5 研究所の敷地内をぐるりと一周し、ネオワン号の運転とカメラの操作に問題がないことを博士とトオルさんに確認してもらってから、私はこの不思議な乗り物ごと、のどかな公園のような場所へと送り込まれた。当然のように「ワープ機能」がネオワン号に備わっていることにもまた、息が止まるのではないかという程に驚かされてしまう。 「自然公園はフィルやリタもよく探索する場所でね、安全なルートがネオワン号に登録されていて、自動運転で進んでいくから何にも心配しなくていいよ」 通信機能まで付いているらしく、ネオワン号のスピーカーからそんな説明をしてくれたところで博士との通信は途切れた。 さあ此処からは自分で探索をしないといけない。自動運転だからルートに迷う必要はないらしいけれど、そのルートの中で何を見つけ、何に気付き、何を得るかは全て「私」の五感と挑戦に掛かっているのだから、のんびりしてはいられない。 ネオワン号の現在地には「フロレオ自然公園」と表示されていた。フロレオとは今私がいるこの島の名前で、レンティル地方は様々な気候の島で成り立つ、海に囲まれた場所らしい。外に広がる海を想像しながら、きっとこの機械で海上を走ることもできるのだろうな、と思った。自転車を水上モードにして湖面や海面を駆けたことはあるけれど、ネオワン号に乗って渡る海はきっと格別なはずだ。 惜しむらくはこの自然公園に海がなかったことだけれど、そんなことをすぐに忘れ去ってしまうくらい、此処での「調査」は本当に面白かった。見るべきものも、考えるべきこともありすぎて目と耳が幾つあっても足りないくらいだった。これまでインテレオンたちに頼っていた「周囲の気配」の察知を、自らの五感だけで成し遂げなければならない状況……それを意識するだけでもかなり気力を消耗したけれど、学びと気付きと感動のリターンが多すぎて、疲労などすぐに気にならなくなってしまった。 草むらで戯れているピチューやサルノリを見つける。目が合うとすぐに背を向けて駆け出してしまったので、慌ててカメラを構えて写真を撮る。空を飛んでいるピンク色の虫ポケモンにもカメラを構えれば、画面に「ビビヨン(はなぞののすがた)」と表示された。ストリンダーやイエッサン、バスラオのように、性格や性別などで姿が異なるポケモンはどうやら他にも数多くいるらしいと楽しい気付きを得る。 草原に佇むバッフロンたちはこちらに反応してくれなかったので、ネオワン号のメロディ再生機能を使って気付いてもらおうとアプローチをかけると、にわかに活発になってアフロ部分での頭突きを始めてしまった。手あたり次第に何でもやってみるというのも危険らしいと反省しながらも、こちらに向かって突進してきたり技を繰り出したりするようなことは起こらなかったため、一先ず安心する。この島のポケモンたちには、人間が「危害を加える存在である」という認識が限りなく薄いのかもしれない。 小川を渡り、木々の生い茂る場所を抜けて、湖に差し掛かったところでまたピチューやサルノリと再会する。更に進んだところではビッパというポケモンが土や枝を運び込んで何やら巣のようなものを作っていて、その地道な工事と着実に仕上がっていく丸い巣に思わず感嘆の息が漏れた。コイキングがピチピチと跳ねる水辺の近く、大きな木の中ではホーホーが眠っていて、カメラのシャッター音を近くで鳴らしてもぴくりともしなかった。ダイマックスの巣穴で幾度となく出会ったホーホーだけれど、そういえば本来なら夜行性のはずで、昼間はずっと眠っていたいのだろう。昼間に巣穴へと突撃されてしまい、あの時は随分と機嫌が悪かったのかもしれない……と、過去のバトルの状況を思い出しながら笑みが零れる。 看板の上からこちらを見る鳥ポケモン、スバメに見送られて向かった先には花畑が広がっていた。鎧の孤島でもよく見かけたキュワワーが、あの島よりもずっと華やかに咲き誇る花々を喜ぶようにくるくると回っている。花畑の中央で見たことのない……黄色い花束をドレスのように纏った大きなポケモンが手を振ってくれたので、思わず手を振り返し、撮影のタイミングを逃してしまった。惜しいことをしたと思いながらカメラを構えれば「フラージェス」と表示された。その直後、フラージェスはまるで魔法を唱えるかのように細く長い両手を伸ばし、グラスフィールドにも似たオーラを花畑一面に広げた。より鮮やかに色付いた花々を喜ぶように、花畑の主を称えるように、周りでキュワワーが一層賑やかに躍る。キャッキャという高い声に振り返れば、花畑の中に埋もれるようにして、ピチューにサルノリ、ヒバニーたちが楽しそうに遊んでいた。 仲が良さそうなその様子も写真に収めようとしたけれど、カメラのシャッター音が急に軽くなり、撮影ができなくなる。どうやら写真データがいっぱいになってしまったらしい。 さて困った。まだ撮りたいものが、見たい姿が、試してみたいことが、沢山あるのに。もっと、貴方たちと一緒にいたいのに。私も仲間に入れてほしいのに。 「……」 一言も声を発せないまま、ネオワン号の自動運転に身を任せる形で研究所に戻ってくる。広場で帰還を待っていてくれた博士は、けれども私の顔を見て、おかえりを言うより先に慌てて駆け寄ってきた。驚いた表情のままに私の肩をぐいと掴んだけれど、やがて眉をくいと下げ、安心したように息を吐きつつ笑ってこんなことを言った。 「まずは深呼吸をした方がいいね。息を忘れるほど楽しかった?」 ひゅ、と吸い込んだ息も、ふう、と吐き出した息も震えていて、情けない有様だった。軽い酸欠状態になっていて、ひどく顔色が悪かったらしい。とにかく、楽しかったかと尋ねられたことだけは分かったので、首が折れてしまうのではないかと思うくらいに激しく何度も縦に振った。 「ルイやリタならともかく、ポケモンを見慣れているはずのキミがここまで夢中になってくれるとは思わなかったよ」 いや、あれは「楽しい」だったのだろうか? 博士の助言通りに大きく肩を使って深呼吸を繰り返しながら私は改めて考える。勿論「楽しくない」はずはなかったのだけれど、ただ楽しかったとするにはあまりにも言葉が小さすぎる気がした。とにかく夢中だった。必死だった。途中からは集中しなければという意識さえ忘れていた。 私は、私がポケモントレーナーであったという事実どころか、撮影の途中からは……私が「人間である」という至極当然のことさえ意識から手放しかけていたように思う。 そう、まるで彼等と同じ生き物になれていたかのような、同じ世界に同じ姿で一緒にいられているような心地。自分が、カメラのレンズという瞳を持った、ポケモンに類する生き物に生まれ変わったような、そんな気分にさえなって、「私も混ぜて」と言いたくなって。 でも言葉を発することができなかった。声に出してしまえば、言葉を操ってしまえば、それこそが「私が人間である」という証明になってしまうような気がしたからだ。自らの声で自らの夢物語に幕を引くような愚かな行為になってしまうように思われたからだ。 ただ、これは後付けの理由かもしれない。本当はただ、興奮しすぎて声を出すことを忘れていたという、それだけのことだったのかもしれない。それでもあの時、喋らなくてよかったと心からそう思える。だって言葉を発してしまえば、否応なしに突き付けられてしまうことになる。私の「現実」を。「私は人間で、ポケモントレーナー以外の何者でもなく、こんな世界に少しの間甘んじたところで、本当の責務からは絶対に逃れることができない」という現実を。 あの綺麗な花畑の真ん中で、そんな風に絶望したくはなかった。夢から覚めるのはもっと、もっとずっと後がよかったのだ。 「ちょっと待っていなさい、喉が渇いたろう」 顔色が戻ってきたことを確認してから、博士はネオワン号の椅子にぐったりと腰かけている私へとスポーツドリンクを差し出してきた。ボトルの表面に付いている冷たい水滴が心地良い。「ありがとう」と告げた声はまだ掠れていたけれど、彼は笑いながら「どうぞどうぞ」と促して、私がそのボトルの中身をあっという間に空にするところをただ見ていた。 「ついさっき、トオルもフィルを連れて別の場所へ調査に出掛けたんだ。キミが撮影した写真の評価と整理は彼が戻ってからにしよう」 「あ、そうだ写真……データがいっぱいになってしまったみたいで」 「はは、最初から随分とハイペースで撮影したんだね。一旦こっちで預かっておくよ、お疲れ様」 おそらくデータ管理をするための補助媒体だろう、博士は白衣のポケットからタブレットを取り出す。彼の大きな手に収まる小型のそれをかざすだけで、私が首から下げていたカメラが自動的に起動し、七十枚を超える写真データが一気に流れ出ていった。 「これで、もうこのカメラに写真データは残っていないの?」 「そうだよ。写真の確認はあとで研究所の大きなパソコン画面で一緒に見よう」 「それじゃあ」 私は再びカメラを胸元に構え直して、駄々を捏ねる子供のような気迫で博士へと向き直り、声を上げた。 「もう一度行ってきてもいいかな。何周しても、発見が尽きそうにないんだ!」 驚いたように目を丸くした博士から「今すぐに?」と言葉が零れる。「今すぐに」とオウム返しにすれば、博士はすっと目を細めてから「勿論いいよ」と笑って私の肩を叩いて送り出してくれた。 「ルイも来たばかりの頃、全く同じことを言ったよ」 「!」 「日が沈んでからも出掛けるのをやめようとしなくてね。あの日は夕食を食べさせるのに随分と苦労したなあ」 懐かしむような声音に慌てて振り返ったけれど、博士は悲しんではいなかった。そこには「ルイならきっと何処にいても元気にやっているだろう」という確かな信頼が見て取れたし、やはりそこに私を責める心地は一切存在しなかった。 そのことに安心した私は、そのままネオワン号のワープ機能を起動させる。大きく浮き上がり、研究所の風景が消え、自然公園に満ちるポケモンの気配が五感に流れ込み始めた頃に、通信機能を使って博士が「あのさ」と、先程の話の続きを落としていく。 「ルイが『トラブルメーカー』たる理由、そしてキミが『悪戯』される理由が……少し分かった気がするんだ」 「えっ?」 「キミたちみたいな子、きっと『みんな』大好きなんだろうね。そこら中にいる小さなポケモンたちから、神に似た力を使いこなす超自然的な存在まで、すべからく」 彼はどんな表情でそう言ったのだろう。私はどんな表情でそれを聞いていたのだろう。表情を知りたかったという悔しさよりも、この動揺を知られずに済んだという安堵の方が大きく勝る。それでも、しばらくは落ち着くことができなかった。 この、神隠しにも似た悪戯が、愛に依るものだって? 馬鹿げている。 馬鹿げていると思うのに、私はその悪戯によって手に入った一時の夢物語をもう既にこんなにも愛している。 2021.10.23
800歩先で逢いましょう(第二章)