800歩先で逢いましょう(第二章)

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 何度、あの自然公園へ足を運んだのだろう。三回目の撮影データを博士のタブレットに預けてからはもう数えていない。とにかく夢中でカメラを構え、ふわりんごを投げたりメロディを鳴らしたりして必死で彼等とコミュニケーションを取ろうと努めた。ネオワン号は同じルートばかりを進んでいるはずなのに、一向に飽きることはなかった。ルートは全く同じでも、ポケモンたちが見せてくれる表情や仕草、反応が完全に同じであることは在り得なかったからだ。
 このコミュニケーションには終わりがない。ポケモンバトルなら相手を倒して追い払うか、捕まえるか、逃げ出すかすれば一先ずの区切りとなるけれど、その理屈がこの調査では通用しない。インテレオンを始めとする手持ちポケモンを挟まない形で野生のポケモンたちと向き合うことに恐怖や不安がなかった訳ではないけれど、そうしたネガティブな感情は、自然公園を三周した頃にはすっかり消え失せてしまっていた。

 此処では「誰かに魅せ勝つ」必要がない。ポケモンたちと力を合わせて勝利することは私のかけがえのない喜びだったけれど、その喜びがない代わりに「魅せ勝たなければ」という義務もまたこの世界では免除されている。突如として現れるかもしれない最強の相手を警戒する必要も、魅せ場のない勝ち方をしてしまうことに怯える必要も、ない。
 だって私、此処ではチャンピオンはおろか、ポケモントレーナーでさえないのだから。ただこの素敵なカメラを構えて、目の前のポケモンを見つめるだけでいいのだから!

 野生のポケモンと私との間には、モンスターボールも、相棒であるインテレオンも、ポケモン図鑑も存在しない。ただカメラのレンズが彼等のありのままを私に届けるばかりだ。
 ポケモンを知る方法はきっと、バトルばかりではなかったのだろう。私はたまたまホップと一緒に、彼の「おまけ」としてメッソンに出会えたからポケモントレーナーになっただけのことで、世の中にはポケモンとの関わり方など他にもごまんとあるのだ。
 ポケモンの力を借りて一緒に農業や漁業や鉱業に勤しむ人や、ファッション業界の場でポケモンと共に活躍する人、母のように家族の一員としてスボミーやゴンベと一緒に静かに暮らす人……。彼等のように、私はきっと他の形だって取り得た。ポケモンバトルにしか適性がなかった、という訳では決してなかったはずだ。最初に示された道が「こう」であっただけの話で、そうでなければ、例えば渡されたのがモンスターボールではなくこのカメラだったなら、きっと。

 私はもしかしたら、こういう形でポケモンと関わるべきだったのかもしれない。私には、こういう関わり方の方が向いていたのかもしれない。勝利の喜びを知ることがない代わりに、過度な期待を寄せられることも乱暴に落胆されることもなく、ただポケモンと一緒にいられることだけを喜びとして、そうしてずっと、幸せに。

 ああでも、こんな美しいばかりの場所でカメラを構え続けるだけの私だったなら、きっとセイボリーは見向きもしてくれなかっただろうな。

*

「どうだった?」

 陽が沈む寸前の空の真っ赤な輝きを背にしてトオルさんが立っていた。ネオワン号の到着に気付くや否や、顔を上げて歩み寄って来てくれたところを見るに、どうやら私を迎えに来てくれていたらしい。どうだった、としながらも、その目は私が思う存分楽しんできたことを確信しているように見える。最早否定しようのない事実だったので、幼い子供のような大声で返事をした。

「とっても楽しかったよ!」
「よーし、それはよかった」
「エモンガは電撃で木の実を焼くんだね。ふわりんごに反応したからとても驚いたんだ。コアルヒーというポケモンが飛ぶ練習をしている姿も撮れたんだよ。お母さんらしきスワンナが心配そうに見守っているのが印象的だったな。他にも初めて見るポケモンが大勢いて、名前を覚えるのが大変だったよ。このカメラが教えてくれたけれど、あの花束みたいなポケモンはフラージェスというんだね。繰り出す技によって花畑が一層綺麗に輝いて、咲いて、本当に綺麗で、まるで神の采配を見ているみたいだった!」

 本当に幼子のような捲し立て方で、私は先程までの調査で得たものを、頭の中で整理しないまま思い付く限り吐き出していった。それで、それでと要領を得ず次々に伝えていく。彼は耐えきれないといった風にお腹を抱えて笑いながらも、遮ることはせずに私の話を……「話」とも呼べそうにない荒々しい感動の波を受け止めてくれた。

「うん、それでそれで?」
「もっと喋っていいの? 今の私に語らせてしまってはキリがないと思うよ。ポケモンの生活というものをここまで真剣に追い掛けることなんてなかったから、気付きも感動も多すぎて私自身処理しきれていないんだ! ビッパたちの橋や巣が少しずつ立派になっていって、その過程を彼等が誇らしそうに見せてくれたこととか、バッフロンやピチューが私の前でもリラックスして、花冠でお洒落した姿を見せてくれるようになったこととか……もう本当にわくわくしたよ! 一日中見ていられそうだった」
「ええっ、もうそこまで観察できたのかい、凄いな……。キミ、あの自然公園を一体何周してきたんだい?」
「分からない。四周目から先はもう数えていないよ! 博士に聞いたんだけど夜は夜でまた違ったポケモンの姿が見られるんだよね。夕食後にも出掛けていいかな?」

 トオルさんは声を上げて笑いながら「ああ、ルイにそっくりだ」と零した。そこにもやはり彼女への好意と信頼だけが込められていて、私が責められている訳ではないと確信できる。博士もトオルさんも、私が安心できる空気を作るのがとても得意だ。優しすぎる。優しすぎて……優しくなくなることもできやしない。

「ポケモンが好きかい?」
「勿論!」
「それはよかった。ポケモンたちもキミのことが大好きだよ」
「……どうして、そんなことを?」

 けれども昼間の博士と全く同じことを彼が口にしたので、私は少しばかり怯んでしまう。どうして、などと理由を尋ねたことをすぐさま悔いてしまった。どんな理由が返ってきたところで、きっと私は本当の意味で納得などできないのに。

『キミたちみたいな子、きっと『みんな』大好きなんだろうね』
 この悪戯が愛に依るものだったなんて、誰にどう説かれたところで受け入れられるはずのないことなのに。

「トレーナーだったときのパートナーたちにならともかく、今日出会った彼等に対しては、私は本当に何もしてあげられていないんだよ。ただ見ていただけだ」
「そうだろう、とてもよく見ていたよね」

 トオルさんは大きく頷いて、ネオワン号に座ったままの私に手を伸ばしてくる。博士より少し小さく、「彼」よりは大きくて厚みのある手だ。右手で握り返し、下りるのを手伝ってもらう。ずっとネオワン号に座っていたからだろう、地面に足の裏を押し当てる感覚が何だか少し懐かしい。

「ポケモンたちの動きや視線の先を追い、気付いてもらうために様々なアプローチをした。素敵な一瞬を逃さないためにと沢山写真を撮ったよね」
「それだけだよ?」
「誰にでもできることじゃないよ」

 そうかな、と返事をする代わりに私のお腹がそれなりに大きな音を立てた。そういえばまだ昼食を摂っていない。このベースキャンプとフロレオ自然公園とを往復するばかりだったから、皆で食べた朝食以降で口にしたのは、博士が途中で渡してくれたスポーツドリンクだけだった。意識するとにわかにお腹が空いてくる。夕食は、何だろう。

「こちらに関心がない、あるいは敵意や警戒ばかり向けて来るような相手に対して、興味と関心を持って根気よく待ったり追い掛けたりするのって実はすごく大変なことだ。技を繰り出せるポケモンならともかく、キミはただの人間だしね。それでもキミは楽しそうに、繰り返し何度もやってのけた。才能があるよ」

 才能。ガラルでのジムチャレンジで勝利を重ねた私への称賛に、その単語が混ざり始めたのは、四つ目のジムに挑んだ辺りからだったように思う。あの頃は見ず知らずのトレーナーの方々に応援してもらえることが純粋に嬉しかった。応援の言葉などなくとも私は戦い続けただろうけれど、それでも貰える応援をあの頃はちゃんと「力」に変えることができていた。彼等が私に期待したのは「勝ち続ける」という才能であり、私はそれを幸いにも不足なく持っていたからだ。
 けれども今、彼等がチャンピオンとなった私に期待しているのは「面白く勝つ」「盛り上がるバトルをする」ことで……その才を発揮できない私に落胆の声が降るのはある意味当然のことだったのかもしれない。でもそうした大勢の声を受け止めながら戦うことにはもう疲れてしまった。苦痛を承知の上でボールを投げることがどうしてもできなくなってしまった。だって私はただ、インテレオンたちといられるだけで、一緒に楽しく戦っていられるだけでよかったのに。私はただ、ポケモンが。

「キミの好意や興味は独り善がりのものじゃない。それは写真に写るポケモンたちを見ていればよく分かる。先に何枚か見させてもらったけれど、素晴らしいものだったよ。正直、嫉妬しそうになった」
「……そう、かな」
「うん。キミ、ポケモンが本当に好きなんだね」

 ポケモンが好き。息をするより優先されるべき、私にとって何よりも当然のこと。戦えなくなっても、ボールを投げられなくなったとしても、それでも愛していた。何にも代え難く大好きだった。その、不格好ながらも確かな愛は今でも続いている。途切れることなどありはしない。
 うん、と子供のように何度も頷いた。そうだよねと優しい相槌が降ってきた。大好きだよ、大好きなんだと呟いた。分かっているよと同意してくれたので何度も何度も繰り返した。肩が震え、声が揺れ始めてもトオルさんは動じなかった。ハンカチを差し出すなんて紳士的なことはしなかったし、あやすように肩を抱いてくることもなかった。ただ励ますように、労わるように、私の頭の上にポンと軽く手を乗せて、撫でた。

「大好きだから、諦めることなく頑張りたかったよ」
「うん」
「頑張りたかったよ」

 大好きだったはずだ。レンティル地方のポケモンだけを愛したつもりはなかった。私に「ポケモンってとても素敵な生き物」と教えてくれたのは、他ならぬあのガラルの地であり、あの冒険であり、そこには必ずメッソンが、インテレオンがいてくれて、出会ったトレーナーたちとの時間だって素晴らしいものであったはずで。

「頑張っていたよ。キミは誰よりも頑張っていたさ」

 駄目だ、捨て置けない。私がガラルに置いてきたもの全て、ただの一つも「なかったことにしていい」ものなどありはしない。だってあんなにも愛していた。今だってそうだ。けれども苦しい。苦しくて苦しくて堪らない。
 此処はこんなに楽しくて幸せなのに、あちらはあんなに苦しくて辛いのに、それでも私は戻らなければいけない。一度は全て捨てて逃げ出したいとさえ思った全て、実際にこうして私の手元からなくなってしまった全てを、ひとつ残らず取り戻しに行かなければいけない。ただそのためにはきっと、苦しみさえひっくるめて愛だとしてやるだけの覚悟が必要だ。今の私にはまだその持ち合わせがない。

2021.10.24

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