってくれるだけでよかったのに」

 全力で、本気で向き合う。……そんな相手に、どうして君はよりにもよってこの私を選んだの?
 そう、問い返したかった。でも、喉が潰されたような息苦しさを覚えている今、そのたった一言さえ発声できず、私は沈黙を引き延ばした。

 この人はジムリーダーになりたかった。そのためにこの道場で力を付けなければならなかった。私というイレギュラーな人間の登場により、彼の努力する才能が開花したのはとても喜ばしいことだ。彼はこれから少しずつ強くなっていくはずだ。そう推察できるに足る実力が今日のバトルには見えていた。
 彼の夢を叶えるためにはサポートが必要だ。そのサポートを恒常的に提供できる人間が必要だ。彼の矜持を尊重しつつ、彼の努力の芽を摘まぬよう、絶妙な距離で彼の向上心を刺激し続けられるような人間が。私はそれになりたかった。そのための振る舞いを決して崩さなかった。それこそが私の為した「配慮」であるはずだった。私の「配慮」はある程度、適正であったはずだ。

 でも、彼はそんなものを要らないと言う。そして代わりに別のものを求めている。いや、要求している内容に大差はないのかもしれないけれど、たった一点だけ異なるところがある。
 私はその「サポートの提供者」になれたことを僥倖だと思っていた。私がそうなれたことは「幸運」であるのだと感じ、気紛れな運命とやらに感謝しさえした。私がその提供者としての適性を発揮できる限りは、彼の傍にいる権利があるのだと、そんな風に認識し、驕っていた。だからこそ、「提供者」として適正であり続けようと思った。彼を支えるために、彼の傍にいるために。
 でも彼は不思議なことに、自ら望んで、その「提供者」に私を据えようとしている。彼に優しくしてくれる人などこの島には大勢いるし、指導者としてこれ以上ない人までが彼の味方をしてくれている。にもかかわらず、彼はよりにもよって私、他の誰でもなくこの私に、全力を出すよう要求している。私が多少、その「提供者」に不適正であったとしても、それでも彼は対峙する相手に私を置くことを決して諦めない。私をそこから外す選択肢を、彼は微塵も考えていない。

 彼がどうしてそのような、非合理なことを願っているのかは分からない。でも、もしそれが、私の理由と重なるものであったなら。彼の「いつかワタクシもあなたのように」という言葉に相応しい人で在りたいと望む理由。彼への「サポートの提供者」になれたことを嬉しいと思う理由。私が流した花弁の欠片を月の筏に加えてくれる、その行為に涙が出そうな程の安堵と歓喜を覚える理由。それらとぴったり重なるものであるならば、どんなにか。

『ワタクシはただ、全力で戦ってくれるだけで、本気で向き合ってくれるだけでよかったのに』
 顔が赤くなる。目の前が歪む。息を吸う音が震える。月が出来上がる。

「君と全力で戦う相手、君と本気で向き合う相手、それは」
「……ええ」
「それは、私でなければいけなかった?」

 今度は、きちんと声の形として押し出せた。
 彼は私の問いに答えようと口を開き、……そして、回答ではなく大きなくしゃみを零した。その衝撃で彼の指揮が崩れ、水辺に集まっていた花弁の月はほんの少しだけ、欠けた。

2020.6.24

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