7 その日の夜は野菜のたっぷり入ったミネストローネと、火傷しそうに熱いチーズが詰め込まれたグラタンを食べて、私が撮影した写真を博士とトオルさんに見てもらっているうちにあっという間に更けていった。夜間の探索は明日以降にした方がいいということになり、もう夜の十時を回っていたためか、私も眠気と疲労に敗北する形で同意するしかなかった。コテージに戻ってすぐにベッドへ倒れ込み、それからすぐ、泥のように眠ってしまったらしい。ムックルがコテージの傍で賑やかに鳴いてくれなければ、きっと昼前まで布団の中だったことだろう。 私が昨日、フロレオ自然公園を周回して撮影した写真データは膨大で、ポケモンを写せていたものだけでもゆうに四百は超えていたようだった。博士とトオルさんはそれをポケモンごとに分類して、おそらくかつてリタたちが撮影したのであろうものと比べながら、珍しい行動や新しい表情を見せているものがないかと丁寧に確認してくれた。 「これとか、とてもよく撮れているよ。急接近してくるところを逃さず撮影するのにはタイミングの良さ以上に度胸が必要だからね、リタやフィルじゃこうはいかない」 中でも博士が絶賛してくれたのは、木の上からこちらを目掛けて飛んでくるエモンガを中央に大きく収めた写真だ。タイミングを計るのに苦労したことを伝えれば、成功できたのはキミの動体視力の良さによるものだろう、とも言ってもらえた。ポケモンの動きや技の威力を見る力は人並み以上に鍛えてあるという自負があったので、それがこの調査においても役立ったことを思うと誇らしい気持ちになる。 「僕はこれが好きだな。ポケモンとの距離が遠すぎるから、調査資料としては使いにくそうだけどね」 トオルさんが選んだのは、花でお洒落をしたバッフロンと、おそらくはその花飾りを作るのを手伝ったと思しきキュワワーが一緒にいるところだった。かなり遠くからの撮影なので、彼等の表情などはあまりよく分からない。向き合って何事か話しているように見えるその姿が微笑ましかったので、思わずシャッターを切ったのだった。 「キミらしい遠慮が写真から透けて見えて面白いね。これ以上近付けば彼等の会話の邪魔をしてしまうと思ったんじゃないのかな」 「えっ、写真からそんなことまで分かるの?」 「これでもプロのカメラマンだからね。どんな気持ちで挑めば『こう』なるのかはある程度分かるつもりだよ」 トオルさんの慧眼に心地よい身の竦みを覚えつつ、照れを隠すようにして笑った。写真を通して撮影者の心を読むという芸当は、私にとっては及びもつかない未知の領域で、神の技にさえ思える。「彼」の水色のように何もかもを捧げる気概で信仰しようとまでは思わないけれど、それでもこの人の超人的な目には大きな崇敬を抱かずにはいられない。 前日の写真の振り返りを行いつつ、ベースキャンプでの撮影を繰り返しているうちに日が傾き始める。夜の調査に備えて早めの軽い夕食を摂り、いよいよ夜の自然公園へと繰り出した。 今回の調査の目的は、よりバラエティに富んだポケモンの挙動を観察するために必要な「イルミナオーブ」の出処である、特殊な花を撮影してくることだ。事前に博士から説明を受けていた「イルミナフラワー」というものを上手く見つけられるか少々不安だったけれど、暗がりの中、圧倒的存在感で光り輝くそれを見失う方が難しかった。昼間の青空を吸い込めるだけ吸い込んで一気に解き放ったような、あるいは水と硝子を混ぜ固めて宝石にしたような、そうした不思議で神秘的な光を放つ花だった。「花が水色に光っている」というのは初めて見る光景であるはずなのに、既視感がありすぎて、懐かしさで胸が擦り切れそうになる。 そういった具合にドキドキしながら一周目の調査を終えた私は、博士から、研究所で独自に精製したという、イルミナフラワーのエネルギーを集めたボール、イルミナオーブを受け取った。彼はこの不思議で神秘的な光のことを「レンティル地方にのみ見られる特殊なエネルギー」と説明してくれた。ガラルでいえばダイマックスの光のようなものだろう。であるなら、ポケモンが巨大化するあの現象のように、この光を浴びたポケモンたちにも何かが起こるに違いない。そうした確信を持って水色の光を投げ続けているうちに、私は夜の自然公園を何周したのか、写真を合計何枚撮ったのか、そうしたことをまたしてもすっかり忘れて夢中になってしまう。 ただ昼間とは違って、私の手元にはずっと水色の光があった。その水色が私に「人間であること」「ポケモントレーナーであること」をどうやっても忘れさせてはくれなかった。ただ、それはそれでひどく楽しかった。「彼」が、傍にいて、すぐそこで見守ってくれているような気がしたからだ。 私が人間でありポケモントレーナーであるという意識さえ手放せる夢物語と、彼が世界さえ飛び越えて傍にやって来てくれているように感じられる夢物語。どちらも幻想には違いない。幻想だから、どう足掻いても現実ではないから、私は思い切り楽しむことにした。どうせまだ戻れやしないし、戻れない私をこの世界の誰も責めやしないのだから。 * 「おかえり」 焚火の前に腰掛けたトオルさんが、ひらひらと手を振って私を出迎えてくれた。どうやら外に出ているのは彼だけのようだ。研究所には薄く明かりが残っているけれど、コテージの中は既に暗い。リタもフィルも眠ってしまったらしい。 「そろそろ今夜の分はおしまいにしようか。もう寝る準備をしないと明日が辛くなるぞって、博士が欠伸をしながら言っていたよ」 「それは悪いことをした。私の夜更かしにこれ以上付き合わせる訳にはいかないね、それじゃあ今日はこれで終わるよ。データを預かってもらっても?」 彼は笑顔で快諾し、手元のタブレットに私の写真データをあっという間に吸い込ませてから、焚火を消すために立ち上がった。空のバケツに水を満たして戻ってくると、彼はお礼を言ってそれを受け取りながら「今日の話を聞かせてもらっても?」と尋ねてくれた。 「話を……してもいいの? 多分一時間くらいは私、止まらないと思うよ」 「むしろそうしてほしいな。お喋りなキミの気付きを沢山聞きたくて、僕、こうして待っていたんだから」 バシャンと豪快に水を掛けながら、待ちきれないといった様子で楽しげに告げる。一気に暗くなった広場に少し怯んだ。長丁場になることまで見越していたのならこのタイミングで消火してしまわなくてもよかったのでは、とも思ったけれど、彼は別の場所で話をしたかったらしく、空のバケツを持ったまま広場の中央に向かい、こっちこっちと私を呼んだ。その胸元、赤いカットソーの内側から透けるようにして何かが青色に光っている。蛍光塗料が塗られていると思しき……あれはペンダントトップだろうか? それとも、指輪を鎖に通している? 「此処で話そう。火を消してしまえば夜空がとても綺麗に見えるんだ。たまに海や別の島からポケモンが飛んできて、星の海に影を落としていったりもしてね。その影を見て、リタと一緒にポケモンの当てっこをするんだ」 「へえ、それは素敵な遊びだ! ……あ、早速飛んできた。あれはきっとネイティだね。野生で群れを作っているところは初めて見たよ」 「おおい、当てるのが早いって! 僕の出る幕がないじゃないか」 「あはは!」 地べたに腰を下ろし、脚を投げ出して夜空を指差しながら会話をする。煌々と瞬く焚火を消してしまった今、地面にある光といえば仄かに灯る研究所のそれと、あとはトオルさんの胸元で光っている、ごく小さな青い蛍光塗料くらいのものだ。 星の散りばめられた眩しい空から視線を下ろし、ネイティの群れを見ているトオルさんの胸元を再びそっと覗き見る。「彼」の水色や、イルミナフラワーの水色より少し濃い……若干の緑色が混ざった印象を受ける。浅葱色、もしくはターコイズブルーとすべきだろうか。 「元の世界には戻れそう?」 「え、ど……どうだろう。まだ分からない。手掛かりがあるかないかと言われれば、今は全くないと言わざるを得ないけれど」 視線を下ろした彼と目が合い、思わず熟考を挟まずにありのままを答えてしまう。私の下手な答えを受けて「実を言うとね」とトオルさんは照れたように頭をかきながら、何となく予想できた言葉を案の定すらすらと口にしていく。 「ルイには勿論戻って来てほしいと思っているけれど、キミをこのまま元の世界へ帰したくもないんだよね」 「……何となく、そう言われてしまうような気がしたよ」 おや、と彼は嬉しそうに、小さな少年のように笑う。たまたま見つけた遊び相手が自分のお気に入りを同じように好きになってくれたときに見せる、歓喜と興奮の表情、あれにとてもよく似ている気がした。 カガミ博士が私を気に掛けてくれるのはあくまで大人が子供に為す配慮のそれだけれど、トオルさんはプロのカメラマンとして、ポケモンの調査と撮影をこよなく愛する人として、私が同じものに興味を示し夢中になっていることをとても喜んでくれている。喜ぶだけではなくて、実際、こうして「もっと」を望みさえしてくれている。気が合う相手と「もっと遊んでいたい」と思うのは自然なことだ。私もまた、彼に師事を乞うのはとても楽しい。 「キミはそんな風に考えたりはしないのかい? 楽しいだろう、此処は」 「勿論だ、とても楽しい。その通りだよ、夢のよう」 「夢じゃないさ、キミが望めばきっと現実にだってなる。それが本当にキミのためになると判断したなら『悪戯』をした神様だってキミをこちらへ寄越してくれるはずだ」 神様。その存在を思い出した私は少しだけ拗ねてみたくなって、口を尖らせ目を細めて笑いつつ低い声を喉から引っ張り出した。 「そんなことをしてくださるはずがないよ。私はあの神様の機嫌を損ねたんだ。嫌われているはずだもの」 「ねえ……ずっと思ってたんだけどさ、それ、キミの思い違いなんじゃない?」 「否定しないでほしいな、だって私は」 「機嫌を損ねているのも嫌っているのも、キミの方なんじゃないかってことだよ、ユウリ」 喉がきゅっと絞られるような緊張を覚えた。真っ直ぐにこちらを見つめる彼の目は怒っている訳でも責めている訳でもない。どちらかというと穏やかな視線だ。でもその目には神技が宿っている。超人的な彼の「目」を確かに怖いと思うのに、見抜かれた側である私はもう、目を逸らすことさえできやしない。 どうしてこの人はここまで鋭く人を読むことができるのだろう。どうしてこんなにもはっきりと私の気持ちを言い当ててしまうのだろう。どうして……私自身でさえ自覚しきれていなかった、私自身のいやな心地まで見通してしまえるのだろう。 写真から撮影時の私の心まで読み解いてみせたその慧眼に掛かれば、これくらい造作もないことだったのかもしれないけれど。 2021.10.25
800歩先で逢いましょう(第二章)