800歩先で逢いましょう(第三章)

5

「おや、向かいのブロックに師匠とホップがいるね。あの二人ならきっと決勝まで勝ち上がって来るだろう。楽しみだなあ」
「い、いやそんなことよりユウリ! あなたが挑発めいた一報を入れたせいで、とんでもない二人組がワタクシたちの初戦の相手になっているのですが!?」
「当然だよ、そうなるように呼んだんだ!」

 シュートスタジアムの控え室に響くセイボリーの悲鳴と、得意気な彼女の笑み。初舞台はもう数分後に迫っている。ユウリが先日「貴方と戦いたい」などと元チャンピオンに打診したおかげで、ダンデの側でも相当の意気込みを持ったらしく、トーナメント表、ダンデの名前の隣には、彼の十年来のライバルでありトップジムリーダーでもあるキバナの名前が堂々と鎮座している。ライバル同士が手を組んで勝負を挑むという「絵面の良さ」も考慮した、実にオーナーらしい人選であるとセイボリーは思った。
 ユウリはおそらくただ単に、仲が良いんだなとだけ思っているのだろう。それでいいと思った。まだそういう頭の良さを発揮してほしくはなかった。まだ彼女に、そういう「集客性」を考慮してペア相手を選ぶ思考を持ってほしくはなかった。そんなもので選んでしまえば、おそらく自分は近いうち、弾かれてしまうかもしれないから。

「凄いね、この二人に勝てば私達、あのダンデさんとキバナさんを超えるライバルコンビになるんだよ」
「たった一勝で?」
「そう、たった一勝。此処は『そんなもの』で盤がひっくり返る惨い世界なんだ。だから負けてなんかいられない」

 勝つことが当然となっているような彼女の臨戦においても「負けられない」というプレッシャーが常に付きまとっているという事実をセイボリーは改めて知る。これからセイボリーは彼女と同じ舞台に上がり、彼女が一人で戦い続けてきたもの全てに触れることになる。
 自分に耐えられるだろうか。彼女ほどの人でさえ耐えかねるものだった得体の知れないあれやそれに、自分が太刀打ちできるとはとても思えなかった。
 そう、おそらく無理だろう。一人ならば。あの通路の向こうへ向かうのが彼一人であったならば。

「一緒に勝つよ。勝ってあの二人を超えて、彼等の届かないずっと遠くへ行こう」

 あなたがいる。それだけで、セイボリーの盤はいとも簡単にひっくり返ってしまう。

「あの、ところであなたはワタクシに、あのダンデにとってのキバナのようになってほしいとお考えで?」
「いや全然?」
「んなっ?」
「私だけに固執してほしいとは思わない。君にはガラルという土地の縛りさえ受けてほしくない。だからこんな形で君を誘ってしまうこと自体、本当は不適切なのかも」

 聞き分けがよく品行方正であった普段の彼女を思わせる発言がひどく懐かしく、そして少しだけ苦しい。そんなことを考えなくてもいいのに、と思ってしまう。ずっと質の悪いままでいてくださればいいのにと考えてしまう。けれども驚くべきことに……そうしたセイボリーの小さな願いを、彼女は次の瞬間、困ったように泣き出しそうに笑いながらするりと叶えていくのだ。

「でもごめんねセイボリー、君を縛ることを許してほしい。今の私は君以外の人と隣で戦えそうにないんだ。君以外が隣では、誰であっても私、きっと独りのままなんだ」

 私のフィールドでの孤独は君でしか埋まらない。私の戦い続けることによる傷は君でしか塞げない。そうした趣旨の言葉を申し訳なさそうに紡ぎ、くたりと眉を下げつつこちらを見上げる。
 それはいつもの彼女が唐突に発する、少々恥ずかしい告白めいた「君でなければいけない」という常套句、あれと同じ趣旨の言葉である。ではあるが、それ以上に……強者で在り続けた彼女が初めて発することの叶った、小さな、けれども確かな「弱音」だったようにも思われた。

「今だけでいい、今だけでいいから私の手を引いて、しっかりしろって言って。あの恐ろしい場所で一緒にみんなに見られていて。一番近くで私を見ていて」

 場違いな感情ではあるが、嬉しい。セイボリーにはその弱音と懇願が嬉しくて、とにかく嬉しくて堪らない。自分は誰かに頼られるだけの人間で、誰かに甘えてもらえるような価値のある人間なのだと認識できることの幸福。その誰かが他ならぬ彼女であるならば、もうそれは至福と言い換えて差し支えない。これ以上の誇りと喜びをセイボリーは他に知らない。
 もしかしたらあのフィールドで彼女の隣に立つこと以上に、今この場で彼女がくれる全ての方が、今後の彼の記憶には色濃く留まってしまうのかもしれなかった。それ程の衝撃であり感動だったのだ。彼女が手を引くためではなく、手を引かれるためにセイボリーを呼んでくれる状況というのは。

「私が腑抜けていたら笑って、叱って、背中を叩いて、傍にいて。いなくならないで。どうか、どうか君だけは」

 だからこそ、彼女が「君だけ」「君でしか」と繰り返してくれるその言葉に、本当にそうだろうかと彼は疑いたくもなってしまう。
 そんなはずがない。このガラルがあなたのような人を独りにしておくはずがない。あなたの手を引き、激励を贈り、背中を支えたい人間など、ワタクシの他にも大勢いるはずだ。それこそ、ダンデやキバナや他のジムリーダーだって、ホップやシショーだって同じ気持ちだろう。このガラルには彼女のことを好きな人間が大勢いる。もっと相応しい人物が、もっと上手にユウリを導ける人物が、セイボリーの知る限りだけでも、大勢。

 適任は他に沢山いる。もっと強い人間がもっと力強く彼女の手を引いた方が安心できるはずだ。彼女にとっての最善を選び取れる人間はおそらく、セイボリーではない。

「ええ、ええ分かりました。行きましょうユウリ」
「うん」

 それでも尚、あなたが、ワタクシでなければいけないと、ワタクシ以上の人は何処にもいないと言ってくださるのなら。あなたが最善ではなく最愛を理由にワタクシの手を取ってくださるのなら。
 ならば、ならばどうかお覚悟を。ワタクシはこの役目を、運命を、絶対に手放さない。

「ほら、そんな暗い顔をしないで! ワタクシの晴れ舞台でこそありますが、これは本来あなたのための舞台です。あなたを目指して更に強くなった者たちが、あなたと戦える瞬間を今か今かと待っているんですよ。そんな『ご期待』には、全力で応えて差し上げなければ。そうでしょう?」

 期待に応えられないことを苦しみとしていたことなど承知の上で、その苦しみをなぞるようにそう激励する。傷口に塩を塗り込むような質の悪さを、けれども彼女はきっと笑って喜んでくれるはずだという、そんな傲慢な確信がなければ出てこない言葉だ。
 果たして「そうだね、その通りだ!」と安心したような笑顔でこちらへと手が差し出される。安堵しつつ取ったものの、彼よりも一回り小さなその手は驚くほど白く、そして震えていた。世界ごと捨てて逃げ出したいと願ってしまうほどであった恐れ、その一端にセイボリーはようやく触れることが許されたらしい。
 今度もし、このようなことがあった折にはもっと早く知ってみせよう。あなたを独りにする時間が一秒でも少なくなるように。

「ねえユウリ、ワタクシ絶対に譲りませんよ。この役目も、あなたのことも」

 そうとも、この役目、この運命をワタクシは絶対に譲らない。
 あなただってそうですよね、クララとやら。

 きっとあの「刑事ごっこ」が好きなユウリも、かの人と共にフィールドへ立っているはずだ。罵り合いながら、じゃれ合いながら、きっと賑やかにやっているはずなのだ。
 どうかそのままでいてほしい。ずっと楽しく「とり合い」をしていてほしい。勝ち取ったこの世界を素晴らしいものにしていってほしい。そう願いながら、二人同時に一歩を踏み出し歩き始める。姿も声も知らないかの異世界の女性とさえ、一歩目の歩みが何故だかぴったり重なったように思われて、セイボリーはにわかに満たされた。夢物語の残滓が見せた幻想だったのかもしれないが、それでも嬉しかったのだ。
 世界さえ奪い合ったワタクシたちもきっとライバルだ。そしてその歩みが今ぴたりと揃ったのなら、ワタクシたち、揃いも揃って世界の勝者に違いない。

 暗い通路を抜けて視界が一気に開けるその直前、セイボリーの手を強く握り返した彼女が小さく、本当に小さく「ありがとう」と呟いた。思わずそちらを見遣れば、丸い目でセイボリーを真っ直ぐに見上げる視線とぶつかる。彼の目の中へ、己が至福を流し込むように今度ははっきりと口にしてくれる。彼女の言葉がそのまま彼の勇気になる。

「うれしい。君がいてくれてよかった。私だって手放さないよ、君のこと」

 さあ、フィールドに集まるのは耳をつんざくような歓声である。目を穿つような眩しさである。初戦の対戦相手である元チャンピオンダンデとトップジムリーダーキバナは、もう準備万端といった風にその中央へ立ち、余裕の表情でこちらを見ている。ユウリと目配せをした上で、思いっきり笑ってみせる。

「初戦の相手がワタクシたちとは、あの者たちの不幸ですね」

 そんなセイボリーの言葉を受けて、ユウリは思わずといった調子で噴き出すように笑った。ダンデは豪快に声を上げて笑った。キバナもつられるようにして苦笑していた。こちらを見上げた彼女がにっと眉をつり上げてひどく得意気な顔になって、そして。

「まったくだ。本当に、気の毒でならない!」

 ひらりと彼女の手がほどける。いつしか島へ迷い込んできたピンク色のビビヨンが飛び立つような軽やかさである。放した手をポケットに差し入れてボールを取り出し、大きく振りかぶるその凛々しい有様にタイミングをぴったり揃える形で、セイボリーもシルクハットの上のボールたちを滑らかに回してから深々とお辞儀をする。

2021.11.6

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