800歩先で逢いましょう(第三章)

3

 目を、開けると。
 黒いシルクハットを被ったその人が、信じられないようなものを見る目で数歩先に立っていた。丸眼鏡の奥、大きく見開かれた目に一刻も早く映り込みたくて、一歩、二歩と駆け寄って、そうしてその水色、私の最愛の色を持つ人の目の前に来た。

「……」

 彼はしばらく沈黙していた。私が『私』であるかどうかを見定めようとしているような目だった。私がいくら「私だよ、ユウリだ。君のことだってちゃんと分かってる」と説いたところで、今の彼に確証を持たせるには至らないだろうと察しが付いたから、私は彼が納得してくれるまで、ただ黙して真っ直ぐ彼を見続けていることにした。

「ユウリ、よく見てください」

 彼は手袋を嵌めた右手をそっとこちらへ向けて、ゆっくりと指を伸ばした。たった一指し、それだけで、私の足元に散っていた赤い花弁が一枚、二枚、かの水色を纏ってふわりと浮き上がる。ずっと見たかったテレキネシスと、ずっと焦がれていた信仰の色を目の前にして、嬉しくて、とにかく嬉しくて、きゅっと目をすぼめて笑ってしまう。
 そんな私の反応でようやく、彼は私が「私」であることを確信してくれたらしい。

「……ああ! ふふ、あなたちゃんとユウリだ」

 私はというと、そんな彼を前にして、もう口をつぐむ理由などありはしないのに黙してばかりだった。目の前にいる会いたかった相手のことを疑うつもりも訝しむつもりも更々ないのに、それでも何故か、魔法に掛けられてしまったかのように、喉から言葉が上手く出て来てくれないのだ。
 でも、そんなもたもたとしている私に先制を取る形で、彼は私の一番聞きたかった言葉を迷わず差し出してくれる。

「おかえりなさい」
「……っ」

 吸い込んだ息に嗚咽の音が混じった。声の代わりに涙が出てきた。
 彼は驚いたように目を瞠ってから距離を詰め、次の一指しで私のポケットからするりと水色のハンカチを抜き取り、頬にそっと押し当ててぎこちなく拭ってくれた。
 おろおろとする彼の水色がすぐ近くにある。指先で光る水色にだって、手を伸ばせばすぐにでも触れられる。彼に使える彼だけの、神さえ凌駕する神秘性を持つ魔法、その色がある世界へ戻ってきたのだ。その実感が次々に湧いてくる。湧いてきて、どうしようもなくなって、私は益々泣いてしまう。飛び越えてきた数多の世界でずっと私の道標となってくれていたそのハンカチが、辛い水を吸って濃い色に変わっていく。

「ただいま」

 その道標の先、同じ色を持つ貴方が此処にしかいないのなら、私がこう言うべき場所だって、貴方と同じところを置いて他にあるはずもない。

「ただいま」
「ふふ、おかえりなさい」
「……ただいま。セイボリー、ただいま」
「どうしたのですか? ちゃんといますってば。ほら、この・とーり」

 ぼやける視界の向こう、得意気に笑うセイボリーのずっと奥に清涼湿原の水辺と、あの花の群れが見える。黄色い星だ。彼がかつて水辺に浮かせて遊んだ月だ。きっと今も綺麗なままだ。これまで飛び回ってきたどんな世界のどんなものよりも、ずっと。
 ねえ、すぐに君を頼れなくてごめんなさい。甘える勇気がなくてごめんなさい。待っていてくれてありがとう。私の大好きなものを覚えていてくれてありがとう。
 君のところへ戻って来られる私でよかった。ただいまと言える私で、よかった。

「ねえセイボリー」
「はい」
「花が、とても綺麗だね」

 今までも何度か口にしてきた言葉、ええそうですねと同意してくれることで満たされていた短い遣り取り。今回もそうだと思っていた。そうして益々戻って来られた喜びを募らせていくのだと思っていた。けれども彼は突如として顔を真っ赤にしてあからさまな狼狽を見せた。驚きつつ、どうしたのと尋ねれば、彼は視線を泳がせながら「その……」と言いにくそうに口を割る。

「イッシュという場所からやって来た若きポケウッドのスターに言われたのです。『それは月が綺麗ですねと同じ意味だから、死んでもいいわと返してあげては?』と」
「え……ふっ、あはは! ねえ君、私の留守中にそんな惚気を口にしていたの? 『君と一緒にいると、花がとても綺麗なんだ』と言ってくれた人がいるんだ、って?」
「し、仕方ないでしょう! 寂しかったのですよ、あなたがずっといないから! あなたがずっといないにもかかわらず花は咲くから!」

 器用に眼鏡を曇らせながら、ハンカチを持っていない方の手でびしっと湿地の方を指差す。その指先は水色の光を湛えてなどいないにもかかわらず、彼の一指しに呼応するかのように一陣の風が吹いて、湿地の水面ごと、黄色い花たちが大きく揺れた。

「私がいない時の花は綺麗じゃなかった?」
「いいえ、花はすべからくエレガントなものです。だからこそ苦しかった」
「それは悪いことをしたね。君を苦しませるのはもう御免だ。だから『死んでもいいわ』は要らない。ただ一緒に綺麗だと思ってくれさえすれば、それだけでいいんだよ」

 私などがいなくても世界は変わらず回る。まだ夏の気配を残していた分厚く圧迫感のある空は、もうすっかり薄く高く伸びてしまっていて、どこからどう見ても秋の様相である。あれから一か月以上が経ったのだ。時は平等に動いていた。にもかかわらず彼はその足を止めて待っていてくれた。彼の足枷にだけはなりたくなかったのに、結果的にそうさせてしまっていた。
 さあ、そんな無様な停滞はもうやめにしよう。だって花がこんなに綺麗なのだから。

*

 道場のみんなは私の帰還をとても喜んでくれた。世界を救った英雄が凱旋をしたとしても、ここまでの歓声は上がらないだろうといった盛り上がりようだった。
 私を含む、取り違えられてしまったと思しきあらゆる人々のことや、今回の「神様の悪戯」による事情をみんながどれだけ知っているのかはよく分からないけれど、ただ彼等だって、知らない人たちが次々にこの島へとやって来ることに混乱させられたに違いない。そうした諸々の事情により沢山迷惑を掛けたことへの謝罪と、それでも私の食堂の席をそのまま置いていてくれたことへの感謝を懸命に伝えたつもりだったのだけれど、やはりというか何というか、一様に「そんなの当たり前じゃないか」という顔をされてしまった。家族の席を取り外すことなんて在り得ない、と、その表情にはっきりと書かれているのが分かったので、私は本当に安心してしまったのだった。

 不甲斐なくても、みっともなくても、迷惑を掛けても、無断で長期間不在にしても、変わらない笑顔で歓迎してくれる場所がある。こんな場所を置いて、私は一体、何処へ何をしに行こうとしていたというのだろう。
 半年前と何ら変わらず、家族の一員として夕食を用意してくれようとするミツバさんの背中を見ながら、私はこの人たちを正しく愛し直すために戻って来たのだと、あの人の言葉を借りつつ、そうした、ちょっとだけ傲慢な決意を新たにしたのだった。

 ただ予想外だったのは、ボールから出てきた相棒にわんわん泣かれてしまったことだ。その勢いたるやもう、メッソンの頃を思い出させる見事な有様だった。ボタボタと落ちる涙で食堂のフローリングに水溜まりが出来てしまうのではと思った。もうその涙にメッソンの頃ほどの催涙作用は含まれていないはずなのに、そんな姿を見ていたら私までもらい泣きしてしまって、もうすぐ出会って一年になるかけがえのない相棒、インテレオンを力強く抱き締めて、一緒にわんわんとやってしまったのだった。
 真っ赤になった目を袖口で乱暴に擦り、セイボリーに「またそんな雑なケアをして!」と懐かしいお叱りを受けつつ、食堂の席……私の席に着いてカレーを食べる。奇しくもあの日、食べ損ねた献立と同じだった。そんな偶然も、いや偶然でさえなかったのかもしれないけれど、とにかく嬉しくて、夢中で一杯目を食べきって、二杯目のお皿に半分ほど手を付けたところで何とか落ち着きを取り戻せた。そこでようやく私は、ガラルスタートーナメントという新しい舞台への招待を受けた旨の説明をみんなにしたのだった。

「近いうちに参加することになると思う。見応えはあまり期待しないでほしいのだけれど、よければ見に来てほしい。みんなに観戦してもらえるととても、心強いから」
「うふふ、任せてユウリちん。此処にいるみーんな、チケット予約済み!」
「そうそう、あたしたちずっと楽しみにしていたの。それにユウリちゃんはもう一人で戦わなくていいのよ。セイボリーちゃんがこの半年間、必死で頑張ったおかげで、ね」

 師匠とミツバさんがそう言い終えるや否や、彼らしくない大きな音でカレーのスプーンを皿に戻したセイボリーが、胸を張りつつあからさまな咳払いをしてみせた。
 何を言わんとしているのかは何となく分かる。素晴らしい報告が聞けるのだという確信が既に私の中にある。でも「分かっているよ」と言うのは野暮が過ぎるため、喜ぶ準備ならとうに出来ているよ、と伝える意味で「どうしたの」とだけ身を乗り出して尋ねてみる。

「ワタクシこの度、ジムリーダーになりまして……」

 予想通りの言葉を自身の鼓膜に通した瞬間、喜びよりも安堵が勝ったのは内緒にしておこうと思った。彼の夢が叶ったという報告に歓喜できる私でいられたという、その事実にこの上なく安堵してしまったという、そんな私の情けなさくらいは、己が矜持のため、秘密にしておくべきだと思った。それに、そんな些末な秘密など、私の「すごい!」という歓喜の大声ひとつで掻き消され、あっという間になかったことになる。

「おめでとう、自分のことみたいに嬉しいよ! 君の夢がひとつ叶ったんだね!」
「ええ、ええその・とーり! だからワタクシ、その、あの舞台であなたの隣に並び立てるのです。あなたと一緒に戦えるのです。あなたが、望んでくださるならば!」

 私が決めていいの? と尋ねかけて、やめた。シュートスタジアムでのバトルで、チャンピオンにだけ「招待権」があったように、タッグバトルで行われるガラルスタートーナメントでも、ペアの「選択権」が私にだけ与えられていたとしてもおかしなことではないだろうと思ったのだ。そうした詳しい話をしないままにお休みを貰ってしまったことを思い出す。あのトーナメントもまた、歩みを止めて待っていてくれた彼と同じように、動きを止め、凍り付いたままだ。これ以上、待たせる訳にはいかない。
 ただ彼、ダンデさんには……迷惑を掛けたことへの謝罪を丁寧に行う必要はないように感じられた。「私が再びあの舞台で戦うだけの意思を取り戻した」という事実。これだけで彼はきっと全て許してくれるはずだからだ。
 不安そうに眉を下げるセイボリーへ、少々意地悪な笑みを投げかけてから、私はスマホロトムを取り出し、その場でダンデさんにエントリーの電話を入れた。

「新しいジムリーダーの晴れ舞台を素晴らしいものにしたいから、初戦で一番強い人と当たるように組んでほしい。具体的には、そうだね、貴方と戦いたい」

 私のリクエストに、ダンデさんは何も訊かずすぐさま了承してくれた。そう言ってもらえて嬉しいと、全力で相手をしてみせると、楽しみ過ぎて今夜は眠れそうにないぜと、まるで子供のような喜びようだった。その声が僅かに上擦って、震えてさえいたので、彼ももしかしたら「寂しかった」のかもしれない、などと少し考えた。ただ、流石にそこまでの推測を為すのは傲慢が過ぎる気がしたので、何も言わずに電話を切り、そうした傲慢さえ許される相手である彼へと改めて向き直った。ヒッと息を飲むセイボリーの悲痛な音に「大丈夫、勝てるよ!」と笑顔で断言できる私であることを誇らしく思った。
 ただその前に一つ、しなければならないことがある。

2021.11.4

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