800歩先で逢いましょう(第三章)

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 より厳しくなった冷たい風に肌を裂かれる覚悟さえしていたのだけれど、天と地との間で何か不思議な示し合わせがあったかのように、翌日のカンムリ雪原は何処も吹雪いていなかった。柔らかな日差しが降り注ぎ、モミの木の葉に固まった雪があちこちで落ちていくという、穏やかの過ぎる有様で、少し拍子抜けてしまう。
 洞窟を抜け、眠そうにふわふわと飛ぶモスノウに挨拶を交わす。階段を駆け上がり、古びた神殿へと歩みを進める。門を抜けた先でゆっくりと顔を上げれば、私がこの日、この時間に此処を訪れることなど最初から分かっていた、とでもいうように、かの神様はそこにいた。

「久しぶりだね。おかげで散々な目に遭ったよ、バドレックス」

 愛馬の背中から下りて細く長い足を冷たい雪の上に乗せ、小さな目でじっとこちらを見つめてくる神様……バドレックスのことを、恐ろしく思わない、と言えばきっと嘘になる。苦しくない訳がない、辛くない訳がない。後ろめたさは残ったままだ。だって私、この責務から逃れるために世界さえ越えていったというのに。

「貴重な世界旅行の体験をどうもありがとう。十……いや十五かな? 最後の方は取り違えが激しすぎたから、世界を数えることもろくにできなかったよ。私達を別世界へ移したはいいものの、元に戻すのに失敗しすぎて神様がたも焦っていたのかな?」

 本当に目まぐるしい旅行だった、と揶揄うように告げて目を細める。暢気に「旅行」とするには稀有すぎる運命であったように思うけれど、それでも最後の方はあちこちへ飛ばされることを少々、いやかなり楽しんでしまっていたこともまた事実だった。
 叶うならもう少し滞在していたい。そう思える世界が沢山あった。レンティル地方は勿論のこと、ツリーハウスで成り立つ緑の濃すぎる温暖で自然豊かなあの町も、美しい海の中を歩いているような気分になれるお洒落なマリンチューブも、借りた自転車で思い切り駆け抜けた、菜の花の咲き乱れるサイクリングロードも、ちょっと胸やけがする程に甘かったマラサダというお菓子も、真っ赤な紅葉に目を焼かれそうになったあの塔の前の美しい小道も……。どれも素敵な場所で、かけがえのない思い出だ。散々な体験だったと苦い顔で言い捨ててしまうにはあまりにも素晴らしいものばかりだった。

「どの世界もいい場所だったし、住む人だって優しい方ばかりだった。貴方がたが用意した居場所のほとんどに、その気になればきっと私達は馴染むことができたのだろうね。そういう世界にばかり、きっと貴方は飛ばしてくれていたのだろうね」
「……」
「でも、それでも私は戻って来た。何も解決してなんかいないのに、苦しいままだと知っているのに、あのままの平穏に甘んじていた方がずっと楽しかったはずなのに」

 レンティルで食べたマシュマロの甘さを思い出しながら自嘲っぽく眉をつり上げてみせる。何もかもの資格を失ったように思われていたあの頃の私に、ただただ優しい彼等の言葉や、モンスターボールを握らなくていい日々の生活はとかく染み入り過ぎていた。傷薬とするにはあまりにも中毒性が高く、麻薬とでも呼び変えられそうな程の幸福を貰いっぱなしだった。嬉しすぎて、安心しすぎて、どうにかなってしまいそうだった。

「それでも戻ってやるんだ、苦しみ抜いてやるんだ、なんていう空元気で覚悟のかさ増しをして、こうして貴方の前へおめおめと姿を現したという訳なんだ」

 腕や肩にポコポコとぶつかるボールの硬さを想起して穏やかに微笑む。似た水色を同じく最愛とした彼が、ボールと共に投げてきたあの荒療治を一言一句覚えている。苦しむことを承知の上で、何にも解決していないまま戻るしかないんだと、情けない私にこれ以上ない程の叱咤をくれたあの人は、最愛たる人にちゃんと遭えただろうか。

『此処は楽しかったろう、幸せだったろう! でもキミを本当の意味で救うものは何もなかった。それでいいんだ。そうでなくちゃいけないんだ!』
 ポケットの中にずっと仕舞っていたもう一つの道標、十をゆうに超える世界の中から唯一持ち帰って来た、何の変哲もないモンスターボールを取り出す。もう手は震えないし、腕だって上がる。苦しいままだったとしても、私はこれを投げられる。
 それこそ、空元気による「かさ増しの覚悟」が「本物の勇気」になった証に違いない。

「ねえ、ずっと私を見ていたんでしょう。みっともない姿も最低な平穏に甘んじる腑抜けた有様も筒抜けだったんでしょう。考え直す猶予だって沢山あったでしょう。想いを変えるには十分すぎる期間だったでしょう」

 あとはもう、その勇気を奮う場所と相手を間違わないだけでいい。

「改めて訊くよ。それでも貴方は私と一緒にいたかった?」

 神様……バドレックスは一歩だけこちらへ踏み出して止まった。距離を詰めていいかどうかを窺うように、その小さな目には不安の色がこんもりと宿っていた。きっと私も同じ目をしている。お互いに不安で堪らないのだ。拒むことも拒まれることも、どうしたって怖いままなのだ。でもその不安や恐れが「揃っている」ことこそ、私達が初めて同意できた証でもあるように、思えてしまって。
 ほらどうしたって私達、こういう不安定な有様でしかない。私はこういう不穏な始まり方しか、貴方に差し上げることができない。それでも?

「貴方のことはやっぱりまだ怖い。でも、これまでの不思議な時空旅行が貴方の優しさと愛に依るものだったと、ちょっとだけ信じてみたくなった」
「……」
「私には、無敗を貫き勝利し続けることでもガラルの皆さんを喜ばせることでもなく、もっと別の……笑ってしまえるくらい恥ずかしくて傲慢な責務があるのかもしれないと、思ってみたくなった」

 この「勇気」が本当に本物であったなら、この「責務」にその勇気が応えてくれるなら、きっと私、いつか貴方のことだって大好きになれるはず。ねえそうでしょう。

「一緒に行こう。私がみっともなく苦しみながら生き抜くところを、近くで見ていてほしい。いつ見限っても構わないから。貴方にはそうする権利がちゃんとあるから、ね」

 言い終わるより先に、バドレックスは子供のような覚束ない足取りでトコトコと駆け寄ってきて、その細い腕で私の膝を束ねるようにして抱き付いてきた。弱い力ではあったけれど、必死な様子はあからさまに見て取れて、かなり驚いてしまう。
 貴方もまた寂しかったのだろうか、などと、ダンデさんに抱きそうになったのと同じ種類の傲慢を見出しかけて、やめた。そう簡単に思い上がれるほど、私は私のことがまだ好きではなかったからだ。……きっとこれは、本物に変わった勇気をもってしてもたいへんに難しいことだろう。一生の課題になるかもしれない、と思いながら笑った。

「どうしたの? ほら、早くその愛馬に乗らないと」
「?」
「貴方が私に力を貸すのは、私が貴方を無事、このボールで捕らえることができてからの話だ。貴方が私にそう言ったんだよ、忘れたの?」

 かつての「言葉」を引用する形でにんまりとしながらそう告げる。はっと目を見開いて「そうだった」とでも言うような表情になったバドレックスは、宙にふわりと浮き上がって愛馬へと乗り、手綱をぐいと掴んでからこちらを見据えて、目を細めた。その好戦的な表情を見て、私は場違いにも……いや一人のポケモントレーナーとしては上出来な感想だったのかもしれないけれど……とても、とても嬉しくなってしまった。
 だって随分と、血気盛んな戦い方をしそうな顔だ。きっと私とも気が合うに違いない。

*

 長らく空のままだったモンスターボール、その重量が少しだけ増す。ボールに入れて縮めてしまえばおよそ数十グラムの違いでしかない。でも世界さえ取り違えさせた神様の居場所であるとするならば、その重さはきっと、鉛が何トンあっても足りないだろう。
 とんでもないポケモンを捕まえてしまったなあ、と、ムゲンダイナに抱いた時と全く同じ苦笑いと共に神殿を抜ければ、そこには思いもしていなかった待ち人がいて、思わず素っ頓狂な悲鳴を上げてしまう。

「うわっ! ……え、ええっ!? 半ズボンで雪山なんて流石にどうかと思うよ!」
「そのままミラーコートいたしますよ! あなただって防寒具のひとつも身に付けていないじゃありませんか、似たようなものでしょうに!」

 いや今日はまだこの場所、温かい方なんだよ。
 そう告げようとした途端、まるでバドレックスがボールへと収まるのを待っていたかのように、分厚い雲が北側から空を黒く覆い始めた。早く戻らないと今度こそ吹雪いてきそうだ。晴れ舞台を控えた彼に風邪を引かせる訳にはいかない。焦って彼の手を引き、早く帰るよと急かして歩幅を大きくすれば、彼は「あのねぇ、迎えに来たのはワタクシの方ですってば!」と暢気に笑いつつ、白い手袋を嵌めた手で強く握り返してくれた。

 いつから見ていたの? と尋ねれば、尾行してきたので最初からですね、と澄まし顔で返って来た。全然気付かなかった、と驚いていると、あなた少し探偵の勘が鈍ったのでは? と嬉しそうに揶揄う声が降った。そうかもしれない、君が代わりに探偵を名乗るかい? とこちらも揶揄い返してみれば、彼はその言葉に何か思うところがあったらしく、肯定も否定もせずにひどく穏やかに、懐かしむような目で笑ってみせた。

「明日は、大丈夫だからね。何も不安に思わなくていい。私、勝つのだけは得意なんだ。君のように人を魅了し夢中にさせるような楽しいバトルは全然できないけれど」
「魅了だなんて……ワタクシの戦いをそのように言ってくださるのはあなたくらいのものですよ、ユウリ」
「そう? それはまだ君が多くの人に知られていないからだろうね。今にきっと誰もが君のバトルの虜になるだろう。どうかその力を私に貸してほしい」

 私はそのお礼として君に、あのスタジアムで何度でも頂点を見せてあげることくらいしかできないけれど。
 情けない有様になってしまうことを承知の上でそう付け足した。頼り方を変えてみる、とはレンティルで為してきたもう一つの宣誓だったけれど、「苦しみ抜いてやる」とした最初の宣誓と同じくらいこちらもまた難しい。凭れすぎてはいないか、うんざりさせてはいないかと不安で仕方ない。けれども顔色を窺うように左を向けば、分厚い灰色の雲を背景に、ひどく嬉しそうに笑う彼がいて、あれっと少し拍子抜けてしまう。

「ふむ成る程。すなわちワタクシが魅せて、あなたが暴く、という訳ですね?」
「君に、頼り過ぎだろうか?」
「まさか! そんな心配は不・必要です! 一緒に行きましょう、行かせてください。歩みを揃えることこそ、ワタクシたちが更に強くなるための近道に違いありません!」

 大声でそう断言した彼は、更に歩幅を大きくして私の手をぐいと引く。スキップでもしそうな足取りだ。満面の笑みであった。鼻歌さえ聞こえて来そうだった。彼をうんと喜ばせてしまえばいい、というかの人のアドバイスを思い出しながら、本当にその通りになった、と安堵した。未来さえ見透かすあの慧眼には本当に畏れ入るばかりだ。

「ワタクシに、あなたの隣へ立つ理由を下さりありがとうございます。こんな日はきっと永遠に来ないだろうと思っていた。奇跡のようです」

 奇跡のような魔法を起こす人の口から紡がれる、その単語の重さを私はとてもよく知っている。だからもう、それ以上の言葉による光栄などあるはずもない。

「そうだね、でもこれは君の力で創った奇跡だ。おめでとう、本当に嬉しいよ」

 いよいよ雪原に吹雪が訪れる。モスノウが喜ぶように灰色の空を踊り始める。二人して寒い寒いとはしゃぎながら、繋いだ手はそのままに山道を全速力で駆け下りた。途中、足を止めた彼が左手を掲げ、自らの眼鏡へと一指しすれば、レンズに張り付いた雪が水色に煌めき、ぱっと六角形の結晶に散ってひらひらと飛んだ。
 植物にほとほと厳しいこの雪原においても、相変わらず花が綺麗だ。君がいてくれるだけで、吹雪さえ六花に変わり鮮やかに染まってしまう。

2021.11.5

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