2 「わーっ、トオル兄さんだ! ただいま! ずっと会いたかったんですよ!」 まだ汗ばむ陽気、夏の気配を多分に残した眩しく暑い夕暮れ時、赤い夕焼けと共に突如として行方を眩ませたレンティルポケモン研究所のトラブルメーカーは、一か月後、深まる秋をその小さな体の全身に染み込ませて、満面の笑顔で戻ってきた。何度も何度も取り違えられ、他地方や異世界を飛び越えてきたという運命性の重みはその有様に微塵も感じられず、ただ「ちょっと珍しいタイプの旅行をしてきた」とでもいうような、弾けんばかりの眩しい笑顔でトオルの名前を呼び笑うばかりだった。 「……あははっ、おかえり! 随分遅かったじゃないか、ルイ。待ちくたびれたよ」 彼女は甘えるのが上手だ。今だってトオルに躊躇なく抱き付いては、つい先程までいたと思われる世界に咲いていた、オレンジ色の花の話を夢中になってしている。そこには指輪を渡してきた時のような恋心の気配など微塵もない。ただ年の離れた兄にしているような気軽さと人懐っこさが、ひどく純粋な形でそこにあるだけなのだ。 話している「花」とはおそらくこれのことだろうな、と思いながら、栗色の髪に幾つか張り付いている、彼女の小指の爪より更に小さいそれをそっと摘まみ上げた。四枚の花弁がトオルの手の中でふるりと揺れて、甘い香りが鼻をくすぐってきた。 「いい匂いだね。素敵なお土産をありがとう」 「あっ、髪に付いてましたか? 可愛いでしょう、キンモクセイって言うんですよ! 綺麗な通りにこの木が沢山植えられていて、街中とってもいい香りなんです!」 「へえ、それは見たかったな」 「私もトオル兄さんと一緒に見たいな! ……あっ、でもごめんなさい、街の名前が分からないや。背の高い男性と話をしていたらいきなり風が吹いて、こっちへ戻されちゃったんですよね。急だったからびっくりしちゃった!」 そうかい、と相槌を打ちながら、相変わらず彼女の首に下げられているカメラへと視線を遣る。もう充電などとっくに切れてしまっているであろうそれには、一体どんな写真が入っているのだろう。厳選された七十枚余りを見るのが今から楽しみだった。 「それでね、その前の世界では真っ赤な紅葉がとっても綺麗で、大きな塔もあって……」 「分かった分かった、続きは夕食と、カメラの充電を済ませてからにしよう。キミもお腹が空いただろう?」 その指摘を受けるや否や、彼女のお腹がその薄さに似合わない大きな音を立てた。顔を赤くして笑う彼女の頭に手を乗せて撫でる。この動作がひどく懐かしい。彼女の小さな頭がひどく嬉しい。目の前にいて、触れられさえするのにまだひどく恋しい。もっと何かしてやりたい気がする。でもこれだけでもう十分すぎる気もする。 ああおかしいな、考えられることがあまりない。だってずっと、ずっと会いたかった。 「……」 彼女は調査から戻る度、写真を差し出すのと同じタイミングで、出先での出来事をトオルや博士に矢継ぎ早に話してくれるのが常だった。見たもの、感じたこと、次の予定、子供らしい散り散りとした文脈の中、脈略を得ない内容も少なからず混じっていたけれど、それでも彼女がひたすらに楽しそうであるだけでトオルは満たされていた。 今回の不在もまた、彼女にとっては似たようなものだったのかもしれない。自らの意図したところではないにせよ、新しい場所で新しいポケモンや人に出会い、沢山楽しいことを経験して、そして最後には此処へと戻ってきて、こうしてトオルに出先での話をする。彼女にとっては本当に、それだけのことだったのかもしれない。長すぎるその不在に、トオルの胸が張り裂けそうになっていたことなど知りもしないで。 「今日はマシュマロがあるよ。夕食が終わったらデザートにみんなで食べよう」 「わあっ嬉しい! あの日も私、マシュマロ楽しみにしていたんです。飛ばされちゃったから食べられないままで……」 「あはは、そういえばそんなこともあったね」 いや、それでいい。知らなくていい。僕がどれだけキミのことを好きかなんて、キミが戻って来てくれてどんなに救われたかなんて、ずっと知らないままでいい。 「……そっか、戻ってきたんだ。私もう、みんなと一緒にマシュマロ、食べていいんだ」 小さな声で呟かれたそれに振り返れば、大きな目からポロポロと涙が溢れていた。琥珀が溶け出すような光景にぎょっとして思わず膝を折り肩を掴めば、彼女は心配を掛けさせまいとしてか、泣きながらもにっと笑ってみせた。それはトオルが……この想いを隠さなくてもいいのならすぐにでも表出させてしまっていたであろう表情に、「やっと会えた」「ずっと会いたかった」というその表情に、とてもよく似ている気がした。 「っ、はは、なんだい。そんなにキミ、マシュマロが好きだったの?」 思わずといった調子で背中に手を回し、ぐいと抱き込んだ。その表情をトオルは耐えてみせたのだから、せめてこれくらいは許されて然るべきだと思ったのだ。 彼女はイーブイのような仕草でトオルの首元に額を預け、グズグズと嗚咽を零していたけれど、やがてトオルが服の下に仕舞い込んでいた指輪に気が付いたのか、顔を少しだけ上げ、右手の指を服の上へと押しあてて、その指輪に触れるようにした。ひどく幸せそうに目を細めれば、すぼめた琥珀色がまた二筋溶け出して、夕日を弾いて宝石のようにキラッと光った。あまりに綺麗だった。瞬きすら惜しかった。 * とっくに充電を終えたカメラの中に収まっているであろう、他地方や異世界のあらゆる写真よりも、ルイの語る出先での話の方にみんな夢中になっていたため、いつもなら帰ってきてすぐに行うはずの写真チェックは明日へお預けにすることとなった。 余った焼きマシュマロに合うお酒が何かあったかなと考えていると、パタンと研究所の扉が閉まる音がして、暗闇の向こうから博士が二人分のコップを持ってくる。湯気が立っており、スパイスの香りが強くするところからして、どうやら中身はホットワインらしい。最高のチョイスだ、と称賛してからお礼と共に受け取り、コテージで寝入っている子供たちを起こさないよう静かにコップの縁を合わせて乾杯した。 「どう思う、博士。うちのトラブルメーカーの大冒険は、これで終わりだろうか?」 「おそらくそうなんじゃないかな。今までも、一度来た子供が再度やって来たことなんてなかっただろう? きっと一巡して『神様』も悪戯に満足したんだと思うよ」 成る程それなら安心だ、と頷き、ワインを煽る。子供の頃、大人が飲んでいたお酒に指を浸して舐めたことがあったけれど、あの頃はとても美味しいとは思えなかった。変わってしまったと思しき舌、その上へと放り込む焼きマシュマロは、けれども子供の頃から変わらず美味しい。 「それにしても『神隠し』とはよく言ったものだね。ポケモンに好かれ過ぎるというのも困りものだ。保護者代わりはただ冷や冷やして帰りを待つしかできない」 「あはは、まあルイ自身が今回のことをトラウマには思っていないようで安心したよ」 当たり前のように大人の飲料を飲み、大人である博士と談笑している自分に、若干の違和感を覚えながらも、もうトオルはこの味とこの時間を知らなかった頃に戻ることなどできやしない。ルイが時を繰り上げてお酒を飲むことを許されないのと同じように、時だけは平等で、そして少しだけ残酷なのだ。 「ユウリの話した『神様』や、君が説得に向かったミュウみたいなポケモン以外にも、不思議で神秘的な力を持った超自然的存在は、きっとまだ大勢いるんだろうね」 「そりゃあ、人間からしたらポケモンなんてみんなそうだろうさ。八百種を超えるポケモン全部がそうであったとしても不思議じゃない。いや実際そうなのかもしれない。僕等がまだその秘密に……触れることを許されていないだけで」 「ああ、そういう考え方が別の地方にはあるんだっけ。『八百万神』だったかな」 ルイが聞かせてくれた土産話の中にもその単語が出てきた。ゲンガーを連れた若い男性に、紅葉の降る高い塔の前で教えてもらったのだと。確か八百万神は、シンオウやジョウトに縁の深い言葉であったはずだ。あちらは一神教ではないらしいから、何にだって神様が宿るし、何にだって神になり得る、ということなのだろう。 「八百万も神様がいらっしゃるのなら、その一万分の一がポケモンだったところで何にも不自然じゃないね。むしろポケモンの神秘性を考えるならまだ少ないくらいだ」 「おいおい、まさかルイが八百回飛ばされてきたとでも言うつもりじゃないだろうね?」 「流石にそこまで多くはないだろうさ。あの話しぶりだとせいぜい十回か十五回くらいのものだろう。僕等のところへ迷い込んできた子供たちの人数だってそれくらいだったしね。最後の方は目まぐるしすぎて、人数を数えるのも忘れてしまったけれど」 苦笑する博士の言葉を受けて、トオルも目を閉じこれまでのことを思い出す。二週間近く滞在していたのはユウリくらいのもので、他の子供たちは数日、半日であっという間に「悪戯」されていった。中には一時間と経たずに他の子供へと置き換わってしまったケースもあった。 目まぐるしく世界を飛び越えていった、十歳くらいか、あるいはローティーン程の若い子供たち。きっとみんな、あのユウリのように、世界に愛されて世界を愛し返すことを責務付けられた、何処かの世界の主人公なのだろう。 「キミがあと十歳若ければ巻き込まれていたかもね、トオル」 「ええっ、やめてくれよ。僕はそんな柄じゃないってば」 「そうかな? 僕がジャングルに出掛けてもきっとミュウには会えなかったと思うよ。神様は、主人公が大人になってしまっても、いつまでも覚えているものなんだね」 ルイの手掛かりを得るため、ジャングルへと調査に出掛けたあの数日間を思い出す。久しぶりのミュウとの追いかけっこには大いに疲労させられたけれど、それでもとても楽しかった。昔に戻ったかのようだった。 ミュウも同じように懐かしんでくれていたのだろうか。かの神様……トオルにとってはかつての「友人」の記憶に、主人公であった頃のトオルはまだいるのだろうか。 「いつかあの子たちも、誰かに主人公の座を明け渡す時が来るのかな」 もしそうであるならば、いつか新しい主人公が現れてルイからその座を譲り受けたとき、きっとミュウの記憶の中、トオルとルイの主人公像は合わさって、ひとつになって、いつまでも残り続けるに違いない。 なんて素晴らしい祝福だろうと思った。他には何も要らないと思えるくらいに。 「ずっと子供で、主人公で、いたかった?」 「それこそ夢物語だろう、そんなことを願ったりはしないよ。それに大人でも、主人公じゃなくても、ポケモンのことはずっと大好きでいられる。僕にはそれで十分かな」 「……それを聞いて安心したよ。何、大人だって悪いものじゃないさ。夜更かしもできるし、お酒だって飲める」 「ああその通り、大人って最高だよ。あとは僕の可愛い可愛い後輩が、ずっと僕のことを大好きでいてくれたなら言うことないんだけど」 博士は馬鹿にするように声を上げて笑ったりはせず、「叶うといいねえ」と優しい大人の完璧な有様で微笑みかけてから、冷めかけたホットワインをぐいと流し込んだ。 焼きマシュマロを変わらず好もうとも、それをつまみに飲むのは甘いココアではなく苦いホットワイン。この十年ですっかり鍛えられたトオルの目は、日付が変わった深夜においても冴えたままだ。 ルイもいつか夜更かしをして、お酒を飲むようになる。あのミュウもいつか、ルイではない他の誰かを気に入るようになる。ちょっと寂しいねと笑う彼女の隣にいるのはやはり自分でありたい。でもそんな欲張りだって、大人であるトオルはまだ、子供である彼女に告げたりはしないのだ。大人のまま待つことへの不安だって抱き込んで、あのかっこいい空元気を披露していった「彼女」のように、覚悟を決めて楽しんで生きていくのだ。 2021.11.3
800歩先で逢いましょう(第三章)